【Jun_10】日本人にはまだ憲法は書けない。by小室直樹


日本人にはまだ憲法は書けない』小室直樹氏

聖なるものの猛威、王権の猛威を
いかに囲い込むかが「憲法」であり、
その主体たる国民が、
統治に政治家を使うのが
「民主主義」である。

そのような道具としての
「憲法」と「民主主義」に
国民が徹底して通暁しなければ、
日本は近代のエートスで
自在にふるまうことができない。

(マル激トーク・オン・ディマンド 第212回より)

「憲法違反は政府にしかできない」と小室氏は言う。
主体はどこまでも国民にあり、憲法は統治権力に箍を嵌めるものであると。
宗教や王権の猛威から人権を守るために「憲法」は生まれたのであり、
そのような猛威に晒された経験のない日本国民には、
「憲法」の背景にあるその国民意志が理解できない。

宮台氏は続ける。

「我々に憲法意志なるマインドがあれば、
どんなマキャベリスティックな改正であっても、
本質を貫徹することができる」。

つまり、憲法の主体が国民であることを自覚さえしていれば、
政府の思惑など屁でも無いのだと。
同じように借り物であるデモクラシーも、
道具として使い道を知り尽くしていれば、ワケはない。

しかし、日本国民は近代のしくみが分かっていないので、
合理的に立ち振る舞うことができない。
蒙昧過ぎて付け入られてしまっている。
やはりそこには「自分で考え、自分で決める」学問的動機が薄い。

「悲しみ」や「怒り」などの不合理な経験による、
合理的であろうと欲する「希望」が育たないのだと。
その内発性こそ、プラグマティズムであり、
教育とはその内発性の発露を導くものであるのに、
短絡的な「にんじん」で損得勘定ばかり育てるから、
原理原則のない人間ばかりになるのだ…と。

小室直樹氏の偉大さは、
後に続く宮台真司氏のリスペクトぶりを見れば明らかである。
ミメーシスが、真理だ。

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【Jun_04】僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に 激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。


アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。
ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、
ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、
最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。
この人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、
僕たちは彼らになら共感することが出来た。
僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に
激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。
まさにそれゆえに僕たちは
アメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱く事が出来た。
反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、
これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことが出来る。
自分たちの祖先がネイティブアメリカンの土地を強奪したこと、
奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと、
それを口にすることが出来る。
そのような恥ずべき過去を受け入れることが出来る
という「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

国力とは国民たちが
「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」
というセルフイメージを持つことで増大すると言うようなものではありません。
逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。
失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、
正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。
国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。
失敗したときに補正できる力のことです。
でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことが出来るのは、
しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。
僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。

(『サル化する世界〜比較敗戦論のために』より内田樹)

『サル化する世界』から一貫して内田樹が言いたいのは、「計量的な知性」を養え…ということ。
宮台真司の言う「損得マシーン」「法の奴隷」「言葉の自動機械」は、まさに「計量的な知性」の欠如だ。
制度を粛々と運用するシステムを疑わず、ポジション獲りに終始する人間のことだ。
だから、「計量的な知性」を養うために絶えずリテラシーを駆動させ、多義的に物事をみつめ、知を横断するタフさが必要だと。

そこから導かれる到達点は、「人間知を手放した開かれた世界」…という逆説。これが真理だと、ボクは思う。
知を突き詰めれば、身体的思考に到ることが出来る。知が四肢の隅々まで行きわたる感覚。
そのAURAが、時空さえ超越し、人々に感染し、新たな地平を拓くのだと確信する。

その知の揺り動かし、社会の外に目を持つ力が、ART=生きる力だと、ボクは思う。
その獲得こそ、身体的思考が必須なのだと。その歩みを続けることが、即ち、生きることだ。

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【Jun_04】今の日本の英語教育は 「母語の檻」からの 離脱など眼中にない。


外国語を学ぶのは
「日本人なら誰でもすでに知っていること」
の檻から逃れ出るためだ
という発想がみじんもない。
母語的な現実、
母語的な物の見方から
離脱すること。
母語的文節とは
違う仕方で
世界を見ること、
母語とは違う言語で
自分自身を語ること。
今の日本の英語教育は
「母語の檻」からの
離脱など眼中にない。

(『サル化する世界〜AI時代の英語教育について』より内田樹)

