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【SEP_08】急に具合が悪くなる

【急に具合が悪くなる】ナイトシアター終演後。アカデミー賞選考にノミネートもされたし、監督を呼びたいね〜と盛り上がっているところ。『何かを「伝えたい」というより、感覚的な何かを「起こしたい」だけ』と監督が語っているように、この映画の底に流れているものが、この先の世界を形作る上でとても大事なキーになるってことを、この4人は共有してると思う。そんな深いところに届く映画。来週16日まで。

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【SEP_06】元町映画館『軍服を着た神様』

【軍服を着た神様】台湾に祀られる日本軍人を巡るドキュメント。中西レモンさんがナレーション、武徹太郎さんが音楽とアニメーションを務めるって、後から知って驚!映画に導かれてると思った。まさにそんな話。台湾で戦死した軍人が神として崇め祀られているのは、日本帝国軍がそれだけ畏怖される存在だったことの裏返しで、過去と現在、未来が生活に息づいている台湾だからこそ、鎮魂のまなざしが深く、時空を跨ぐ立体的な物語になったのだと思った。とにかく奇縁の連続!話の繋がり方が人類学そのもの。要はシグナルをちゃんとキャッチ出来てるか…どうか、ってことなんだと思う。元町映画館もセレクトサイコー。
https://sansarofilm.com/kamisama

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【AUG_14】急に具合が悪くなる


【急に具合が悪くなる】豊劇初日。資本主義は「今ココ」のみで成立している自己破壊的な仕組みで、“タイパ”“コスパ”を助長し「人と人のあいだ」で成り立つ人間の営みを加速度的に分断している…という現実を、ふたりのMARIの邂逅の偶然性を丁寧に描き込むことで、今この世界で本来必要なことは、境界を際立たせることではなく、壁を取り境界をなくし、相手を取り込んでいくプロセスなのだ…というメッセージを伝えていた。最後の庭での演劇シーンが象徴的。観客と演者相まみえての足裏マッサージ。ごにょごにょと混じり合うことの優しさに溢れた場面。来月16日まで。#photobybozzo

【AUG_10】もうひとつの故郷 by 国本隆史


【もうひとつの故郷_移民・難民と生きるドイツの今】2016年国本隆史監督作品。

https://takashikunimoto.net/

シリア難民のAHMADさんの言葉が鮮烈過ぎた。「25年後、たとえ壊滅的な状況であっても、戻れるならシリアに戻りたい」「ボクの故郷だから」この全肯定は、シリアが世界中から全否定されているからこそ。ガザの人たちも同じように答えるだろう。戦争の渦中にあって、世界から全否定されている状態だからだ。そのAHMADさんもドイツに入った時はドイツ語が通じず、全否定された気持ちになった。自分の思いを伝えられるようになったとき、はじめて必要とされていると感じたという。翻って、私たちは外国籍の人たちの言葉に耳を傾けているだろうか?彼らの思いを受け取って、返しているだろうか?それは外国籍に限らない。「人間のアニミズム」=魂を持った存在として、人々に等しく接しているだろうか?と自分に問う。監督も異国の民として、その存在が不安定だからこそ、共鳴し撮り得た映像だと思った。2016年からさらに10年。ドイツの状況はどのように変化しているのだろう。

【AUG_02】夢みる小学校


【夢みる小学校】完結編。大人が試されている…と思った。型にハメる画一的「教育」が現代社会の歪みを生んでいるのに、型にハマらない子どもを「発達障害」と命名する恐ろしさ。「生まれてきたそのままで良いんだよ」と受け止められない狭量さで、歪な社会をそのまま押しつける大人たち。「成し遂げる力は、チームで養う」ことを、現代の大人こそ体得すべし。〈話し合い→答えを導く〉デモクラシーの根本を、まずは実践していくことが、社会変革につながる…と猛省。masaさんたちの姿勢から勇気をもらった。#photobybozzo

