【Dec_01】雑種強勢。自分の中の他者を知る。


【宝島】自分の中の他者を知る。

『もう風も吹かない』観劇で、炙り出された構図は、自己の未済性…常に本来の自分に成り切ろうとして、果たせないでいる状態。それって、『宝島』におけるオキナワそのもので、ハッとした。オキナワにおいては、その未済性が完結してしまった不条理な状態で、未来が描けない鬱状態に陥っている。『もう風~』における2040年の日本も「出口なし」な鬱状態ゆえに、キノコ隊員は飲酒による逃避で、現状から逃れようとしたのだ。『宝島』における希望と『もう風~』のそれは、『宝島』においては「ダブル」という、自分の中に他者を介入させた「実体」で呈示された。オキナワを陥れたアメリカを内在することで、混淆→ミックスが糸口となり、未来への微かな希望が射し込まれる。『もう風~』では、派遣国へ赴くことで得られる体験が、他者を内在し未来を導くという「行動」で締め括られていた。いずれにしても、未来が描けない「未済性の完結」打破には、「他者性」の獲得が必須なのである。いま現在跋扈する排他的動向は「他者」の獲得を拒絶した状態であり、いわば「純粋培養」へ舵を切った状態である。生態系としては、「雑種強勢」は良好な環境下より不良環境下で大きく発現するようである。これを真理と願いたい。「人間」は“人のあいだ”と記すのだから。

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【MAR15】東北記録映画三部作


【0311】昨日は一日JIG
監督トークも参加して、14年前に思いを馳せる。

ボクにとって東日本大震災が、
死生観を変えるほどの出来事であったことを改めて。

それだけの現実を記録することの難しさに真摯に向き合い、
カタチにし、こうやって14年後も語らえる
重力のある作品に結実させた両監督の手腕に拍手。

事象はどこまでも事象であり、
人間が巻き込まれることで個々の物語として起ち上がる。

そのようにして人間は自然と向き合い、
語り嗣ぐことで世界を理解しようとしてきた。

しかし、「雑な言い方をすると、ほとんどの物事は、わからない」。

その「わからない」事象を、
「わからない」まま受け止めることが
“この世界で生きている”ことだし、

その「わからなさ」を対話で語らうことが、
この世界を引き寄せる唯一の方法であると感じた一日。

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【Apr_20】ハブヒロシ監督『音の映画』


こんにちわ〜!
【100歳ピアノ誕生プロジェクト】メンバーのbozzoです。
本プロジェクト終了まで1ヶ月を切りました。
4月1日スタートから21日。
中だるみしないよう、引き締めて行きたく思います。

本日は豊岡劇場で24日まで公開中の【音の映画 Our Sounds
ハブヒロシ監督に『100歳ピアノ』を弾いてもらいました。

【音の映画】は映像のない映画です。

岡山県高梁市の日本語教室に集まった外国人技能実習生と先生が、
コロナ禍の心細い時間の中で、
音楽を通して心を通わせ、共鳴してゆくドキュメンタリーです。

映画なのに映像がない?

誰もが面食らう設定ですが、
映画館という暗闇だからこそ、
音に集中することで花開く「画」があります。

それは旅のようなものです。

過去に刻まれた記憶が開かれていくような感覚。

自身の過去を旅するような、
音のマッサージで解き放つような、
幸せな時間が、ボクはこの映画によって生まれました。

ハブヒロシ監督は、
同じ岡山県高梁市有漢の『長蔵音頭』も復活させています。

『長蔵音頭』は江戸時代、
「天明の大飢饉」で村存亡の危機を命懸けで救った
庄屋、綱島長蔵を讃えた唄です。

有漢の盆踊りとして親しまれていたものの、
伝承が途絶え20年ものあいだ忘れられていました。

芸能の大切さを知る監督は、どうにかして
有漢の盆踊りを復活させたい…と尽力し、
人々の記憶をつなぎ合わせ、2019年に復活させました。

このふたつの作品から伝わってくることが、
『100歳ピアノ』の存在にも当てはまると、
bozzoは深く感銘しました。

どちらも【音楽】による『コミュニティの再生』です。

『長蔵音頭』は、芸能が途絶え、心のつながりを喪った地域。
『音の映画』は、コロナ禍で母国と途絶した外国人の、閉じられた心の扉。
それぞれを【音楽】の処方箋が開いていくプロセスになってます。

