【J.D.Salinger】違和感と異和感(1)


02月04日。木曜日。
雪が降ってからというもの、
冷気がそのまま地面にへばりついているようで、
…夜明け前は、イカレた寒さだ。

縮み上がった股間を押さえながら、
始発に乗り込むべく息を切らせる出勤ダッシュ。
…ギリギリセーフが尋常になっている。

本日は「朝のお務め」後、ブライダルフォト会社へ。

求められている写真のズレを指摘され、
抜本的な意識改革に取り組まねば…と、というか、、、
基本的な撮影技術のなさに我ながら呆れかえる。

これから毎週研修を行います…というありがたいお言葉。
見捨てられないよう、研鑽を積まねば。

      ●

1月27日ジェローム・デイヴィッド・サリンジャー(Jerome David Salinger)
老衰のため死去、享年91歳。…との報道が29日付夕刊の一面に掲載された。

その後、翻訳家柴田元幸氏の追悼記事~「生きる違和感」に普遍性~が1日付朝刊に掲載された。

その記事の一節がボクの中のおざなりだった原体験を目覚めさせ、
以来、ずーっと引っかかっている。

  ありていにいえば、自分がいまここにこうして在ることへの違和感・苛立ちといった、
  むろん若者にありがちではあれ、決して若者占有ではない相当に一般的な思いが、
  「キャッチャー」や「ナインストーリーズ」のせわしない、自意識過剰気味の語りを通して
  伝わってくるのではないか。アイデンティティの確立などと世にいうが、アイデンティティ
  とは要するにそういった違和感を覆い隠すための物語に過ぎないとも云える。
 
  サリンジャーの登場人物たちは、そうした物語が今一つ定かでない人間として、
  無防備な姿をさらしている。いかに生きるべきか、という問いに対し彼らは何の答えも持っていない。
  
この一節は柴田氏が一番言いたいところだったのだと思うのだけれど、
この「違和感」という感覚とアイデンティティを結びつけたところで、
…ボクは引っかかってしまった。

おぉ、まさにその「違和感」が、ボクの迷走の原動力だし、
「アイデンティティ=個性」への固執はその「違和感」の昇華でしかない。

おぉ、だからまさにボクは自身の延長としてホールデン・コールフィールドの感情を受け取ったし、
彼の一挙手一投足を嬉々として受け入れ、その反骨に有頂天となった。

【bozzo】こぢんまりした同窓会


12月7日。月曜日。
師走の一週目終了。
すでにカウントダウンモード。

しかも絶好の行楽日和。
晴れ渡る空。張りつめた空気。

6日の日曜日はNAHAマラソン
去年の今頃は、58号線を行ったり来たりしていた。
あれから1年。今年はどんな大会だったのだろう。
もう、遠くを見つめる目になってる。

しかし、なぜか昨日は発熱。
一日寝込んでしまった。飲み過ぎたせいだろうか。

     ●

12月5日。土曜日。
飲み過ぎた原因は、
大学時代の友人が4人遊びに来たからだ。

こんなことでもないと集まらないだろうって、
沖縄から東京へ帰還した祝いと忘年兼ねて集った。
当初は7人参加の予定だったけど、
やはり年の瀬、仕事がうまく回らなかったり、
体調を悪くしたり…と、結局4人となった。

ま、それでも4人集まれば、昔話に花が咲く。

「何年ぶりに会ったんだ?」から始まって、
「最近、どうなの?」「子供いくつ?」と
生活主体の話題に終始。

個々の仕事がどう…とか、あいつはどうした…とか、
そういった込み入った話はまったくせず、
現実生活に追われている自分たちの話で盛り上がる。

…とは言いつつ、学生時代に連んでいた連中だから、
話はとりとめなく進行し、いつのまにか話題は大学のことに。

学生が減って、入試の倍率が低くなった…から始まって、
科目が細分化された…とか、施設が充実した…とか、
学生がやる気ない…とか、覇気がない…とか、
ま、実際に大学に出入りしているから出来る話。

