【May_31】奥山ばらば『ながれたり』オンラインLIVE


奥山ばらば『ながれたり』オンラインLIVE

1日遅れで観劇。
ばらばさん、まさに瑞丈さんとのセッションから観てきたけど、
駱駝艦以降、着実に自分の動きを磨いていて、
駱駝時代のうちに秘めた動きと、
重心を上げた軽やかな旋回との対比が新しかった。
樋浦君とのDUO楽しみ。

night session vol.5『薔薇の秘密』
笠井瑞丈×奥山ばらば(大駱駝艦)

【on_Flickr】0521_ROSE

2015年のばらばさんセッションハウスデビュー公演。
#photobybozzo

【May_27】第32軍司令部壕公開


75年前のきょう、旧日本軍が撤退… 首里城地下「司令部壕」公開の声強まる

首里城炎上によって、第32軍司令部壕公開が再燃しているが、
ボクも2008年12月13日に琉大の教授に連れられ、
この壕の存在を知っていただけに、今後の動向が非常に気になるところ。
「沖縄の倫理」大田元県知事が「鉄血勤皇隊」であったことはよく知られることだけど、
壕公開こそが沖縄の未来を結ぶと思う。
負の財産こそ「タフな良心」を育むのだから。

以下2008年のブログから。
↓↓↓
12月13日(土)。汗ばむ陽気。12月とは思えない。
午後1時。琉球大学の生徒に混じって首里城周辺の歴史を学ぶべく講習会に参加。
西岡先生引率のもと首里城の歴史を散策する。驚愕の連続である。
「旧日本軍首里司令部壕跡」などというものが、首里城地下に存在している…。
そのために首里は壊滅的な戦禍に襲われた…ということを。

沖縄戦はもともと本土決戦を迎えるまでの時間稼ぎとして行われた争いで、
1945年4月1日、米軍が読谷に上陸した際も、何も報復せずに力を温存し、
軍勢を南部へ移動することしか考えていなかった。
首里の頂をベースに「鉄血勤皇隊」と呼ばれる学徒隊を使って
米軍の戦車を自らの命で足止めさせたりした…という。

琉球人の尊厳を真っ向から否定し、彼らの命を爆弾のひとつとしか認識せず、
ひたすら時間稼ぎのためだけに、むやみに沖縄戦を長引かせた。
指令を司った第32軍は、もともと中国の南京大虐殺実行部隊だった。
だから琉球人の命など、中国人と同等ぐらいにしか思っていなかった。

1945年5月28日、首里司令部壕が占拠され、
摩文仁方面への退去を余儀なくされたときも日本軍は降伏せず、
ひたすら平民を巻き添えにしながら、戦禍をいたずらに長引かせた。

そして6月23日、日本軍最高責任者の牛島司令官と長参謀長が摩文仁の丘で自決を謀り、
米軍の勝利が決定的となったあとも、平民はその後2ヵ月ものあまり、
米軍の圧力に屈せずひたすら逃げまどっていた…という。
つまり、沖縄戦は日本軍から放っておかれた。

8月15日に終戦を迎え、玉音放送が流れたあとも、指揮系統が崩壊していた沖縄は、
戦闘継続が個々の判断で行われ、結果、何も知らない沢山の平民が集団自決で死んでいったのだ。

結局、沖縄守備軍の降伏調印が9月7日に嘉手納で行われるまで
約1ヵ月間も無法状態だったという事実。
実際には6月23日の司令官自決より2ヵ月半、
意味もなく戦闘が続けられていたのだ。なんということか。

そのような事実が一言も語られることなく首里城の下に放っておかれている。
修学旅行で沖縄を訪れる学生たちは、朱や金で華やかに彩られた世界遺産に誤魔化され、
南国の楽園「オキナワ」として刷り込まれて帰って行く。…それでいいのか。

そんなことで「鉄血勤皇隊」は報われるのか。
オキナワのアイデンティティはどこにいったのか?

4時間もの首里散策で、とんでもない事実を突きつけられた。濃厚なオキナワ体験だった。

#photobybozzo

【May_26】中村蓉『ジゼル』クラウドファウンディング


蓉ちゃんの『ジゼル』クラウドファンディングです!

そして『ジゼル特別30分版』を包み込んだ舞台はもう取り壊されてしまいました。
あの邸宅と共にあった『ジゼル』を是非ともステージで!ご支援何卒〜!

