
【曽我大穂】浜村温泉の喫茶ミラクルにて、ソロ。雪に閉ざされた格好の、深閑とした日本海の温泉地で聴くダイホ。彼と出会ってからの四半世紀、お互い色んなモノを喪ってきたからか、ひとつひとつの音が含みをもって耳に届く。氷点下で凍える夜に、心の中だけは温かな記憶の断片がふわっと甦っては遠ざかり、甦っては遠ざかりして、出会いと別れを繰り返すそれは、音のポエトリー。人間はこうやって歳と共に、喪ったピースをおぎなう旅を続けるのね。成就できないことをわかっていながら。#photobybozzo
竹野に住まう舞台写真家の地域自治。

【曽我大穂】浜村温泉の喫茶ミラクルにて、ソロ。雪に閉ざされた格好の、深閑とした日本海の温泉地で聴くダイホ。彼と出会ってからの四半世紀、お互い色んなモノを喪ってきたからか、ひとつひとつの音が含みをもって耳に届く。氷点下で凍える夜に、心の中だけは温かな記憶の断片がふわっと甦っては遠ざかり、甦っては遠ざかりして、出会いと別れを繰り返すそれは、音のポエトリー。人間はこうやって歳と共に、喪ったピースをおぎなう旅を続けるのね。成就できないことをわかっていながら。#photobybozzo

羊を百匹持っている者がいたとしよう。
そのうち一匹がどこかに行ってしまった。
そういう時、たとえ九十九匹を荒野に残しておいてでも、
いなくなった羊を探しに出掛けて行かないだろうか。
出掛けて行って、うまくその羊を見つければ、
迷い出なかった九十九匹にもまして、
その一匹の羊のことを喜ぶのではないか。
(マタイ18・12ー13=ルカ15・4ー6)
現実の世の中は算術的合理性で動く。
事実、もしも九十九対一を文字通り
あれかこれかで選択しなければならない時に、
九十九を捨てて一をとる人はいない。
けれどもまた、そういう理屈で、
実際には必ずしも絶対的に
あれかこれかではない場合にも、
九十九のために
一が犠牲に供されていく。
そしてそういう場合はほぼ常に、
九十九の方が何らかの意味で強い者であり、
犠牲に供される一人は
大勢の中でも何らかの意味で弱い者である。
(『イエスという男』より田川建三)
こういう現実に対して、
本当に理性の立場に立って反論を加えるとすれば、
実際には九十九人が少しずつ譲歩しあえば
この一人を滅ぼさずにすむのだから、
みなが平等に困難を分かち合いましょう、ということになろう。
けれども、そう穏やかに申し上げることによって
世の中の不公平が除かれることはめったにない。
世の中全体が算術的合理性を
力をもって強制して来る時に、
それに抗おうと思えば、
こちらも強引かつ単純にそれを
裏返して主張するのでなければ、
強い衝撃力を持てない。
大切なのは九十九ではなくて一だ。
こう主張する時、もはや人は
深く全体を見通す
平衡のとれた理性を失っている。
暴論ですらある。
だがそのように叫び出さねばならない状況は
しばしばあるものだ。
これまた決して不動の真理ではない。
逆説的反抗なのである。
此の世で実際にこのようなことを
ある程度以上主張すれば、叩き潰されざるを得ない。
実際には九十九の力に一が勝つはずがないからだ。
逆説的反抗に立ち上がれば、人は悲劇に突入する。
しかし歴史を動かしてきたのはさまざまな悲劇だった。
イエスという人がさまざまな場面で語り、
主張してきた逆説的反抗を「真理」との
教訓に仕立て変えてはならない。
イエスは「真理」を伝えるために
世界に来た使者ではない。
そのように反抗せざるを得ないところに
生きていたからそのように反抗した、ということなのだ。
そして、もう一度言うが、だから殺されたのだ。

信濃毎日新聞『今日の視覚』2026FEB03掲載。
内田樹氏の予測を備忘録として、ここに刻む。

