
民主主義をめざさない社会(内田樹の研究室)
安倍政権が7年ものあいだ居座ってしまった理由は、
政権交代による民主主義の強化に主権者が疲れてしまった結果なのだと。
あの時も震災による未曾有の事態を受け止めることが出来なかった。
今回もコロナで民主制が試されている。
以下コピペ。↓↓↓
統治機構が崩れ始めている。公人たちが私利や保身のために
「公共の福祉」を配慮することを止めたせいで、
日本は次第に「国としての体」をなさなくなりつつある。
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私はこの現象をこれまでさまざまな言葉で言い表そうとして来た。
「反知性主義」、「ポピュリズム」、「株式会社化」、「単純主義」などなど。
そして、最近になって、それらの徴候が「民主主義をめざさない社会」に
固有の病態ではないかと思い至った。その話をしたい。
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民主主義はまだ存在しない。
私はそう思っている。「まだ」というか、たぶん永遠に存在しない。
民主主義は「それをこの世界に実現しようとする遂行的努力」というかたちで、
つまりつねに未完のものとしてしか存在しない。
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一神教の信者たちは
彼らが生涯ついに出会うことのなさそうな
救世主の到来を勘定に入れて今ここでの彼らの生活を律している。
ある概念の持つ指南力はそれが現実化する蓋然性とは関係がない。
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それと同じである。
そう考えると現代日本における民主主義の空洞化の説明がつく。
「主権者」とはどういう人間のことか。
私はこれを「自分の個人的運命と国の運命の間に
相関がある(と思っている)人間」と定義したいと思う。
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主権者の賢愚や善悪がそのまま国運を決する。
それなら民主制でも話は同じはずである。
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自分のただ一言ただ一つの行為によって
国がそのかたちを変わることがあり得るという信憑を手離さない者、
それが民主主義国家における主権者である。
だから、主権者は
「自分が道徳的に高潔であることが祖国が道徳的に高潔であるためには必要である」
「自分が十分に知的な人間でないと祖国もまたその知的評価を減ずる」と信じている。
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主権者のいない民主制国家では、
国民は自分の個人的な生き方と国の運命の間には相関がないと思っている。
自分が何をしようとしまいと、国のかたちに影響はないと思っている。
公共的圏域はあたかも自然物のように自分の外に存在しており、
自分が汚そうと傷つけようと蹴とばそうと盗もうと、
いささかも揺らぐことはないと思っている。
今の日本人はまさにそれである。
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主権者であることを止めた国民というのは
「高速道路が渋滞しているときに、路肩を走るドライバー」に似ている。
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どうやって「公共の福祉を配慮する人」と
「自己利益だけを追求する人」の比率をコントロールするか?
それが民主制国家の直面する最大の現実的問題である。
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社会の民主化が進み、「大人」の数が増えるにつれて、
公共の福祉を顧みず利己的にふるまう人間(すなわち「子ども」)が得る利益は増大する。
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つまり、民主制とは、その構成員たちに絶えず
「他の連中には法と倫理を守らせ、常識に従わせ、
公共の福祉に配慮させておいて、
自分ひとりは抜け駆けして利己的・違法的・非民主的にふるまう」ように
誘いかけるシステムなのである。
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民主制国家においてはとりあえず一定数の国民が、
自助努力がそのまま国力の増大、
国運の上昇に結びつくと信じているからである。
自分がまず大人にならなければならないと信じているからである。
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私が表現の適否を公的機関が判断することに反対するのは、
その機関がつねに誤った判断を下すと思っているからではない(多くの場合、その判断は正しいだろう)。
それが国民の適切な判断力の涵養に資するところがないからである。
国民の市民的成熟を目指さないからである。
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「あなたが判断しなさい」と権限を委ねない限り、
人は自分の判断力を育てようとはしない。
「あなたが決めるのです」と負託しない限り、
人は主権者としての自己形成を始めようとしない。
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民主制はそのような「賭け」なのである。
今の日本で民主制が衰微しているのは、
私たちにその覚悟がなくなったからである。