【Jul_16】岡本健+追悼展

iwao gallery】岡本健+ 追悼展『蔵前、最後の用事』

2026年
8/21(金)15:00-20:00
8/22(土)12:00-17:00

2024年5月、iwao galleryで初個展「あなたが噛んだ、唄おぅ」を開催したブックデザイナー・岡本健+(1965–2026)の追悼展を開催します。美術、建築、舞台など芸術文化の分野で数多くの書籍の装丁やアートディレクションを手がける一方、近年は自身の表現活動にも取り組みました。本展では、2026年2月4日に逝去した岡本の遺作《傷こけし》を中心に、岡本と親交の深かった作家たちによる作品を展示します。

岡本健+
橋本貴雄、吉江淳+小金沢智、大和由佳

主催:岡本家、iwao gallery
協力:石島章輝(イシジマデザイン制作室)、遠藤勇人、大谷薫子(モ・クシュラ)、
   多摩美術大学美術学部彫刻学科

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【JUL_04】鳥の方へ――濱口竜介『急に具合が悪くなる』をめぐって

 




真理は、ホワイトボードに図を描きながら、
資本主義の「構造」を説明していく

(ちなみに「構造」の語をめぐっては日本語とフランス語の間に微妙なニュアンスの隔たりがある。
最初、マリー゠ルーが「fonctionnement(作動の仕方)」と言ったのを、真理は「構造」と翻訳する。
より抽象度の高い「構造」(あるいは「システム」)と言いかえることで、
より大きな問題へと結びつけるのである。
それをマリー゠ルーが再び「fonctionnement」の次元で引き受けていくことになる)。

資本主義は、「今ここ」(=都市)が上手くいくために、
「外部」から資源を収奪し「外部」へと問題を押しつけるシステムだ。

「外部」とは、田舎、グローバル・サウス、貧民、そして自然を指す。

資本主義は、次々と「外部」を発見、
再編していくが、「外部」は無限ではない。

さらなる問題は、民主主義やリベラルが、
資本主義に「依存」し「一体化」しているという点にある。

民主主義は、都市部でしか支持を得られない。

「外部」に置かれた圧倒的多数が、
自分たちを搾取し侮蔑するリベラルを憎悪するのは
「当然」のことであるのだ。

真理の声に力がこもる。

真理の講義は、マリー゠ルーの課題を浮かび上がらせるとともに
(彼女の苦境はリベラルの状況そのものだ)、
こうした「構造」からの「抜け道」――より正確には、
「fonctionnement」の別の可能性と言うべきだろう――を想像することを可能にする。


 では、別の可能性とは何か。

それは、足裏マッサージをしながら真理が口にした
「力を抜いた方がいい」という言葉に集約されているように思う。

パリに戻った後のミーティングで、
マリー゠ルーはソフィーに謝罪をする。

そして研修を年3回から年2回に減らすことを宣言。

しかしそれはユマニチュード断念の敗北宣言ではない。
ユマニチュードへの執着を緩め、力を抜くこと。
それによって「遊び」が生まれ、
物事がうまく回り始める。

ユマニチュード(=人間らしさ)が取り戻されていく。

入居者家族へのインタビューの催し
「ヴァネッサの部屋」に職員を登場させることで、
職員間の回路が立ち上がる。

そして外部の支援に頼ったカフェの運営が、
外との回路を作り出していく。

それにつれて経営者側の視線も変わっていくだろう。

角井誠(すみい・まこと)抜粋


【JUL_04】資本主義と窒素 by 鴨志田純

資本主義とは、窒素循環を直線化する仕組みだったのではないか。

少し極端に聞こえるかもしれません。

けれど、農業や食、都市、廃棄物の流れを見ていくと、
この言葉は単なる比喩ではなく、かなり本質に近い問いなのではないかと思います。

窒素は、生命にとって欠かせない元素です。

植物が育つためにも、動物や人間の体をつくるためにも必要です。
けれど、空気中に大量にある窒素は、そのままでは植物が簡単に使うことができません。
だから本来、窒素は、土の中の微生物、植物、動物、糞尿、落ち葉、生ごみ、
堆肥といった関係の中を、ゆっくり巡ってきました。