その友人が最近バイクにはまっちゃって…と語った話が、なんとも目からウロコ。

反射神経など身の衰えを体感すべく中型免許を取得して、
サーキットでバイクを走らせるらしいのだが、

革のつなぎを着てフルフェイスで、レースでもやるのか?…と聞くと、
「いやいや、危ないから」やらない…という。

じゃ、サーキット限定でなぜ走るのか?…と聞くと、
「公道じゃ危ないから」いやだ…と。

ではサーキットでひたすら走るだけ?…と聞くと、
「そう、スキーみたいにひたすら走る」のが気持ちいいのだ…と。

ゲレンデに集うスキーヤーが滑降をただ繰り返すように、
その友人はサーキットに出かけ、ひたすらバイクを周回させるのだ…という。

スピードと一体化することで、
日頃の鬱憤を吹き飛ばす。

目的がはっきりしていて、理にかなっていて、見事な話だった。

ただ、あまりにも自分の思考から文脈がずれていて驚いた。
なるほど。そういった快楽の得方もあるんだな。

20年来の友人と集う。
そこにはやはり、言葉だけじゃない、
空気全体から和むものがある。

面白いもんだ。

【CAMEL】操上和美×町口覚(2)


1936年生まれの操上和美さんが
2009年から新たな媒体を立ち上げる。

…写真集ではなく、雑誌という形態で。

そこには写真家・操上さんなりのスタンスがあった。

「じっとしていると観念が勝っちゃうんですよ。
 運動をしないと駄目なんで。」

「写真に向かうエモーショナルな感覚を大事にしたい」

「コンセプトありきで動くと写真がつまらなくなる。
 ブレながらも直感を第一に。だから運動が必要なんです。」

写真は欲望の断片…と語った操上さん。
自分の感性をニュートラルに維持するにも
運動としての雑誌【CAMEL】は必要なのだという。

観念で撮ったら、つまらなくなる…そのスタンスは
どこまでも写真家操上和美そのもの。

今回のアイコンである「清原和博」も、
無冠の帝王が持つ不器用で一途な生き方に
「生きる哀しみ」を見たから。

そこに自分の欲望が動いたから…だという。

      ●

トークショー終了後、
サイン欲しさに購入した「NORTHERN」手に
操上和美さんの前へ。

40年以上第一線で突っ走ってきた操上さんの
唯一過去を振り返った写真集「NORTHERN」(2002年出版)。

生まれ故郷、北海道富良野の情景が132点も収められた
ルーツを辿る旅も、操上和美なりの欲望が動いた結果なのだろう。

84歳で荼毘に付された父の写真のあとに、娘であるボクの友人の写真があった。

「この下にサインしてください。」

少し照れながらも、筆ペンをゆっくり走らせ、
…Kurigami…とサインする操上さんに
あらためて畏敬の念を抱き、見つめる。

最後に握手を交わし、しかとパワーを受け取った。

「Respectが人を育てる。」
そんな言葉を思い出した。

今ボクがここに立っていること、
それはリアルな写真家「操上和美」のおかげだ!
…と、23年の月日を振り返りながら思う。

胸がいっぱいになった一日だった。

【CAMEL】操上和美×町口覚 (1)


11月26日。木曜日。
ヒートテックでは汗ばむ陽気。
今週末はこんな感じで温かいらしい。

18度が温かいって、…2ヶ月住めば人間変わるもんだ。

西麻布のSwitchにて行われた
雑誌CAMEL発刊記念トークショーへ行く。
写真家操上和美がしかける
彼自身の責任編集による季刊誌…とのこと。

エディトリアルデザインを務めた
パリフォト帰りの町口覚さんも
今日は少し緊張気味。

そりゃそうだ、あの操上和美だ。
見てる側も血潮がドクドクとしてきた。

      ●

話は高校時代に遡る。

高校二年生の春休み、友人に感化されたボクは
美大受験の名門予備校であったすいどーばた美術学院の春期講習会に参加する。

1986年のころだ。

バブルが徐々に上がってきて
「カネは天下の回りもの」な感が出てきたころ。
中森明菜が「デザイヤー」を歌い、欲望を扇動していた。

練馬の高校生だったボクは、
アタマこそ紫色のロン毛ではあったが、
世間擦れしておらず、ウブな可愛い男だった。

だから美大に行くことで開ける世界も
まったくわかっておらず、ただ「絵が好きだから」
…という理由だけで来てしまった志望動機の希薄な生徒だった。

少数先鋭ながらも
都内各地から志しの高い高校生が
その春期講習会には集まった。

毎日が目からウロコの状態だった。

こんな衝撃は男子校に入った時以来。

練馬の田舎モンからすれば、
渋谷から通ってくる高校生は
異彩を放っていた。

ファッションも奇抜でツッパッていながら、
センスもハイレベルで話題も多岐にわたり(映画・芸術・写真・・・)、
当然のごとく絵も「上等」だった。

こちらは容姿こそ派手ではあったが、
中身が伴っておらず、ツッパリ度合も生易しい
チェリーボーイってありさま。

そんな自分を逆に面白がってくれたのか、
講習も終盤にさしかかると、渋谷の連中とつるむような関係となり、
授業終了後に池袋でお茶をしてうだうだダベることもしばしば。

