【Apr_24】喩にあらぬ過剰なまでの物語携えたまま死にゆけばいい


中澤系さんの命日_20090424。

隙に気がつくのは、実は細かくない人なんですよ。
だから、今の大学生よりも、僕が大学生だった頃の大学生の方が、隙を見分けられました。
たとえば、キメキメにきめている「高嶺の花」的な女がいれば、
大学生だった僕らは、それを戦略だと受けとったんです。
どんな戦略かというと、
見掛けに騙されずにハードルを越えてくる男を見極める戦略っていうことと、
キメキメに見えて随所に見せる隙をちゃんと見つけてくれる
「まともな男」「女の心を自分に映し出す男」を見極めるための戦略っていうことです。
ところが、ルールの外側に出たがらない昨今の「細かい男」は、
まじで馬鹿ぞろいになりました。
女の子が無理目に見えると、無理だと思っちゃうのね。
それが僕のいう「男の劣化」です。
そんな男を相手にしてしまう「劣化した女」が増えたのも、理由でしょう。
こうして残念なことが起り続けている中で、
残念なことが起こっていることに気がつく人たちが今もやはりいます。
そこには若い人たちもいます。
そんな人たちが中澤系さんのこの歌集を読んで、やはり……と受け止めているんだろうと、僕なんかは思うわけです。

【Apr_24】システムの中に契約されて縛られたきみの姿が好きだ


中澤系さんの命日_20090424。

それで思うのは、女性が大勢いる中で失礼かもしれないけど、
最近の女性には見かけはきれいになった方がいっぱいいるけれど、
心の眼で見るとブサイクな女性が多くなったなあってことなんですね。
それが、見ず知らずの男女間で生じる余韻や余情に関係します。
最近の女性たちの心にダイヴして世界を見ても、
世界が輝いたりワクワクしたりしないんです。
社会学者としてよりもナンパ師の観察眼だけど、
社会のフラット化による心身の劣化現象、
心身の劣化による社会のフラット化=法化現象が、両方とも観察できるんです。

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【Apr_24】展望のない未来までシミュレイトしたくて暗い部屋に灯ともす


中澤系さんの命日_20090424。

中澤さんの歌集を読むと、そういう言葉がいっぱい出てきます。
たとえば準急電車の「準急」。
この世に電車ができたときいきなり「準急」は出てこない。
まず「普通」があって、次に「急行」ができる。「準急」は絶対、その次ですよね。
あと、「切れてるチーズ」。これも、切れてないチーズがまずあって、それから「切れてるチーズ」ができる。
僕らの世代だと、その時系列やプロセスを追える。
けれど、いま20代の人とかは、いきなり準急や切れてるチーズ、
そして糖衣錠があるところに生まれてくる。
だから、普通から急行を経て準急となったという、
その時間の流れがわからないことがある。

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【Apr_24】ゆっくりと留め金が外れる音がするパラダイム変換の時の


中澤系さんの命日_20090424。

たとえば、「正露丸」っていう薬があって、
「正しい」の「正」に露西亜(ロシア)の「露」、それと「丸薬」の「丸」で「正露丸」です。
しかし、もとは「正」ではなく「征伐する」の「征」が使われていた。
つまり、日露戦争などのときに日本の軍人が携帯していった薬というような由来があった。
戦後、それじゃまずいので、じゃあ字を変えればよいとなって、征伐の「征」を「正」に変えたと。
でも、だからといって、露西亜が正しいといってる薬ではなくて、単純に名前を変えただけなんですね。
だから、価値観や善悪を別にすると、「征露丸」のほうが意味を持つ言葉だといえます。
言葉としての「正露丸」は、デクノボウなのです。

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【Apr_21】大浦信行『遠近を抱えた女』


大浦信行監督『遠近を抱えた女

天皇のタブーに切り込んできた美術家の映画。
コレ観て監督の問題意識が共有できた。
コロナ禍でこの国が停滞し、看過してきたモノが浮き彫りに。
天皇タブーは結局、敗戦タブーだってこと。
首都の中心に位置する皇居が虚ろに見えるのは、
この国の中心が虚ろなのと同義。
天皇タブーもドグマ不在の『日本教』ゆえアンタッチャブルなのだ。