「今さえ良ければいい」というのは時間意識の縮減のことである。
平たく言えば「サル化」のことである。「朝三暮四」のあのサルである。

「朝三暮四」は自己同一性を未来に延長することに困難を感じる
自己意識の未成熟「今さえ良ければ、それでいい」のことであるが、
「自分さえ良ければ、他人のことはどうでもいい」というのは
自己同一性の空間的な縮減のことである。

「倫理」というのは別段それほどややこしいものではない。
「倫」の原義は「なかま、ともがら」である。
だから「倫理」とは「他者とともに生きるための理法」のことである。
「この世の人間たちがみんな自分のような人間であると
自己利益が増大するかどうか」を自らに問えば良いのである。

(『サル化する世界〜サル化する世界』より内田樹)

その制度をどう運用すれば、人間たちが共同的に生き延びてゆくために有効か。
それを思量するためには、ことの理非をためらいなく、截然と決するタイプの知性よりも
むしろ理非の決断に思い迷う、「計量的な知性」、「ためらう知性」が必要である。

「制度がある限り、ルールに沿って制度は粛々と運用されるべき」
だという形式的な議論に私は説得されない。
それは「そもそもどうしてこの制度があるのか」という根源的な問い
のために知的リソースを割く気のない人間の言い訳に過ぎないからだ。

(『サル化する世界〜死刑について』より内田樹)

『サル化する世界』から一貫して内田樹が言いたいのは、「計量的な知性」を養え…ということ。
宮台真司の言う「損得マシーン」「法の奴隷」「言葉の自動機械」は、まさに「計量的な知性」の欠如だ。
制度を粛々と運用するシステムを疑わず、ポジション獲りに終始する人間のことだ。
だから、「計量的な知性」を養うために絶えずリテラシーを駆動させ、多義的に物事をみつめ、知を横断するタフさが必要だと。

そこから導かれる到達点は、「人間知を手放した開かれた世界」…という逆説。これが真理だと、ボクは思う。
知を突き詰めれば、身体的思考に到ることが出来る。知が四肢の隅々まで行きわたる感覚。
そのAURAが、時空さえ超越し、人々に感染し、新たな地平を拓くのだと確信する。

その知の揺り動かし、社会の外に目を持つ力が、ART=生きる力だと、ボクは思う。
その獲得こそ、身体的思考が必須なのだと。その歩みを続けることが、即ち、生きることだ。

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【May_31】環境が自然=世界であるより、人間=社会になった。


我々は、人類学的な時代を
生きていた頃に持っていた倫理を、
既に失ったのです。
理由を簡単に言うと、
環境──我々のsurroundings──が、
自然=世界であるより、
人間=社会になったからです。
我々とコミュニケーション可能なものが、
人間だけに限られたということです。
それが冒頭に「間接化」と表現したことです。

(2020/03/28DarwinRoom『料理の人類学』より宮台真司)

LOHASやSDGsがどこまでも胡散臭いのは、
人間の倫理に問いかけているようで実は損得勘定による動機付けがあるから。
【人間の存続は自明ではない】という事実は、
人間界隈に閉じ込められた人間主体の社会ゆえ葬られている。
そのような人間中心社会の最たる「料理」から、考察する講座。

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【May_22】ギリシャ人は世界をコスモスという語で呼んだ。


ギリシャ人は世界をコスモスという語で呼んだ。
「よく整えられたもの」を意味する。
理性とはまず神の事柄である。
人間にできることは、
自然の秩序に従うことである。
自然の秩序に学び、それに従うのが、
人間の理性というものである。
それとて、常に中途半端で、
間違ってばかりいる。
しかし、だからこそ、
中途半端であるという自覚をもって、
より優れた理性を磨かないといけない。
優れた理性とは、
自分がどれだけ多くのことを知らないか、
ということを正確に自覚するものである。

  (『キリスト教思想への招待』より田川建三)

キリスト教を宗教として色眼鏡で語るのではなく、
イエスから生まれた思想として解きほぐそうとした田川建三の書。
一言一言が平易かつ実直な言葉で綴られていて突き刺さる。
人間は被造物である…というまごうことなき事実を、
77億人のうちの多くの民は体感しているのに、
一部の権力者やエスタブリッシュメントたちが、
大きなカンチガイで、世界を牛耳ろうとしているから、こんな時代になった。