そのメンバーの中に、一際色彩センスの鋭い女の子がいた。
…それが操上和美さんの娘だった。

ボクはそこで初めてリアルな「写真家」を知ることとなる。

当時操上さんはADの浅葉さんやCの糸井さんらとPARCOの広告を手がけていた。
ADやCなどというアルファベットが何を意味しているのか、ウブな高校生は知るよしもない。
だいたい広告制作のイロハすら、まったくわかっていなかった。

それでも「操上和美」という名前は字面そのままのインパクトで強烈に焼き付いた。

当時のボクにとって、リアルに活躍する写真家は「操上和美」ただひとりだった。

【雨の日の国道バンド】ウヰスキー


9月末までに余計なモノは処分しようと開かずの段ボールを物色していた
ら、20年前によく聴いていたカセットテープmaxellUD46なるものが出て
きた。「雨の日の国道バンド’89 01/17国立リバプールLIVE」と書かれた
そのテープは大学時代に尊敬していた先輩のバンドで、当時学内の数ある
バンドの中でも特異な個性を発揮していた。

「雨の日の国道」から想像できるように国立界隈の忌野清志郎をルーツと
しながらも日本語をブルースに乗せて渋くキメるボーカル「タッチャン」
のソングライティングが玄人受けするバンドだった。早速20年前のその音
をデッキでかけてみる。カセットテープから流れる20年前の空気。LIVE
録音が生々しい。A面2曲目に「ウヰスキー」と言う名曲が入っていた。

  ■ウヰスキー
  それはただウヰスキーを選んだオマエが悪い
  それはただウヰスキーを選んだオマエが悪い
  そうさ、オマエが悪い

  街みたいだ オマエの上は
  街みたいな オマエの上で
  オレの気持ちが 和む 

  ただ優しく 唄ってくれた
  礼を言いに 此所へ寄ったのさ
 
  それはただウヰスキーを選んだオマエが悪い
  そうさ、オマエが悪い
 
  街みたいだ オマエの上は
  街みたいな オマエの上で
  オレのカラダが 和む

当時からこの歌詞とメロディは秀逸で「雨の日の国道バンド」と言えば「
ウヰスキー」というほどの代表的なブルースなのだが、やはりこの歌詞が
ものすごく意味深で魅力的だから引き込まれてしまうのではないかと振り
返ってもそう思う。

当時「タッチャン」から直接聞いた話ではこの歌詞は実話に基づいて創っ
たようで「酔いに任せて抱いたオンナへのオマージュ」とのことだったが
(間違っていたらごめんなさい)なによりオンナのカラダを「街みたいな」
と表現しているところが当時弱冠20歳のボクには到底理解できず、その表
現の仕方に大人を感じひたすら「タッチャン」を憧れていたように思う。

あらためてこの名曲を20年ぶりに聴き返して「街みたいだオマエの上は」
の部分を20年の経験則と照らし合わせてみると「ウヰスキー」の酔いに任
せてふわふわ上空を飛んでいるようなハイな気分で眼下を見下ろすと「街」
のような起伏を伴った「オマエ」のカラダがあって「オレの気持ちが和む」
という状況描写は理屈っぽく出来るけれど、その情景を「街」に喩えるセ
ンスには脱帽してしまった。

なんとなくネットで「雨の日の国道バンド」を検索したらちゃっかり後輩の
塚本功が新生ネタンダーズで「国道」の楽曲を2曲カバーしていた。驚き。

【MUTE BEAT】Coffia


1986年頃だったと思う。
たしかClub KINGのイベントで
芝浦インクスティックという海岸一丁目のクラブで見たのが最初だ。

MUTE BEAT/Coffia

新宿2丁目のレゲエバー「69」。
高校生にもかかわらず、高校の友人に連れられて
金曜日の夜中に迷い込んだ地下の穴蔵。

ワキガとガンジャの匂いが入り交じり、
黒人が腰をくねらせ、股間をグラインドさせている。

6畳ほどのスペースに20人ほどの男女が入り交じり、
赤い照明と刺激的な匂いとSEX,SEX,SEX…!!

