嫌われ松子の一生


あの中島哲也が描く「不幸な女のシンデレラストーリー」だ。
CM制作で培われた秒刻みの映像展開とCGを駆使した演出で
ディズニーのミュージカル映画よろしく、畳み掛けてくる。

息つく暇もない。…圧倒されてしまった。

そして、感動した。…涙が出た。

       ●

松子は自分にまっすぐ生きた。
不器用に、一途に、自分の感覚を信じ、突き進む。
乗り越えていかなきゃ…と
どんな不幸な状況でも、健気に振る舞う。

自分が招いた結果だ…と内省的に考えず、
とにかく前を向いて生きている。

       ●

まげて のばして お星さまをつかもう
まげて 背のびして お空にとどこう

小さく まるめて 風とお話ししよう
大きく ひろげて お日さまをあびよう

みんな さよなら
またあしたあおう

まげて のばして おなかがすいたら帰ろう
歌を うたって おうちに帰ろう

       ●

とてつもなく不幸な話なのに、
なんでこんなに元気になるんだろう。

…そんな疑問がわいた。だから、自分に置き換えて考えてみた。

まわりの顔色を伺ってばかりいるからじゃないか?
いつの間にかよけいな肉がついて、体も心も重たくなってるからじゃないか?

それでも予定調和に流されて、自分を押し殺したりしてるからじゃないのか?
ブルーハーツの歌に合わせて飛び跳ねていたあの頃は、もっとシンプルだったんじゃないのか?

       ●

…そうか、松子はえらくシンプルだ。
周りが見えないほどシンプルで、だから傷つけもし、傷つけられもする。

もっと削ぎ落としてみても、いいんじゃないか?
自分自身をシンプルにしてみたら、もしかしたら見えてくるんじゃないか?

…やっぱり、そうなのか。
中島哲也もシンプルだもんなあ。
Simple is BEST! シンプルは強し。

「No Fear!」ホテル・ルワンダの恐怖


待望の沖縄での公開に、すぐさま足を運んで来た。

すざまじい映画であった。一言で語ることのできない衝撃。
始まりから終わりまで、「恐れ」を拭うことなどできなかった。

これが1994年の4月に起こった現実なのか?

同じ言語を話し、同じ生活を共にしていたフツ族とツチ族が、
ある日を境に、殺し殺される「報復」の血の海と同化してしまう。
人口750万人のルワンダで、そのうちの11%、85万人ほどのツチ族が、
「報復」の4週間で10万人単位の大量殺害を受ける。1日1万人の大虐殺である。

…これはもう、ホロコーストである。民族浄化である。

パスポートに記された「HUTU」「TUTSI」。
そこに大きな違いはない。顔かたちや肌色が少し異なる程度だ。
オキナワの地に例えるのは適当ではないが、
「うちなーんちゅ」「ないちゃー」ぐらいの違いだろう。

      沖縄人と県外人。

そのような差異だけで、隣人を死に陥れる恐怖。
この恐怖は、ちょっと想像するのがむずかしい。
歴史から学ぶことはできるが、実感はできない。

しかし、1994年のルワンダでは、実際に起こっていたのだ。
ひとりのホテルマンが、果敢にその不条理と戦ったのだ。
最後まで職務を遂行することで、なんとか平衡を保ち、
冷静な判断と臨機応変さで、コトの対処に当たる。
…その葛藤は、相当なものだったと思う。

「No Fear」ルワンダの子供たちの言葉である。

恐れのない世界…それこそが、開かれた未来だ。

ひとりひとりがこの現状を真摯に受け止め、
自分の立場に立ち返って考えれば、
もっともっとこの地球は「One Life」へとつながるだろう。

      是非とも観てほしい。

      「ホテル・ルワンダ」公式サイト

      民族紛争の絶えないルワンダ

春光乍洩~ブエノスアイレス~


Cu-Cu-Rru-Cu-Cu Palomaつながりで、
王家衛ウォン・カーウァイ監督の「ブエノスアイレス」を再見する。
そして、思い出してしまった。

張国栄~レスリー・チャン~の不在を。

この映画の上映は1999年。
そして、張国栄は2003年4月1日に自殺を図っている。
あまりにも衝撃的で、かなり引きづったことを、思い出してしまったのだ。

Dicen que por las noches         夜になっても
No mas se le iba en puro llorar      もう鳴くことはなかったという
Disen que no comia            食べもせず
No mas se le iba en puro tomar       飲むことすらしなかったという
juran que el mismo cielo          その涙が落ちる時
Se extremecia al oir su llanto        空が身を震わせたのがわかった
Como sufria por ella            死んでしまってなお
Que hasta en su muerte la fue llamando  その時の哀しみを忘れられない

