高円寺北中通り商店街


高円寺に降り立った。
中学2年から大学4年、その後の社会人2年をこの土地で過ごした。
11年間…人生のおよそ1/3をこの地に費やした格好だ。

多感な時期に、さまざまな事象をスポンジのように吸い込んで
ボクは大人になっていった。
高円寺には、そんなボクの源泉が豊富にある。

古着屋、中古レコード屋、ライブハウス、ゲーセン、
中古本屋、高架下、客引き、ピンサロ、沖縄料理屋…。

降り立って、あきれた。

北中通り商店街の入り口は、パワーUPしていた。
かつてのピンサロは、キャバクラと名前を変えて
軒を連ねていた。見事に奥行きと彩りを深めていた。

壮観だった。

高円寺だ…と感入った。

とにかく餃子。


宇都宮にはCI(コーポレイトアイデンティティ)全盛の
1988年に一度、足を運んでいる。

その時は看板業者のアルバイトとして
宇都宮にある銀行のCIを全面変更する大工事に参加した。

大きな袖看板を4tトラックに括り付け、
東京から高速を飛ばして、宇都宮の中心に入った。

銀行の閉店後、袖看板の取り替え、
ガラス面の意匠シート貼り替え、入り口真鍮サインの付け替え…と
作業は明け方まで続き、宇都宮の餃子は遠のいた。

作業も終盤にさしかかり、眠気も頂点に達した頃、
ガラス面のカッティングシートを貼り替え中に、
ボクは大きな失態を演じた。

カッター作業で小指を切り落としかねたのだ。
夜中に見る鮮血は、若輩にはきつすぎた。
自分に対して無性に腹が立ち、ズキズキ痛む小指を憎んだ。

結局、悪態をついたボクを除いたメンツで
職人たちは宇都宮の餃子にありついた。

ボクは4tトラックの助手席で、突っ伏したまま
恨めしく餃子の赤い看板を眺めていた。

宇都宮の餃子。

着いたら、とにかく餃子にありつこう。
…新幹線の車中でそんなことばかり考えていた。

憂国忌


今日11月25日は三島由紀夫の命日…憂国忌である。
しかも、生きていれば80歳…という節目の年。
奇しくも行定勲監督が「春の雪」を映画化され、
改憲論争で自衛隊の存在が取り沙汰されることもあって、
三島由紀夫が没後35年を経て、再び注目されている。

ボクと三島の出会いは24年前、中学1年の時になる。

大阪の男子校に通うこととなり、
徒歩通学から電車通学へと生活圏が一挙に広まり、
それまでの情報量からは想像だにせぬ情報の殴打に遭遇し、
無垢な精神が、翳りを持ち始めた頃…。

同級のインテリ徳川君が下校の道すがら、「三島由紀夫」を口にした。
…ショッピングモール内の書店に立ち寄った時であった。

「三島由紀夫って生まれた時の記憶があったんだって。」

「彼は昭和元年に生まれて45年に死ぬまで、すべてを自分の意志で決めたんだ。」

「つまり、自分の人生を意識的に生き抜いた人だったんだよ。」

徳川君の言っていることが、当時のボクにはまったく理解できなかった。
ただただ同級の彼が発する「意識的」という言葉に戸惑い、「三島由紀夫」に戸惑った。

その時、書店で導かれるまま眼にした「三島由紀夫」の朱色の背表紙と
大胆なレイアウトの新潮文庫に、言いしれぬ興奮を覚えたのを、今でも覚えている。

とにかく、ボクはその時「知的興奮」に目覚めたのだった。