なにがなんだかわからないうちに
Reggae =猥雑なイメージをすり込まれた。
脳天に弾丸を撃ち込まれたようなカルチャーショックだった。

Bob Marleyが歌う「OneLove」のフリーダムさは、
その猥雑な空気とともにユートピアにおける「性の解放」を
純粋な少年に植え付けた…。

だから、ボクにとってのReggaeは「童貞喪失」と同意だ。

      ●

そんな歪んだ認識を正してくれたのが【MUTE BEAT】だった。

こだま和文のトランペット!その哀愁!
Drum’nBaseの揺るぎないビート。
ひたすら2ビートを繰り出し、感情の昂揚も押さえ、
波風立てず、静かなGrooveで観客を熱狂させる。

まったく新しい音楽体験だった。

猥雑さの破片もなかった。

どこまでもクールで、ワビサビの音楽だった。

またもや弾丸を撃ち込まれた気分だった。

     ●

だから、ボクの血潮には
猥雑さと精緻な知性を合わせて持つ
アンビバレントなビートが流れている。

それがボクのReggae体験。

そして、この体験がトランペットを吹くきっかけとなった。
20年の歳月を振り返って、聴き返してみても
弾丸の衝撃は変わらず保たれていた。

…猥雑であり、知的である、2ビート。
 これが、ボクの原点。

【牛腸茂雄】Self and Others


釈然としないまま、散髪を終え、
そのままプールへと向かう。

旅の疲れを全身に巡らせるべく
水の中で筋肉を弛緩させる。

慣性にまかせて1キロを泳ぐ中、
アタマの中だけは、
名古屋で感じたものを言葉にしようと
ぐるぐる回転していた。

      ●

牛腸茂雄のSelf and Othersの
窓辺に佇む少女の写真が、突然想起される。

牛腸茂雄の写真がなぜ、
あれほどまで胸に迫るのか。

2005年の大森克己ワークショップで
自分がなぜ、フィリピンで撮影した妻の写真を
はじまりの1枚にしたのか。

村上春樹の処女小説「風の歌を聴け」の中で
ラジオNEBのDJが涙を流しながら、
なぜ「僕は・君たちが・好きだ」と語りかけたのか。

      ●

それらの断片が、ふわふわとつながって
木村さんの思いが、言葉になった。

      ●

そこには「共生」という言葉があった。

ボクはこの10年間、木村さんと時間を共に、
…生・き・て・い・た。…そうだった。

だからこそ、転機の思いをしっかり伝えたいと思った。

木村さんの家族から語られる木村さんの思い出に
うなづく木村さんが想起されたのも、
そこに木村さんが息づいていたからだ。

牛腸茂雄の写真には、牛腸自身の「生」が投影されていた。
そこに共鳴するから、胸に迫るのだ…と
はじめて彼の写真を意識的に言葉にすることができた。

「はじまりの1枚」が秀作なのは、
共生するふたりの時間がしっかり焼き付けられているから
…だと、解釈できたのも、「共生」というワードが出てきたからだ。

      ●

漠としていた写真の思いが、カタチになった瞬間だった。

ボクが撮らなければいけないのは、「共生」の時間だった。
共に生きている同時代の人間の「生」を写真に焼き付ける。
自己投影ではなく、自身を媒介にして、写真に定着させる。

それが、ボクのやりたい写真のカタチだった。

なぜ他者を撮りたい…という思いを前に
自分が怖じ気づいていたのか、それも合点した。

他者の「生」を受け止めるほど、
自己の足元が安定していなかったからだ。

      ●

今、こうやって身辺を整理しながら
これからの人生を考えると、
やっと自分が目指すべき表現に辿り着けたような気がした。

「死」への漠とした不安に内省するのではなく、
共生し溌剌としている「生」をみつめ、写真に定着することで、
同時代の空気が表現され、共鳴を生む。…そうなのだ。
そんなこともわからないで、何を表現しようとしていたのだろう。