Ay ay ay ay ay , Cantaba        歌っていたおまえ
Ay ay ay ay ay , Gemia         呻いていたおまえ
Ay ay ay ay ay , Cantaba        心を焼き尽くす炎のせいで
De paison mortal Moria         死んでいった

Que una paloma triste          まるで哀しいハトのように
Muy de manana             朝早く
Le va a cantar              歌っていたっけ
A la casita sola              誰もいないこの家で
Con las quertitas de par en par      どの扉も いっぱいに開いた家
Juran que esa paloma           そのハトは 
No es otra cosa mas que su alma      おまえの魂だったのだ
Que todavia la espera           不幸な女が
A que regrese la desdichada        戻ってくるのを待っていた

Cucurrucucu , Paloma           ククルククー ハトよ 
Cucurrucucu , No llores           ククルククー 何があっても もう鳴くな
Las piedras jamas Paloma          ハトよ おまえが恋について知るうることは
Que van a saber de amores         なんだろうか

張国栄の嘆きがそのままカタチになったような
切ない憂いを帯びてしまった。

映画「ブエノスアイレス」自体が切なすぎて言葉にならない。

異国の地、しかも祖国から一番遠いところで、途方に暮れてしまう。
自分はどこに行くのだろう。自分はどこに辿り着くのだろう。
愛する者との復元不可能な亀裂。
自暴自棄の日々。

心を焼き尽くす炎のせいで死んでいった。

映画と現実が交錯してしまっている。
張国栄は、映画の中でも心をむき出し、深く傷つき、
均衡を崩したまま行方知らずとなってしまうのだ。

ブエノスアイレスの石畳に沁み込む
Astor Piazzollaのbandoneonがまた、
露光不足の湿った空気にまとわりついて
きゅうきゅうと胸を締め付ける。

キッチンの裸電の下で踊る、張国栄と梁朝偉。
押し殺した感情が、音楽の昂揚とともに露わになり、
自身を投げつけるように激しく弄るシーンは
その不均衡を剥き出しにしていて、とても痛い。

轟くイグアスの滝。

この滝のように激しく、制御不可能なモノが
人間の内部には巣食っていることを、王家衛は描きたかったに違いない。
人間もまた、大いなる自然の一部であることを…。

合掌、張国栄。

Cu-Cu-Rru-Cu-Cu Paloma


風邪を引いてしまった。
見事な悪寒と頭痛。典型的な風邪だ。
月曜日を丸一日、寝て過ごした。
それでも悪寒と頭痛は引かなかった。
辛くなってきたので、映画を見ることにした。
ショック療法である。

ぼおっとした頭で選んだ映画は「Hable con Ella (アブレコンエジャ)」
Pedro Almodovar監督の英題「Talk to Her」である。

DVD発売と同時に購入していながら、
今まで封印されていた代物。
確信があったから、見るべき時にと…置いておいたのだが、
何も、こんな状況で見なくても…。

しかし、始まってしまえば、すぐさまのめり込んでしまった。
なんといってもカエターノ・ヴェローゾの「ククルクク、パロマ」には
脳天から血潮が吹き上がった。

   ♪夜が来るたび、ただ泣くだけだったという
   ♪何も食べようとせず、ただ酒を浴びていたという
   ♪その叫びを聞いて、空さえ震えたという
   ♪彼女を想って苦しみ、死の床についても彼女を呼んでいた
   ♪彼は歌っていた、彼はうめいていた
   ♪心を焼きつくし、彼は死んだ

   ♪哀しみにくれた鳩が朝早くから彼の為に歌うだろう
   ♪扉から扉へと、孤独な彼の家へ向かって
   ♪きっとその鳩は彼の魂そのものなのだ
   ♪いまだに彼女が戻ってくるのを待っている
   ♪ククルクク、鳩よ
   ♪ククルクク、もう泣かないで
         (トマス・メンデス作<ククルクク・パロマ>)

孤独に打ちひしがれた男が、死に絶え、魂が鳩となって
それでも彼女の心を求めて鳴く…ククルクク…と鳴く。

ウォン・カーウァイの「ブエノスアイレス」でも
イグアスの滝を背景にこの曲が流れるが、ここまで心に沁みては来なかった。
なんといってもカエターノ・ヴェローゾの哀しそうな顔がたまらない。
    ♪Cu-Cu-Rru-Cu-Cu,Paloma
    ♪Cu-Cu-Rru-Cu-Cu,No llores

映画全体の巧妙な流れも恐れ入ったし、衝撃の結末にも背中を裂かれる思いがしたが、
何より冒頭のピナバウシュとカエターノ・ヴェローゾの歌が、もう見事に脳髄蹴られた。
細かい話は次回につなぐ。