人間の感性は、その人の経験の範囲にしかない。
考えなくともおのずと感じることが出来ることは、
その人がこれまで生きてきて、
自分の中に蓄えてきたことの範囲でしかない。
世の中には、自分が経験しなかったこと、
自分が接することのなかったもの、未知のものが大量にある。
未知のものは、自分の感性の中だけでは捉えきれない、
と知ったら、理解する努力をしないといけない。
それが理性、知性というものである。

そのことがよくわかるのは、
人と人との間の関係である。

感性を基礎にしてつきあって、
その人に対して隣人愛を持つことが出来るのは、
その人をある程度以上よく知っている場合、ないし、
その人と自分が非常によく似た生まれ育ちであり、
今生きている環境も似たり寄ったりというのでないと、
ありえないことである。
まったく未知の人たちに対して、
それもよく知らない他民族の人たちに対して、
温かい関係を築きうるには、
まずその人たちのことを
かなり多く知る努力をしないといけない。

人間どうしでさえ、そういうものである。
ましてや、人間を囲む自然世界に対しては。

  (『キリスト教思想への招待』より田川建三)

【May_07】人間は、生き物の死骸が通過し、たくさんの微生物が棲んでいる、一本の弱いチューブである。


藤原辰史『戦争と農業』。
いかに現代が食を過小評価し、邪険に扱ってきたか。
生活の重要な行為として、食に敬意を払わずおざなり過ぎたから、
このような社会形成と政治形態になってしまったのだと。
そもそも食を安易に捉えすぎ。
小学校の給食が、短時間で済まされていたことが間違い。

すべての国民が、小学校時代は午前中いっぱい毎日その日の献立と、
その食材のルーツ、収穫の方法を学んでいたら、
もっともっと現代社会は、遅効性を規範とした仕組みで成立していたことだろう。
教育における食が低レベルだから、この現代社会が低レベルなのだと、断言できるわ。

今からでも遅くはない。
コロナ禍で引きこもり生活だからこそ、
食のあれこれを深く考え実践し、
食に思いを馳せて欲しい。
然れば、自身がふたつの穴を持つ1本のチューブで、
様々な生命の亡骸からおこぼれをもらい、
沢山の微生物の働きで生かされているのだと会得することだろう。

以下コピペ。

↓↓↓

つまり、食べるというのは、宇宙を身体に貫通させると言ってもいいくらい、壮大な行為なのです。
しかも、人間は食べているとき、孤食であっても孤独に食べているのではありません。
ほとんど意識していませんが、人間は腸内に100兆個の細菌を育てています。
人間は細菌にとっては生態系です。
その細菌に食べかけのものを分解してもらい、消化を助けてもらう。
ここで起こる化学反応はハイスピードです。
そうした変化が即興的に繰り広げられる世界は、幽玄な機能美にあふれています。

↓↓↓

だったらせめて、人間のみなさんは、
消毒、殺菌、滅菌に血道を上げるのではなく、
細菌にとって棲み心地の良い家を提供するのが筋ではないでしょうか。
食べることは人間が育つことであるとともに、人間の生態系を育てることでもあります。
噛んで、味わって、飲み込むあいだに、生き物たちの死骸との駆け引きをうまくやらないと、
細菌たちはびっくりして活動を停止します。
既に述べたように、遅効性とは、誰かに効果を任せることでもあります。
誰かとはこの場合は腸内細菌です。
食べることは、ガソリンのチャージではありません。
食べることは、生き物たちの亡骸に自分の身体を通過してもらい、おこぼれをいただくことです。
いろんな種類の死骸に囲まれながら、食べ物は新しい世界へと旅立っていきます。
言い換えると、食べることは、それほど人間主導的な行為ではなく、
世界に自分を育ててもらう現象にほかなりません。


↓↓↓

食は、身体を通過する現象。農業は、助ける行為。教育は、見守る行為。
このように幅広く食と農業と教育の定義を拡げていくと、
これまでの講義で述べてきた大規模、大量生産、効率主義、即効性によって満たされた
マニュアル型の食と農業の生産様式が、そのまま子どもの「育成様式」と酷似していることがわかります。
経済的にゆとりのある家庭が、夜間にまで及ぶ受験塾に多額の授業料を払い、
苛烈な受験戦争に子どもをさらし、学問の営みを訓練に変え、
創造の能力よりは、情報処理の能力の得意な人間が高学歴を得て、政治と経済の中枢に坐る。
日本の教育の仕組みは、まさに、現在の食と農業が直面している状況と大きく変わりません。
人間の育成がこういう仕組みでなされているのであれば、
なぜ、政治が話し合いではなく処理になってしまうのかさえも、理解することができます。
ゴルフ場を開発したり、企業誘致をしたりすることばかりに目がいく地方活性化のアイディアの貧しさも、
このあたりから生じてきているのかもしれません。