そんな戦後を生きてきた大浦監督にしてみれば、
虚ろな『日本教』を解体することこそが自身を解体することで、
『遠近を抱えた女』はそのことを、
自身を痛める女性に相似的に投影して描いた作品なのだ。
痛みによって存在事由を得ようとする行為は、
虚ろに光を当て叩かれる美術家大浦信行と呼応する。
コロナ禍で生活世界が止まった今だからこそ、
日本のブラックホールを白日の下にさらす時なのではないか。
オンライン上映は05/08まで。

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【Apr_13】小室直樹の世界


引きこもりの読書体験でとてつもない「知の巨人」と出会った。

橋爪大三郎、副島隆彦、大澤真幸、宮台真司といった面々が師と仰ぐ小室博士。
敗戦を拠り所に「日本を戦争で負けない国に」するため、米国以上に近代の本質を理解すること。
情念が目標を与え、合理が手段をもたらす『和魂洋才』の精神で、
数学、経済学、物理学、統計学、社会学、政治学、心理学、人類学と知を横断し、
社会を科学的に構造/機能分析した警世家。


生涯に於いて【天皇】【田中角栄】【三島由紀夫】に関心を持ち、
彼ら同様、日本国構造体の外側から日本を救おうと決死に動いた。

その中で自分が特に響いたのが『日本教』というアプローチ。
「イスラム教が何故日本に入ってこなかったのか」という命題から⇒
日本には行動規範が成立しない、何故なら「神や仏あっての人間ではなく、神や仏は人間のための存在」だからと説く。
島(国)の外側に帰属意識がないから、入ってくる情報がご都合主義に陥りやすく、
よって「自分に役立てば良い、何でもありな状態が良い」という無規範・無連帯な行動規範(アノミー状態)に落ち着くからだと。

外の目が育たないから批判的に捉えることができない…という構造は、まさに今のニッポン。
外部からの指摘や批評が真正面に受け止められず、常に内輪話の空回りが常態化。
だから物事が常に右往左往する「空気」紐帯社会。

そんな島社会が【新コロナ】によって崩壊目前となった今日、
「国」存続を占うのは、どこに帰属性を求めるかだと思う。
小室直樹、掘り下げるわ。

以下コピペ ↓↓↓

日本社会はなぜ、危機にあるのか。それは日本人が構造的アノミー(無規範・無連帯)に陥っていて、そこから脱却する方法を見いだせないからだ。
社会を科学的に分析することもできず、教育によって社会を正常に再生産することもできず、経済が不均衡に肥大化した半面、
政治や文化や学術は停滞したままであり、歴史と直面することもできないし、国際社会と健全な交流をすることもできない。
これら戦後日本の宿痾というべき構造の病理は、アノミーとして、人々を蝕んでいる。
(『危機の構造』)

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平和とは、戦争がない状態。平和とは、戦争する能力がある諸国家が、努力に努力を重ねて戦争を実測しないで済んでいる状態。
ではなぜ戦後の日本人は、そのようなリアルな認識ができないのか。それは、日本が当事者能力を取り上げられ、失っていること。
その代価として、アメリカが当事者能力を日本に代わって買って出て、
米軍を日本に駐留させ、責任をもって、日本の平和を保障する立場にいるからである。
(『新戦争論』)

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ユダヤ教では罪なきゆえに責任を負うことによって同胞である証とするわけでしょう。
自分は何の罪もないのに、他人の罪を、罪の責任を負うことによって、彼と同胞である証とする。
日本ではこれと逆に自分が罪を犯すと自分と同じ共同体に属するものに自動的に罪を負わせることによって、贖わせてしまう。
罪なき同法に罪を負わせる構造になっている。
(『日本教の社会学』)