『100歳ピアノ』も竹野にとっての、
町民のつながりを生む処方箋であると、
ボクは信じて止みません。

北前船の栄華が、文化を育み、ドイツからピアノを運び、
人々の止揚を醸成し、地域の結束を高めたことは間違いありません。

かつての“竹野の矜持”を、
『100歳ピアノ』から再生することで、
人口減少で離れつつある町民の心をひとつに。

そんな思いが谺する週末の映画体験でした。
水曜日までなので、お時間ある方は是非。

【Jun_07】海辺の彼女たち


『海辺の彼女たち』

技能実習生の実態を描いた作品。
ドキュメントなカメラワークでベトナム人女子の現実を活写。
日本が舞台なのに、日本人がほとんど登場しない。
それだけこの国では移民が他人事の極み。
世界4位の移民大国でありながら分断されているのは、
国の姿勢が民に伝播しているから。

この矛盾した受入体制が、実習生の人権をも踏み躙る。
一事が万事だわ。

敗戦で大国に阿り枯渇をしのいだ精神そのまま。
品位が喪われたまま、権威振り回すことばかり。
都合良く振る舞うこの国の姿勢を、
そのまま引き継ぐ社会が民が、やるせない。

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【Feb_07】人、場所、歓待


金賢京著『平等な社会のための3つの概念_人、場所、歓待』
何人も等しいとする現代社会の欺瞞を『人、場所、歓待』の切り口で解きほぐす名著。
人は生まれた途端、名前を受け、社会に無条件で歓待される。
歓待とは、共同体の中で成員権を持つという意味だ。つまり、人であることは一種の資格であり、他人の承認を必要とする。
場所を与えられる…とは、「居ても良い」ということだ。これはいじめやホームレスで考えると分かりやすい。
いじめは「この教室にお前の席はない。お前はこの学級の一員ではない」というメッセージであり、
ホームレスはそれ自体が屈辱であり、社会が彼から居場所を奪うことで彼を侮辱している。

歓待とは他者に場所を与えること、または彼の場所を承認すること、
彼が楽に「人」を演技できるよう手助けすること、そうして彼をもう一度「人」にしてやることだ。
歓待とは与える力を与えることであり、受け取る人を与える人にすることだ。
(金賢京)

社会から無条件に歓待され、社会の一員として場所を与えられることで「人」になる。
つまり「人」とは社会との相補的な関係にあり、社会に含み含まれた存在なのだ。

だから、死刑制度は成立しないと著者は言う。
歓待され社会の中に存在する「人」が、社会の外に追いやられるのが死刑だからだ。
死刑は犯罪者を社会の外へと追いやり社会の敵として抹殺する。
彼が社会の敵ならば、彼は社会の規則に従う必要がない。
法の力が彼に及ばないのであれば、社会が彼を法で裁くことは出来ない。
彼は法の外にいるが故に、死刑は国家からの戦争であると。

犯罪者が社会の外にいるならば、わたしたちは彼にいかなる処罰の「権利」も主張できない。
権利について述べるためには、諸主体がまず相互承認関係の中に入らなければならないからだ。
(金賢京)

『何人も等しく尊い』の実感なしにうわべだけの理解で居るから、
「差別」が消えないのだとこの書は教えてくれる。

必読。
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【Jan_20】「島田を殴るのはオレで、ほかの奴には絶対殴らせない」


島田雅彦『君が異端だった頃』⇒会田誠『げいさい』的自伝青春小説。

80年代のエゲツない高揚感がそのまま収まってる。
POPEYEやWalkmanの浮かれた時代に、ロシア語と社会主義に傾倒し、
廻り道こそ作家への近道と愚昧を重ね、異端であり続ける努力を惜しまない姿。

雌伏の10年が花開いてからの、文壇の乱痴気に巻き込まれる辺りのドライヴ感が正にバブルで、
コロナの静寂を予期した作家の掻き乱し方が、人間の業の深さを思い起こさせる。

何より中上健次との格闘は涙。
「島田を殴るのはオレで、ほかの奴には絶対殴らせない」とのSM的関係は、
文壇の異端同士が共鳴する偏愛から生じていたのだと。

ふたりの、豊穣ゆえに蕩尽する生き様が、その天才性を逆に表していて、
残されたマゾ彦の空回り感、ハンパない。

島田は虚無ゆえに多弁な作家なのであった。
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【Jan_20】入れ替わるように、中上健次が故郷で身罷った。


それから1ヶ月後、ほとんど彌六と入れ替わるように、中上健次が故郷で身罷った。享年四十六。
暑い盛りに東京でのお別れの会があった。若い読者が千円の香典を持参して会場に駆けつけ、
「アニキ」に別れを告げる光景が見られた。君は滴り落ちる汗をぬぐいながら、遠くに見える遺影に向って、
「路地の荒くれ男たちの短命にして波瀾万丈の物語をなぞらず、
自己申告ではない、正真正銘の文豪になる手もあったじゃないですか」と虚しく呼びかけた。