#photobybozzo

〈ご支援方法のご案内〉
①クラウドファンディングReadyfor
ささやかながらリターンをご用意いたしました。

PayPay
ID:yoplus
金額は、もう、おいくらでも大喜びです。

③銀行振込(ゆうちょ銀行)
記号番号:11350-08938331
名前:ヨウ+(ヨウプラス)
店名:一三八(イチサンハチ)
店番:138
預金種目:普通預金
口座番号:0893833

④海外からのご支援はこちらからPayPal
海外からご送金は手数料が発生致します。ご確認の上ご利用くださいませ。

中村蓉ホームページにも詳細を載せております。

【May_31】環境が自然=世界であるより、人間=社会になった。


我々は、人類学的な時代を
生きていた頃に持っていた倫理を、
既に失ったのです。
理由を簡単に言うと、
環境──我々のsurroundings──が、
自然=世界であるより、
人間=社会になったからです。
我々とコミュニケーション可能なものが、
人間だけに限られたということです。
それが冒頭に「間接化」と表現したことです。

(2020/03/28DarwinRoom『料理の人類学』より宮台真司)

LOHASやSDGsがどこまでも胡散臭いのは、
人間の倫理に問いかけているようで実は損得勘定による動機付けがあるから。
【人間の存続は自明ではない】という事実は、
人間界隈に閉じ込められた人間主体の社会ゆえ葬られている。
そのような人間中心社会の最たる「料理」から、考察する講座。

#photobybozzo

【May_30】「料理の人類学入門」by宮台真司


料理の人類学入門』by宮台真司@下北沢DawinRoom
日時:2020年5月30日(土)19:00〜21:00
ゲスト:宮台真司|社会学者・映画批評家・都立大学教授
料金:¥2,900 税込|配布テキスト資料付き

「人間以外の人間的な存在は料理を必要としない」故に、料理を考えることは、
自然から隔絶された人間中心主義の行く末を考えるコトになると同時に、
「共食=共に食べる」行為の減少、つまり共同体の喪失が倫理の喪失にもつながるのだ…
との考察を『料理の人類学』として語られる講座。

以下コピペ
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■なぜ人類は生き残るべきなのか。もはや少しも自明ではありません。
例えば、共同体的 な集まりtogethernessの必要を負担免除するシステム化(市場化と行政化)で、
人間は感情的に劣化していきます。これは必然です。

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■システム化(市場化と行政化)やそれを支えるテック化は、
負担を免除したい(=便利で快適にしたい)という、
遺伝的基盤に支えられた人間中心主義的なものでしたが、
汎システム化の段階に至って、人間をできる限りテックに置き換えたいという、
人間を不要にする方向で(=人間をノイズやコストとしてカウントする方向で)
脱人間中心主義化しつつあります。

↓↓↓

■我々の、人間中心主義的な料理の享受は、
人間と人間ではない生き物を、まるで自明であるかのように差別します。
そのことを前提として、社会の全てのプログラムが成り立っています。
「自然から間接化された結果、意図せず人間中心主義に陥って、生態系から復讐される」
という昨今の我々のあり方を、反省するための視座を与えるのです。

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■社会学は、家族を、「共住=ともに住む、共食=ともに食べる」
集団として、定義してきました。
1980年代とは経済的隆盛を背景に単身赴任が急増した時代です。
ただでさえバラバラになりつつあるのに、
残された家族が共食する機会も減ることで
──個人が多様な社会参画機会を得ることで──
家族の共同性が急に崩れていくのです。

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■食において最終的に問題になるのは、
認知recognitionsでなく、倫理ethicsです。
倫理は最終的に根拠がないものです。
ロジカルな根拠はないという意味です。
では倫理の基盤は何か。

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我々は、人類学的な時代を
生きていた頃に持っていた倫理を、
既に失ったのです。
理由を簡単に言うと、
環境──我々のsurroundings──が、
自然=世界であるより、
人間=社会になったからです。
我々とコミュニケーション可能なものが、
人間だけに限られたということです。
それが冒頭に「間接化」と表現したことです。

↓↓↓

■例えば、想像力が欠けた人たちは、
「自然食がいい」とか「有機野菜がいい」とかいう話をしがちだけど、
全部「身体にいい」という話に閉じ込められているでしょう。
これでは 駄目なのです。
スローフードという1980年代前半から始まった運動は、
そもそも原理的に 「オーガニック」も「トレーサビリティ」も
目的ではないことに注意しましょう。