↓↓↓

食と農業の再定義は、
効率主義による不公平な競争の仕組みを変えていく足がかりになるかもしれません。
飽食と飢餓が同時に存在するいまの状況を根本から疑い、
食本来のあり方をもっと引き出していきたいと思います。


↓↓↓

餓えない民の民主主義、排除なき民主主義というものは今まで存在したことがない。
誰かが切り捨てられることは未だに無くならない。
けれども、発酵の世界は、そういった政治のあり方にヒントを与えてくれます。
発酵を知ることは、自分たちがどれほど多くのものに生かされているかを知ることです。
生き物が複雑に絡み合いつつ跋扈する世界を、
人間の超越した力で牽引するのではなく、
じっと待ちながら「切り盛り」するという世界が、発酵革命の基本理念であると思います。

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【May_06】藤原辰史『戦争と農業』


言うまでもなく、農業は、人間が生きていくためのかけがえのない産業です。
そのために発達させてきたはずの技術が、しかし、実は人間を大量に殺す技術の基盤と重複している。
トラクターの生産技術は戦車に、化学肥料の生産技術は火薬に、毒ガスの生産技術は農薬に転用されました。
そのことは使用者である農業従事者たちも意識していない。責任者がすぐに頭のなかに浮かばない仕組みです。

もしも、この世の中から兵器をすべて廃棄できたとしても、この仕組みがある限り、
いつでもすぐに民間の技術は戦争に利用されるでしょう。
わたしたちは常に、戦争に陥りやすい、暴力が発生しやすいこの仕組みにがんじがらめになっている。
これだけの兵器と兵器に転用できる民生技術に囲まれた地球で戦争がなくなることなど、
魅力的な遊具のある公園ですべての子どもが遊具を使わないで遊ぶぐらい、
ほとんど不可能と言って良いでしょう。

トラクターと戦車、
化学肥料と火薬、
農薬と毒ガス、
原子力発電と核兵器。


戦時利用であれ、平和利用であれ、
どちらも似た性質を持っています。

どれもが、扱う対象に対して距離をとって、
人間が長年培ってきた勘やそれに基づく即興的な対応力ではなく、
マニュアルに依存して用いる道具です。

トラクターに乗っていると、
土壌中の湿気と微生物たちの活動に注意を払いにくくなるように、

戦車のなかに閉じこもっている限り、
戦場で腐敗した死者の肉の臭いを嗅がなくてもすみます。

農薬を大量に撒くことで死んでいく虫がどんな虫か、
場合によっては益虫かもしれないことも考えなくてもいい。

遠距離からガスを詰めた砲弾を発射すれば、
毒ガスによって爛れた皮膚を見なくてもいい。

原爆後の長崎で死んだ子どもを抱くお母さんの
虚ろな顔を見なくてもいい。

農薬によって畑の周囲の昆虫が激減し生態系が変わることも、
農業用水や地下水が汚染されることも、人々の健康が著しく害されることも、
特段気にする必要はありません。

とりわけ化学肥料やそれが含まれる養液を用いる植物工場では、
菌がつかないように厳重に衛生管理されていますから、
病気になったレタスを見なくてもすみます。
   
         
(藤原辰史著『戦争と農業』より)

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【Apr_28】藤原新也著『Mémento-Mori』


藤原新也『死を想い生を想う』

しおれ、悲しみ、滅入り、不安を抱え、
苦しみにさいなまれ、ゆらぎ、くじけ、うなだれ、
よろめき、めげ、涙し、孤独に締めつけられ、
心置き忘れ、打ちひしがれ、うろたえ、
落ち込み、夢失い、望みを絶ち…