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憲法の本質は権力を拘束するもの。普通の法律とは役割が違う。
国民には憲法を守る義務なんか一切ありませんよ。
憲法は、憲法を尊重し、擁護し、憲法を守る義務なんかまったく国民には負わせていないんだ。
(『痛快!憲法学』)

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第二次大戦の敗北にも関わらず、天皇が退位せず、非難もされず、処刑もされず、かえって戦後日本の国民統合の象徴として甦ったこと。
天皇とはつまるところ、日本が近代化できた秘密が凝縮された存在である。
それは人であり神であるという、キリスト教のロジックを秘密の核にしているのではないか。
(『天皇恐るべし』)

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行政官僚に対抗し、選挙で支えられる有能な民主政治家を、法律上の形式犯で裁き、葬っても良いのか。(『田中角栄の呪い』)

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三島の自決は同志の死であると。日本の国家や官僚機構、企業体制やアカデミズム、などは近代を体現しておらず、
日本人民のためにもならない、エセ近代だという深い憤りを、小室博士は抱いていて、
それを三島由紀夫に仮託して述べている。
(『三島由紀夫が復活する』)

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【Apr_10】教育をめぐる虚構と真実


「小さな国家で知られる新自由主義はふたつ柱があります。
ひとつは先に述べた財政破綻の回避。ところがもうひとつある。能動的市民社会性の護持。
【国家は社会の補完物に過ぎないのに、社会が国家に依存するのはおかしい。社会は自立しなければいけない】とする発想です。
新自由主義はもともと市場原理主義ではありません。

能動的市民社会性、社会の自立、国家から自立した相互扶助、社会的包摂といった概念がひとまとまりになっています。
これらは新自由主義というより、今日の欧州主義の柱です。
グローバル化は不可避だが、グローバル化に個人が晒されないように、社会の分厚さによって
包摂された状態が望ましいとする考え方です。
ただしサッチャーやレーガンが、伝統護持と社会的包摂と等値し、規律や道徳を前面に押し出したので、
今日「ネオリベ」と揶揄されるイメージになりました。
社会的包摂の空洞化による不安を利用して、感情浄化をもたらす重罰化や戦争を奨励するイメージです。
いわば福祉国家的なリベラルの時代への、バックラッシュでした。

今日ではバックラッシュにかわってグローバル化が問題になってます。
グローバル化は不可避だが、個人が直接グローバル化の嵐に晒されては大変だ。
でも国家が個人をダイレクトに手当する財政的余力もない。だから社会的包摂_自律的相互扶助_によって、
個人を守る必要がある。ただし社会的包摂の手段は、伝統にこだわらずオープンに考える、と。

日本は経済の好調もあって、国家の財政破綻が問題化するのが遅れました。
同じく、経済の好調が背景で、教育が抱える困難の問題化が遅れました。
91年にバブルが崩壊して以降、先進国から20年遅れで、財政問題や教育問題が主題化されはじめ、
リベラル派が自己決定化、分権化、民権化、市場化などを主張するようになりました。

僕もこうした流れにコミットしましたが必ずしもうまく行かなかった。理由はポストモダン化です。
いわば「外が消えた状態」がポストモダン化です。
〈生活世界〉を生きる我々の便益のために〈システム〉を利用するという観念が崩れた状態。
〈生活世界〉の空洞化と〈システム〉の全域化のせいですべてが〈システム〉のマッチポンプに見える状態。

〈生活世界〉が空洞化しているので、「〈生活世界〉に任せます」というタイプの分権化・民権化・市場化は、不安をもたらしがちです。
そこにグローバル化の波が重なるので、そうした傾向に拍車がかかります。
「隣は何をする人ぞ」「やったもん勝ち」「勝ち逃げ万歳」といった雰囲気になります。