これでようやくあの男の抑圧から解放されるのだと、君は考えようとしたが、何一つ恩返しできなかった負い目と
置いてけぼりを喰った寂しさの方が大きかった。中上のいない世界はどれだけ虚しく、退屈か、を想像すると、いたたまれなかった。
谷崎賞を渇望しながら、落とされ続けた無念に「風花」のカウンターでうなだれる中上、
佐伯に買ったばかりの革ジャンを気前よくやったくせに、惜しくなり、ずっとつきまとっていた中上、
手持ちのカネがなくなり、紀伊國屋書店に借りに行った中上、無頼だが、ナイーブな中上を思い出しては、微笑と涙を誘われた。

四十九日が過ぎた頃、慶應病院に付き添っていた文春の担当吉安が君にこんな話を報告してきた。
大江健三郎が朝日新聞の文芸時評で君の『彼岸先生』を否定的に評したのを読んで、中上は自分のことのように憤り、こういったのだそうだ。
ーーー島田を守れ。オレが死んだら、誰もあいつを守ってやれない。
君はその時初めて、弟分に惜しみなく注がれた中上の慈しみを痛感した。涙腺の鈍さには自信があったのに、涙が溢れるのを止められなかった。
君を殴ると宣言したり、パシリ扱いしたりしながらも、誰よりも君のことを気に掛け、守ってくれていたのが中上だったのだ。
おのが不運を嘆くあまり、中上の慈愛を信じられなかった自分が情けない。君は中上の墓前に立つ度にこんな誓いをする。
あなたから受けた恩恵の分け前を必ず後輩たちに施すようにします、と。
(島田雅彦著『君が異端だった頃』より)

【Jan_20】オレの文体はワーグナーの無限旋律なんだ。


オレの文体はワーグナーの無限旋律なんだ。句読点も改行もなく、そろそろ終わるかと思うと、
もう一発、さらにもう一発かましてくる。トリスタンとイゾルデがまぐわう時のあの陶酔感は
変な和音の浮遊感を伴って、クライマックスが何度も畳み掛けられるだろう。あれに似てる。
よほどの体力がないと、中折れする。

それは見事な自己解析だった。中上は徒手空拳で偉大なる先達に決闘を申し込む癖があった。
相手はセリーヌだったり、ジャン・ジュネだったり、ドストエフスキーだったりする。
バフチンのポリフォニー理論のことも知っていて、
「自己の小説はドストエフスキーよりもさらにポリフォニックで、紀州の路地だけでなく、
世界中の路地にいる朋輩たちとの終わりなき対話を繰り広げている」と言い出したりする。

文豪にマウンティングするこの不遜、この自己顕示こそが中上だった。文学者は誰しも多かれ少なかれ自己愛の塊で、
肥大化した承認願望を抱えているものだが、君を含めて大抵の人は被害妄想に縮こまっており、自分教の布教にまでは至らない。
ところが、中上ときたら、創造の神は自分を贔屓にしていると信じて疑わないし、自分がメインで過去の文豪は前菜に過ぎない
…とまで思い上がることができた。中上教の教祖中上健次は夜な夜な新宿の裏道のバーをハシゴしながら、
たまたまそこにいる酔客相手にかなり効率の悪い伝道を行っていた。

週に八日間飲み歩いているともいわれた中上は一体、いつ書いているのか、それは誰もが抱いている疑問だったが、
彼はミューズの降臨をとともに待っていたのである。いよいよ、追い詰められ、担当編集者の顔が引きつってくると、
中上はまず酒を抜くために一日何もしない日をあいだに置く。そして、二日目の夜あたりからようやく机に集計用紙を広げ、
罫線に沿って丸みを帯びた丁寧な手書きの文字を連ねてゆく。無限旋律的なその文章は改行も句読点もなく、
写経しているかのように淀みなく、かなりの速度で書きつけられる。不眠不休、絶食で集中し、二日間の完徹もしばしばだった。
中上の生原稿をのちに寺田氏に見せてもらったが、万年筆で書かれた原稿に直しはほとんどない。基本、行組と校正は編集者任せで、
数日後には三日間で書いたとは思えない奇跡的な完成度の作品が活字になっている。
(島田雅彦著『君が異端だった頃』より)

【Oct_08】「偶然とは根源的社会性」つまり「現実の生産点」である


『急に具合が悪くなる』読了。
死に至る偶然性を通して、生きていることの偶然性を照射し、
「偶然とは根源的社会性」つまり「現実の生産点」であることを、
2人の著者の往復書簡で共時的に繙かれた書。