あとは生きることしか残されていないほど、
ありとあらゆる人間の弱さを吐き出すがいい。

藤原新也著『メメント・モリ』より 

僕はインドで、ガンジスの火葬のシーンを随分見たんだけども、
一番ショックだったのは、死体を焼く職人がいるでしょう。
代々世襲制で、ずうっと死体を焼く職人を嗣ぐわけです。
例えば、一日に三体焼くとして、一ヶ月にまあ百体位、一年に千体位焼くんですよ。
仮に十年、そういう仕事をしているというのは、一万体位も屍を焼いてきている人なんですね。
職人として淡々として死体を焼いているわけですね。
例えば、風が横から吹いた時に、炎が横に逃げるから、
風上にサリーを翳して置く。

それで風が来ないようにしたりする。
焼けにくい部分というのは、例えば、頭とか、
そういうところは途中で大きな棍棒で叩き割るわけですよ。
そうすると、脳味噌がパッと飛び散って、沸騰しているから、
それに火がついて、花火みたいにパッと散ったりする。
膀胱に溜まっている水が沸騰して、火の中からシューッと小便が出たりする。
そういう火と水の凄い修羅場みたいなものを見てきた。

死体を焼く職人というのはそういうことを淡々とやっている。
特に、頭を叩き割るシーンを見て、なんか物を打ち割って、なるべく早くうまく焼くという。
それだけのために淡々と仕事をしているという。
そこが凄く最初は違和感を覚えたんです。
だんだん最後に人間が焼け残って、灰になって、彼らは最後に箒でパッと掃くわけですね。
それで川にパーンと灰を捨てる。川面に来ると灰が流れていく。
そういう光景をずうっと見続けて来て、逆に凄くわだかまっているものが消えていった。
今、人が死ねば、箒で一掃きで、最後はおれも箒で掃かれるのかという感じで、逆に未練が無くなった。
死んだらあの世に逝くとか、まだ輪廻の世界に望みを託している場合じゃない。
死んでしまえば箒で一掃きだという。

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【aPR_24】わからないのならばしかたないですねとりあえずは信じておきなさい


中澤系さんの命日_20090424。

本に寄稿したテキストに詳しく書いたけど、
人は、若いときは性愛について不自由で、大人になれば自由になれるって思えるわけです。
だから自由に憧れます。テクニックだけじゃなく、経験が、人や事態を理解できる能力を与えてくれます。
それが自由です。
その自由に対する反語が「3番線快速電車が……」という短歌です。
それによれば、自由になることが、よくないことなんです。
快速電車通過のアナウンスを、多くの人がちゃんと理解して下がります。
つまり自由なんです。理解できる人は自由だから下がります。
すると「理解できない人は下がって」っておかしいでしょ。
「理解できる人は下がるが、理解できない人は下がらないことをやめろ」みたいな二重否定文なんですよ。
「普通の人は下がる。あんたは普通じゃないので危ないから下がれ」みたいにも聞こえます。
そういう二重否定的な構造に、
昔なら誰もが良きものと考えていたシステムというものに対するアンビバレンスを感じます。
便利なシステムによってフラット化していく社会の中で、
どんよりしていくばかりの個人の在り方への、否定的感情が中澤さんにはあった。
当然だけど、不幸だから不幸な歌が詠めるんです。
そして、人は希望を抱くから失意に陥って不幸になるわけです。
また、失意の不幸ゆえに奇跡を待望したりもします。現実に起こらなくてもいい。
奇跡をリアルにイメージできるだけでも人は救われるからです。

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【Apr_24】属性としての外部のなきゆえに今朝も鏡の前で戸惑う


中澤系さんの命日_20090424。

ルール通りということは、システム任せということです。
システム任せは、「望ましいけど悍ましい」。
逆に、ルール通りいかずにシステムに任せられないのは、
「悍ましいけど望ましい」。不思議なことに、世の中にはそういうことがいろいろあるんです。
「死」がそうです。
死は悍ましいけれど、死を意識するとフラットな日常が輝きに満ちたりもします。
ハイデガーもそういっていますよね。
SF作家のバラードも破滅三部作でそんな感覚を描いています。
「悍ましいけど望ましい事態」を僕たちは忘れちゃいけない。
さて「死」を意識すると、人は変性意識状態に入ります。
システム任せにしている時にシステムの外が露出すると、
やはり変性意識状態に入ります。変性意識状態とは、
雑多な感覚が遮断され、特定の感覚に没入した状態のことです。
反対が、通常意識状態ですね。

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