それ自体がふたたび不安を増幅しますから、規律化要求、監視化要求、重罰化要求が上昇して、
それに応える【不安のマーケティング】や【不安のポピュリズム】が経済と政治を席巻します。
かくして、市場原理主義的なもの小泉純一郎的なものと、国家主義的なもの安倍晋三的なものが、カップリングを見せ始めます。

「市場原理主義がもたらす不安を国家主義的なもので埋め合わせる」という循環を断ち切れないと、
鈴木さんや僕が言うような「真・善・美の判断能力」と「コミュニケーションスキル」に重きを置く教育は、
「新しい勝ち組志向」の一種になってしまうでしょう。それを回避するにはどうするべきかです。

市場原理主義と国家主義のカップリングを早く終わらせるには
「市場原理主義がもたらす痛みは国家主義程度じゃどうにもならない」という経験が不可欠です。

それにはもっと経済的に貧窮する必要があります。

幸か不幸か必ずそうした方向に向かうでしょう。
我々に出来るのは「気付きまでの時間をできるだけ短縮すること」です。

具体的には「みんなで懲りる」ことが必要です。
文科省が言うような中央集権化を徹底して、国民が要求する規律化・重罰化・監視化を行っても、
いじめも犯罪もモラルハザードもなくならない。それどころか失敗を象徴するような大事件がいくつか起こる。
かくして「昔と変わらないどころか、悪くなってるじゃないか」と気付くことが重要です。

(宮台真司×神保哲生『教育をめぐる虚構と真実』より)

【Apr_08】民主主義を目指さない社会


民主主義をめざさない社会(内田樹の研究室)

安倍政権が7年ものあいだ居座ってしまった理由は、
政権交代による民主主義の強化に主権者が疲れてしまった結果なのだと。
あの時も震災による未曾有の事態を受け止めることが出来なかった。
今回もコロナで民主制が試されている。

以下コピペ。↓↓↓

統治機構が崩れ始めている。公人たちが私利や保身のために
「公共の福祉」を配慮することを止めたせいで、
日本は次第に「国としての体」をなさなくなりつつある。

↓↓↓

私はこの現象をこれまでさまざまな言葉で言い表そうとして来た。
「反知性主義」、「ポピュリズム」、「株式会社化」、「単純主義」などなど。
そして、最近になって、それらの徴候が「民主主義をめざさない社会」に
固有の病態ではないかと思い至った。その話をしたい。

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民主主義はまだ存在しない。
私はそう思っている。「まだ」というか、たぶん永遠に存在しない。
民主主義は「それをこの世界に実現しようとする遂行的努力」というかたちで、
つまりつねに未完のものとしてしか存在しない。

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一神教の信者たちは
彼らが生涯ついに出会うことのなさそうな
救世主の到来を勘定に入れて今ここでの彼らの生活を律している。
ある概念の持つ指南力はそれが現実化する蓋然性とは関係がない。

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それと同じである。
そう考えると現代日本における民主主義の空洞化の説明がつく。

「主権者」とはどういう人間のことか。
私はこれを「自分の個人的運命と国の運命の間に
相関がある(と思っている)人間」と定義したいと思う。

↓↓↓

主権者の賢愚や善悪がそのまま国運を決する。
それなら民主制でも話は同じはずである。


↓↓↓

自分のただ一言ただ一つの行為によって
国がそのかたちを変わることがあり得るという信憑を手離さない者、
それが民主主義国家における主権者である。
だから、主権者は
「自分が道徳的に高潔であることが祖国が道徳的に高潔であるためには必要である」
「自分が十分に知的な人間でないと祖国もまたその知的評価を減ずる」と信じている。


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主権者のいない民主制国家では、
国民は自分の個人的な生き方と国の運命の間には相関がないと思っている。
自分が何をしようとしまいと、国のかたちに影響はないと思っている。
公共的圏域はあたかも自然物のように自分の外に存在しており、
自分が汚そうと傷つけようと蹴とばそうと盗もうと、
いささかも揺らぐことはないと思っている。
今の日本人はまさにそれである。