「私が『いつ死んでも悔いが残らないように』という言葉に欺瞞を感じるのは、
死という行き先が確実だからといって、その未来だけから今を照らすようなやり方は、
そのつどに変化する可能性を見落とし、
未来をまるっと見ることの大切さを忘れてしまうためではないか、と思うからです。」
(宮野真生子)

分岐する未来を考え、リスクを計算し、複数の可能性を考慮し、
出来るだけ安全に生きていけるようにする。そうやって自分を守ることの、
何が薄っぺらいのか、と反論したくなる人もいるでしょう。
ええ、たしかに、そこでは未来という広がりが射程に収められてはいます。
しかし、それはあくまでも「自分」にとっての未来であり、
自分一人が流れる時間のなかを生きていると思っていませんかと私は問いたい。
(宮野真生子)

西田幾多郎⇒九鬼周造⇒三木清⇒木村敏⇒宮野真生子の京都学派の系譜に流れる【あいだ】の思想。
出会った他者を通じて自己を生み出す間主体性が「時」を生じさせているのだ…というビジョンの美しさ。
コロナ禍によって、リスク回避を最善とし、
身内の死よりも自身の生を選んでしまうエゲツない社会の存様の中で、
【偶然性】こそが己の生を引き受ける根源的な営みなのだと、
その開かれた「生きよう」を身を以て体現された哲学者の尊さに、涙。
「人間が利己的であるか否かは、その受取勘定をどれほど遠い未来に伸ばし得るか(三木清)なのだ。

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【Jun_19】聖と賤の環流するこの日本的自然


やはり中上健次は巨人だった。『紀州木の国・根の国物語』で中上は、
自ら「路地」と名付けた被差別部落を経巡り、「差別被差別」について自問するのだが、
出自にかかわることだけに抉られるような凄みがある。


青年は作業場の一等奥、物陰になり外から見えぬ場所であぐらをかき、
切り取ったまだ肉のついた馬の尻尾から、毛を抜いていた。
自分の肩ほどの長さの馬の尻尾である。
腐肉のにおいの中で青年は、台に一台小さなラジオを置き、手ばやく毛を抜きとりそろえている。
肉のついた尻尾はもちろん塩づけにしてはいるが、毛に何匹ものアブがたかっていもいる。衝撃的だった。

その衝撃は、言葉をかえてみれば、畏怖のようなものに近い。
霊異という言葉の中心にある、固い核に出喰わした、とも、
聖と賤の環流するこの日本的自然の、根っこに出喰わしたとも、言葉を並べ得る。
だがそれは衝撃の意味を充分に伝えない。
私は小説家である。事物をみてもほとんど小説に直結する装置をそなえた人間であるが、
一瞬にして、語られる物語、演じられる劇的な劇そのものを見、
そして物語や、劇からふきこぼれてしまう物があるのを見た。
それが正しい。つまり、小説と小説家の関係である。
若い青年が腐肉のにおいを相手にして仕事をしなくても、他に色々仕事はある、と思いもしたし、
物の実体、ここでは自動車洗いに使うハケや歯ぶらしという商品であるが、
その物、商品の実体は、みにくいとも思った。
人が、そのみにくい実体に顔をむけ、手を加え、商品という装いにしてやる。
いや、そこで抜いた馬の尻尾の毛が、白いものであるなら、バイオリンの弦(ゆんづる)になる。
バイオリンの弦は商品・物であると同時に、音楽をつくる。
音の本質、音の実体、それがこの臭気である。塩洗いしてつやのないその手ざわりである。
音はみにくい。音楽は臭気を体に吸い、ついた脂や塩のためにべたべたする毛に触る手の苦痛をふまえてある。
弦は、だが快楽を味わう女のように震え、快楽そのもののような音をたてる。
実際、洗い、脂を抜き、漂白した馬の尻尾の毛を張って耳元で指をはじくと、ヒュンヒュンと音をたてる。

(『紀州木の国・根の国物語』朝来より中上健次)


後半の記述の激しさたるや。みにくい実体が、
聖と賤の均衡を破ってふきこぼれてしまう物。
音はみにくい…とし、馬の尻尾の毛は、脂や塩のべたべたする苦痛とともに、
快楽そのもののようにヒュンヒュンと音をたてる…と。

穢れの中に浄化があり、過剰さこそがすべてを包摂しうる…とでも言うように。
「路地」を書き貫いた男の筆致は、どこまでも光明だと思った。

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