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■汎システム化に抗うために、
まず「顔が見える範囲」に向けて、つまり仲間のために、
農作物にせよ工芸製品にせよ一生懸命に作るわけです。
仲間が食べるのだから仲間のためになるものを作ろうと思うし、
そういう努力を見ているから食べる人=買う人も、
スーパーマーケットよりは高くても仲間から買おうと思うわけです。
なぜかというと、仲間のために善いことをしようと思うという
事実性factualityが 「存在する」からですね。
つまり「我々が倫理を手放さないための運動」なんですよ。

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■他方、システム(市場と行政)に取り囲まれた我々消費者は、
自分の健康のために「オ ーガニックかどうか」「トレーサブルかどうか」
を気にして製品を需要し、会社や行政にクレームを付けます。
クレームの一部は法律や条令の立法legislationに繫がります。
だから「いいもの」を作らざるを得ません。
しかし、そこで働いているのは、
ウェーバーがいう「資本制のシステムで生き残るための損得勘定」です。
つまり、そこでは共同体(=仲間)が失われているがゆえに、
倫理が失われているのです。

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■平たくいえば、人間的な感情やそれに基づく倫理によって
「仲間のために良いものを作 ろう」と思っているのか、
「そうしないと売れないからオーガニックでトレーサブルなも のを作ろう」
「有毒な添加物を入れると法律や条令に引っかかるから添加物を控えよう」
と思っているのか、という違いです。

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■なぜ共同体を維持するのかというと、
それは「人間的なものの本質は、倫理にある」 と見るからです。
「人間的なものの本質は、善いことをしようと思うという事実性にある」ということです。
損得に閉じ込められず、損得を越えた倫理へと開かれるには、
まず共同体 が回復しなければいけません。
共同体が回復した時にだけ、我々は、その共同体=仲間を支えるものを守ろうという、
損得勘定を越えた内発性=内から湧き上がる力を、手にできます。

↓↓↓

■こうした機能的な連関についての思考それ自体が、実は生態学的な思考です。
生態学は エコロジーecologyの訳ですが、多くの人が誤解しているような
「自然は大切」というイデ オロギーではありません。
生態学的な思考自体は、ナチスやディープエコロジーがそうであるように、
どこまででも非人間的なものになり得ます。
そうならないために必要なのは、論理つまりロゴスではなく、
倫理つまり損得勘定を超える感情が働くという事実性です。

#photobybozzo

【May_22】ギリシャ人は世界をコスモスという語で呼んだ。


ギリシャ人は世界をコスモスという語で呼んだ。
「よく整えられたもの」を意味する。
理性とはまず神の事柄である。
人間にできることは、
自然の秩序に従うことである。
自然の秩序に学び、それに従うのが、
人間の理性というものである。
それとて、常に中途半端で、
間違ってばかりいる。
しかし、だからこそ、
中途半端であるという自覚をもって、
より優れた理性を磨かないといけない。
優れた理性とは、
自分がどれだけ多くのことを知らないか、
ということを正確に自覚するものである。

  (『キリスト教思想への招待』より田川建三)

キリスト教を宗教として色眼鏡で語るのではなく、
イエスから生まれた思想として解きほぐそうとした田川建三の書。
一言一言が平易かつ実直な言葉で綴られていて突き刺さる。
人間は被造物である…というまごうことなき事実を、
77億人のうちの多くの民は体感しているのに、
一部の権力者やエスタブリッシュメントたちが、
大きなカンチガイで、世界を牛耳ろうとしているから、こんな時代になった。

人間の感性は、その人の経験の範囲にしかない。
考えなくともおのずと感じることが出来ることは、
その人がこれまで生きてきて、
自分の中に蓄えてきたことの範囲でしかない。
世の中には、自分が経験しなかったこと、
自分が接することのなかったもの、未知のものが大量にある。
未知のものは、自分の感性の中だけでは捉えきれない、
と知ったら、理解する努力をしないといけない。
それが理性、知性というものである。

そのことがよくわかるのは、
人と人との間の関係である。

感性を基礎にしてつきあって、
その人に対して隣人愛を持つことが出来るのは、
その人をある程度以上よく知っている場合、ないし、
その人と自分が非常によく似た生まれ育ちであり、
今生きている環境も似たり寄ったりというのでないと、
ありえないことである。
まったく未知の人たちに対して、
それもよく知らない他民族の人たちに対して、
温かい関係を築きうるには、
まずその人たちのことを
かなり多く知る努力をしないといけない。

人間どうしでさえ、そういうものである。
ましてや、人間を囲む自然世界に対しては。

  (『キリスト教思想への招待』より田川建三)