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主権者であることを止めた国民というのは
「高速道路が渋滞しているときに、路肩を走るドライバー」に似ている。

↓↓↓

どうやって「公共の福祉を配慮する人」と
「自己利益だけを追求する人」の比率をコントロールするか? 
それが民主制国家の直面する最大の現実的問題である。

↓↓↓

社会の民主化が進み、「大人」の数が増えるにつれて、
公共の福祉を顧みず利己的にふるまう人間(すなわち「子ども」)が得る利益は増大する。

↓↓↓

つまり、民主制とは、その構成員たちに絶えず
「他の連中には法と倫理を守らせ、常識に従わせ、
公共の福祉に配慮させておいて、
自分ひとりは抜け駆けして利己的・違法的・非民主的にふるまう」ように
誘いかけるシステムなのである。

↓↓↓

民主制国家においてはとりあえず一定数の国民が、
自助努力がそのまま国力の増大、
国運の上昇に結びつくと信じているからである。
自分がまず大人にならなければならないと信じているからである。

↓↓↓

私が表現の適否を公的機関が判断することに反対するのは、
その機関がつねに誤った判断を下すと思っているからではない(多くの場合、その判断は正しいだろう)。
それが国民の適切な判断力の涵養に資するところがないからである。
国民の市民的成熟を目指さないからである。


↓↓↓

「あなたが判断しなさい」と権限を委ねない限り、
人は自分の判断力を育てようとはしない。
「あなたが決めるのです」と負託しない限り、
人は主権者としての自己形成を始めようとしない。

↓↓↓

 民主制はそのような「賭け」なのである。
今の日本で民主制が衰微しているのは、
私たちにその覚悟がなくなったからである。

【Mar_29】春の雪


「春の雪」の儚さに美学を昇華した三島文学の金字塔だけど、この現實を鳥瞰し、
不可解なものとして突き放す感覚は、彼の一貫した立ち位置だったなぁと改めて。
カミュの「世界の無意味性の自覚」に近いものがあるわ。

  ↓↓↓

この日、大和平野には、黄ばんだ芒野に風花が舞つていた。
春の雪といふにはあまりに淡くて、羽蟲が飛ぶやうな降りざまであつたが、
空が曇つてゐるあひだは空の色に紛れ、かすかに弱日が射すと、
却つてそれがちらつく粉雪であることがわかつた。
寒氣は、まともに雪の降る日よりもはるかに厳しかつた。

清顕は、しんしんと鳴つてゐる頭でこの風景に對しながら、
自分は實に何ヶ月ぶりかで外界といふものを見たと思つた。
それは實にしんとした場所だつた。俥の動揺と重い瞼とが、
その景色を歪ませ、攪拌してゐるかもしれないけれど、
悩みと悲しみの不定型な日々を送ってきた彼は、
こんなに明晰なものには久しく出會わなかつた氣がした。
しかもそこには人の影は一つもなかつた。

『俥のまま門を入つて、玄関先まで三町あまり、
そこも俥を乗り続けてゆけば、今日、聰子は決して會つてはくれぬやうな氣がする。
あるひは寺で、今、微妙な變化が起こつてゐるかもしれないのだ。
一老が門跡を説得し、門跡もつひに心折れて、今日もし僕が雪を冒して来たら、
聰子と一目なりとも會はせる手筈になつてゐるかもしれないのだ。
しかし、もし僕が俥を乗り入れれば、それが向うの心に感應して、
叉微妙な逆轉が起つて、聰子に會はせぬことに決るかもしれない。
僕の最後の努力の果てに、むかうの人たちの心に何かが結晶しかかつてゐる。
現實は今、多くの見えない薄片を寄せ集めて、透明な扇を編まうとしてゐる。
ほんの一寸した不注意で、要は外れ、扇は四散してしまふかもしれないのだ。
…一歩退いて、もし俥のまま玄関まで行き、今日も聰子が會つてくれないとすれば、
その時僕は自分を責めるにちがひない。
「誠が足りなかつた。どんなに大儀であつても、俥を下りて歩いて来てゐれば、
その人知れぬ誠があの人を博つて、會つてくれたかもしれないのに」と。
…さうだ。誠が足りなかつたという悔いを残すべきではない。
命を賭けなくてはあの人に會へないといふ思ひが、あの人を美の絶頂へ押し上げるだらう。
そのためにこそ僕はここまで来たのだ』