あらためて牛腸茂雄の写真を眺める。
 ……涙が、…出た。
彼(Self)の「生」が、他者(Others)にしっかり定着していた。
 …感動した。…これだと、思った。

何かが、言葉になろうともがいていた


名古屋から戻る機体の中で
漠然とした思いを整理していた。

 「何かが、ふっと、降りてきたのだ」
  それはなんだったのだろう?…と。

那覇空港に降り立ち、
モノレールで自宅へ帰る。

夕方5時の西日が、
車内の人々を照らす。

高校生やOLがそれぞれ
帰途の物思いに耽る中、

転送されてきた会社のメールを
他人事のように眺めている自分。

思えば、ずうっと自分自身のことばかり
写真に定着しようとしてきたなあ…。

      ●

気分を一新すべく
いつもの散髪屋で髪を切る。

10年来のおつきあいである理容師に
身辺の顛末を伝える。

「写真でやっていこうと思うんだ」

「それは思い切ったねえ」

言葉にしながら、目指す未来を
イメージしようとしているボクがいる。

  木村さんの遺影の前で感じた何か…
  それは、何だったのだろう。
  茫漠とした感覚が、言葉になろうともがいている。

      ●

木村さんが遺してくれたもの


11月17日。月曜日。
名古屋へ飛んだ。

雨の降る沖縄から
もみじ輝く秋晴れの名古屋へ。

ラジオCMの録音が
表向きの目的ではあったが、
本当はしっかり報告をしておきたかった。

木村智さん。
ちょうど1年前、
ぼくたちの前からいなくなった。

10年前の沖縄で
広告の面白さを教えてくれた人。
とにかく派手な存在で、
一挙手一投足が愉快、豪快な人。

あのスタートが
この10年を支えてくれた…と言ってもいい。

だから、しっかりと報告しておきたかった。
元カメラマンであった木村さんには。

「これから写真で食っていこうと思います。」

遺影に手を合わせて、しっかりと伝えたかった。

      ●

八事のご自宅へ向かう車中、
そんな思いが巡る中で、
故人に伝えるってどういうことだろう?

…ふと、そんな思いがよぎった。

      ●

木村さんの遺影を前にして、
しっかりと手を合わせ、
思いの丈を伝えたあと、
奥さんや娘さんとお話をさせてもらった。

その場所に木村さんもニコニコ同席していた…ように思う。

2年前に急に犬が飼いたくなったエピソードや、
「木村がしかりつけると犬が大人しくなる」
…といったお話を受けながら、うなづいてる木村さんを感じた時、

ボクが木村さんに伝えたい…と思ったこの気持ちこそ、
写真を通してボクが表現したいことなんじゃないか…と

    何かが、ふっと、降りてきたのだ。

【南国ドロップス】関西ツアー その3


京都について、ちょっと。

    ●

1977年頃だろうか。
小学校2年生のボクは…

大阪府枚方市楠葉花園町1-5-5
樟葉センチュリータウン301号

…に越してきた。

当時の樟葉は
ホントに何もない田舎の新興住宅街で
その象徴としてセンチュリータウンがあった。

樟葉センチュリータウン

京阪電車一本で京都へ行ける土地柄から、
ボクら家族は毎週末のように京都へ出かけた。

週末になると、京阪電車で京都三条へ。

阪急や国鉄のイメージはまったくない。
京都イコール京阪電車だった。

清水寺や金閣寺
三十三間堂、八坂神社や知恩院など、あらゆる古寺を巡礼した。

日本の古き佳き文化を
早くから体感できた。

今でも仏像を見ると、落ち着く。

祇園まつりも体感した。
わざわざ小学校を休んで観に行った記憶がある。

夏休みは大文字焼きを鴨川のほとりで眺めた。

京都イコール家族。
そんな印象が強い。

だから、悪い印象がまったくない。

     ●

中学校2年生で大阪を離れるまでの6年間。

京都イコール古寺のまま、固定観念として
ボクのアタマの中で京都は永久保存された。

そして、今回。

鴨川も河原も土手も
八坂神社も知恩院も
三十三間堂も京阪電車も
何もかもが昔の記憶のままだった。

だからこそ、

11月1日に過ごしたひとときは
とても刺激的だった。

京都にもこんなところがあるんだ。
純粋にそう思った。
小学生のまま、夜遊びをしているような気分だった。

京都に住みたい…と思った。