土から作物が育ち、作物を人や家畜が食べ、その排泄物や残渣がまた土に戻る。

この循環は、単に物質が回っているというだけではありません。
そこには、土地と暮らしの距離、食べる人とつくる人の関係、
地域の中で始末するという感覚がありました。

ところが近代以降、その循環は大きく組み替えられました。

空気中の窒素を工業的に固定し、
化学肥料として大量に農地へ投入できるようになった。

それによって、農業生産は飛躍的に増えました。
人口増加も、都市化も、食品産業も、物流も、その恩恵の上に成り立っています。
ここだけを見るなら、それは人類の大きな成功です。

けれど同時に、窒素は「循環するもの」から「投入するもの」へと変わっていきました。

土の中で育て、地域の中で戻すものではなく、外から買って入れるものになった。

作物は商品として遠くへ運ばれ、食べられた後の窒素は、
下水やごみとして処理され、農地には戻らない。
農地には肥料として窒素が入り続け、
都市には食べものとして窒素が集まり続ける。
しかし、その二つはつながらない。


ここに、資本主義の特徴がよく表れていると思います。

資本主義は、流れを速くします。
資本主義は、距離を広げます。
資本主義は、関係を見えなくします。

そして資本主義は、
本来なら循環の中で引き受けるべきものを、
どこか別の場所へ押し出します。

窒素循環も、まさにそうでした。

土から作物へ、作物から人へ、人から土へ戻るはずだった輪が、
肥料工場から農地へ、農地から市場へ、市場から都市へ、
都市から下水処理場や焼却場へ、という直線に変わっていった。

この直線の中では、窒素は一時的に「生産性」として現れます。

収量が増える。商品が増える。
都市が大きくなる。経済が成長する。

でも、その先で窒素は別の顔を見せます。

地下水の硝酸汚染、河川や海の富栄養化、
温室効果ガスである一酸化二窒素、生態系への負荷。
つまり、直線化された窒素は、どこかで必ずあふれ出す。

ここで大事なのは、化学肥料が悪い、
近代農業が悪い、という単純な話にしないことです。

化学肥料は、たしかに多くの命を支えてきました。
問題は、窒素を「関係の中を巡るもの」としてではなく、
「外から投入し、使い終わったら見えないところへ流すもの」
として扱ってきたことにあります。

つまり問うべきなのは、技術の是非だけではありません。
私たちは、窒素をどのような社会の仕組みの中に置いてきたのか。

食べることと、排泄することと、土を育てることを、なぜ切り離してしまったのか。

そして、その切断によって、
誰が便利になり、誰が負担を引き受けてきたのか。

窒素循環を見ると、社会の構造が見えてきます。

農村は食料を送り出す場所になり、
都市はそれを消費する場所になった。

しかし、都市で生まれた有機物は、農村へ戻らない。

生ごみも、落ち葉も、排泄物も、
本来は土に戻る可能性を持っているのに、
現代社会では多くの場合、「廃棄物」として扱われる。

ここに、私は資本主義の限界を見るのです。

資本主義は、資源を遠くから集め、商品に変え、消費させ、
廃棄物を見えないところへ押し流すことで成長してきました。

それは、窒素循環を直線化する仕組みでもありました。

だからこそ、これから必要なのは、
単に「堆肥をつくる」ことではないと思います。

単に「生ごみをリサイクルする」ことでもない。

本当に必要なのは、直線になってしまった関係を、
もう一度、輪の中に戻すことです。

食べる人と、つくる人。
都市と農地。
廃棄物と資源。
消費と土づくり。

これらをもう一度つなぎ直すことです。

窒素循環を取り戻すということは、
単なる物質循環ではありません。

それは、関係性の循環を取り戻すことです。

どこか遠くの誰かに処理を任せるのではなく、
自分たちの暮らしの足もとで、もう一度、資源の行方を考える。

食べた後のものを、土に戻す。
土に戻したものが、また食べものになる。
その循環を、顔の見える関係の中でつくっていく。

私はそこに、これからの農業や地域づくりの可能性があると思っています。

資本主義が窒素循環を直線化してきたのだとしたら、
私たちが取り組むべきことは、その直線をもう一度、輪に戻すことです。

そしてその輪は、単に物質が回るだけでは成り立ちません。
人と人がつながり、地域と農地がつながり、
暮らしと土がつながることで、はじめて循環は生まれます。

循環の総量は、関係性の総量に正比例する。

窒素循環を考えることは、
私たちがどんな社会をつくりたいのかを考えることでもあるのです。

鴨志田純(2026JULY04)