道のべの羊歯、藪柑子の赤い實、風にさやぐ松の葉末、
幹は青く照りながら葉は黄ばんだ竹林、夥しい芒、
そのあひだを氷つた轍のある白い道が、ゆくての杉木立の闇へ紛れ入つてゐた。
この、全くの静けさの裡の、隅々まで明晰な、そして云はん方ない悲愁を帯びた純潔な世界の中心に、
その奥の奥の奥に、まぎれもなく聰子の存在が、小さな金無垢の像のやうに息をひそめてゐた。
しかし、これほど澄み渡つた、馴染のない世界は、果してこれが住み馴れた「この世」であらうか?


(三島由紀夫『豊饒の海』第一巻「春の雪」より)

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【Dec_24】下り坂をそろそろと下る。


平田オリザ『下り坂をそろそろと下る』

非常に含蓄多い内容の本だけど、一番引っ掛かったのは、この安全神話・不敗神話のくだり。
現在の日本がここまで「出口なし」の状況に陥った背景は、ここに尽きると思ったわ。
社会全体の「遊び」のなさ、「絶対」を強行する生真面目さ、
その背景にはオリザさんも口酸っぱく書いているが、センスを軽視する姿勢にある…と。
この「絶対」には、他者を卑下する態度も含まれていて、つまりは「弱者」排斥の理屈にもつながるわけで、
「遊び」のなさは、レールから外れることの不寛容さとも通底している。
「薬物」への潔癖的態度、「競馬・パチンコ」への予定調和的容認は、すべてここに集約されてるわ。

以下コピペ。
↓ ↓ ↓

新幹線が売れない理由の一つであった安全基準の違いは、「安全」に対する日本人の感覚の特殊性にも由来する。

世界一安全な日本の新幹線が、安全設計上の問題で売れないというのは不思議に思われるかも知れないが、これもまた事実である。

新幹線は絶対に事故が起きないことを前提にして制度設計がなされている。
そして開業以来五十年、衝突事故どころか、人身事故も一度も起こしていないという素晴らしい成果を上げている。
一方で、欧米の高速鉄道は、おそらく事故が起きた際に最悪の事態を避けるように、あるいは被害が最小限で食い止められるように設計がなされている。

「だって原発は事故を起こしたじゃないですか」
いや、原発事故を引き合いに出すまでもなく、JR西日本は、2005年の福知山線脱線事故で107名の死者を出している。
これは先進国で起きた列車事故の中でも、相当に大きな事故であった。

よく言われることだが、例えば零戦。

1940年の時点で、零式艦上戦闘機いわゆる零戦は、たしかに世界最強だった。
一対一でのドッグファイトでは、パイロットの技量が同等なら、絶対に負けることがない無敵の戦闘機だった。

しかし、零戦には、徹底した軽量化のために防御機能を極端に減らしたという弱点があった。
特にパイロットを守るための防御が弱かったとされている。
(中略)私は、基本的には、ここでも制度設計の文化の違いがあったように思う。
陸軍も海軍も、決して単純な意味で、最初から人命を軽視していたワケではないだろう。
優秀なパイロットを育成するには、最低でも3年程度の時間を要するのだから、それをムダにして良いわけがない。
それよりも、「絶対に負けない」という設計思想に問題の本質があるのではないか。
絶対に負けない飛行機を作れば、確かに防御の必要はない。だが、そのような無敵の戦闘機は、この世に存在しない。

「絶対に事故が起きない」「絶対負けない」という安全神話・不敗神話は、日本文化の特質である。
しかし、事故は起き、零戦は敗れた。

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