【JUN_26】フィリピンby日下渉

【日下渉_フィリピン】岩波新書
https://www.iwanami.co.jp/book/b10160904.html
貧困、不平等、不正義に満ちた既得権益社会で、まともが機能する国家と努力が報われる社会を求めて、苦悩した民衆史。「善き市民」「悪しき他者」の二項対立でその因果を外部化し、「誰かをワルモノ」にするのではなく、ネガティブな要素も己の血肉と請け負い、内面からの「新生」でこの国の未来を掴もうと前傾で生きる人たち。著者は「土着の秩序」が「公的な秩序」に取って代わり、杓子定規な「規律」が横断することで生まれる排除の一面に紙面を割きながら、コロナ禍でのフィリピン人たちの共生能力を讃え、私たちが損なってしまいそうな「生きる力」を鼓舞しているのだと思う。
「人は自らが紡ぎ出した意味の網の目の中で生きる動物」である、とは文化人類学者クリフォード・ギアツの言葉。ここに生まれた運命を引き受け、自らの手で意味を紡ぐことができる、それが人間という動物である。まともに機能しない国家の下で、それでも努力が報われる社会を求めて躍動する。その能動的な生き様こそが、この本の核心であり、「フィリピン」から学ぶ姿だと思う。

追伸:新時代のフィリピン人として紹介されてたSB19とはどんなグループなのか、YouTubeを泳いでいたら、JMara”Mahal Kong Pilipinas”という魅力的なPVに辿り着いた。
https://www.youtube.com/watch?v=j_kPvYsC1pw
歌い手の背景はバラックのスラム街。「そう、私たちは大勢いて、懸命に生き、戦っているけれど大きな夢を抱くことさえ、遥か彼方のことのように思える」と〈Mahal Kong Pilipinasフィリピンの同志に〉訴えている。負の現実をまなざし、「こんなはずではない」と立ち上がりを即すJmaraの魅力的なブルースは、SB19の新風とは対極だ。しかし、両者共に「ここではない社会」を目指している逞しさに、フィリピンの希望を見た。

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【Dec_01】雑種強勢。自分の中の他者を知る。


【宝島】自分の中の他者を知る。

『もう風も吹かない』観劇で、炙り出された構図は、自己の未済性…常に本来の自分に成り切ろうとして、果たせないでいる状態。それって、『宝島』におけるオキナワそのもので、ハッとした。オキナワにおいては、その未済性が完結してしまった不条理な状態で、未来が描けない鬱状態に陥っている。『もう風~』における2040年の日本も「出口なし」な鬱状態ゆえに、キノコ隊員は飲酒による逃避で、現状から逃れようとしたのだ。『宝島』における希望と『もう風~』のそれは、『宝島』においては「ダブル」という、自分の中に他者を介入させた「実体」で呈示された。オキナワを陥れたアメリカを内在することで、混淆→ミックスが糸口となり、未来への微かな希望が射し込まれる。『もう風~』では、派遣国へ赴くことで得られる体験が、他者を内在し未来を導くという「行動」で締め括られていた。いずれにしても、未来が描けない「未済性の完結」打破には、「他者性」の獲得が必須なのである。いま現在跋扈する排他的動向は「他者」の獲得を拒絶した状態であり、いわば「純粋培養」へ舵を切った状態である。生態系としては、「雑種強勢」は良好な環境下より不良環境下で大きく発現するようである。これを真理と願いたい。「人間」は“人のあいだ”と記すのだから。

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