「こと」は「もの」によって起こり、「もの」は「こと」によってつくられる。


京都法然院の貫主、梶田真章の本「ありのまま」を読んだ。
毎日の生活をていねいに、楽に生きるためのヒントが詰まった本だ。
「散歩をする」「眠る」などの営みの中にある意味を
あらためてわかりやすく説いてある。

その中で非常に響いた一節が2つある。

○「縁」あればこそ
○ 任せきる

ひとつは、人と人との関わり合いについて。

わたしという存在は、父と母の因縁によって生まれてきているのであって
すべての存在はその関係性の中で成立しているのだ…

だから、「わたし」は自立しているのではなく、
まわりのいのちとの関わりの中で生かされているのだ…
確固とした「わたし」は実は存在していなくて
日々の移ろいやそれぞれの縁によって変化し続けている。

自分らしさを追い求め、躍起になったり、
その関係性が破綻したことで、自分を追い込んだり、
「想定内」「想定外」と自分の物差しですべてを決め込まない。

この世界には理解の及ばない、知恵の届かない「何か」があって
そういった大きな流れの中で生きているのだから、
まずはそこをスタートにして、大きくとらえた方がいい。

ひとつは、自分自身をみつめることについて。

理解の及ばない部分がある…というところから出発すると
わかりやすいのだが、自分自身の内にも制御できない部分があって
その部分を解放してやることで「他力本願」の心が得られると…

「南無阿弥陀仏」とはまさに「他力本願」の極意を言葉にしたもので
「南無」とは任せる、「阿弥陀」とは「量り知れないいのち」、「仏」は「悟り」の意で
「すべては阿弥陀さまにお任せします」という意味になる。

小さな自分を超えた、大きな存在があるのだから、
あなたのすべてを阿弥陀さまに任せきりなさい…と説いているのだが、
すべてを任せるには、自分自身をしっかり見つめることが必要だ…という逆説になっている。

このふたつのプロットは、同じところにたどり着く。
「生を謳歌しなさい」「生きていることをもっと悦びなさい」
あなたの存在自体が、すばらしいことなのだから、ありのまま生きなさい。

毎日を分刻みで忙殺されている身には、複雑な思いが巡るが、
そんな毎日のいらだちもすべて収斂される大きな懐がこの本にはある。

BROOCH


昨日、本屋でステキな絵本に出会った。

内田也哉子さんの詩と、渡邉良重さんの絵が
半透過の紙に綴られたリトルモアの本。

「BROOCH」

その中の一節。

(前略)

それから
青い空を
青く憶った

外の世界を見ることは

内なる自分に 耳を澄ますことに似てるはず

なのに 気づくと

見失ってしまうこともしばしば

現在地さえも
わからなくなる

たった今 踏み出した一歩

ここまで連なる幾千の足あと

後ずさりしても
スキップしても
たとえそこに立ち止まったとしても

途切れることのない あゆみに

放心する

(後略)

…途切れることのない あゆみ。

どきりとした。

すべてはつながっている。

日々の営みが、その先につながっている。

しかと、生きていこう。

…そう、思った。

オーギー・レンのChristmas Story


映画「SMOKE」の題材になった
Paul Austerの新聞小説。

シガーショップのオヤジ、オーギーが
毎朝7時、同じ場所で12年間撮り続けた記録写真を
作家のポールに見せるシーン。

同じ交差点の同じアングルの写真が
1月1日から12月31日まで几帳面に
1冊のアルバムに収められていて、
どう解釈すればいいのか、困っているポールに向かって
オーギーは言う。

オーギー「ゆっくり見なきゃダメだ。」
ポール 「どうして?」
オーギー「ちゃんと見ていないだろ?」
ポール 「でも皆同じだ。」
オーギー「同じようで一枚一枚全部違う。よく晴れた朝、曇った朝。
     夏の日差し、秋の日差し。ウィーク・デー、週末。
     厚いコートの季節、Tシャツと短パンの季節。同じ顔、違った顔。      
     新しい顔が常連になり、古い顔が消えてく。地球は太陽を回り、
     太陽光線は毎日違う角度で差す。」
ポール 「ゆっくり見る?」
オーギー「おれはそれを勧めるね。明日、明日、明日。時は同じペースで流れる。」

…。

写真は一瞬をとらえる。
しかし、時間は連綿と流れている。
そこに現実と写真の乖離が生じてくる。

無責任に切り取られた写真は
その一瞬を永遠に封じ込めるからだ。

そこに写真の暴力性がある。

それが写真の魅力ともなるのだが、
オーギーはその暴力性を償うかのように、
一瞬一瞬を積み重ねて記録する。

自分の人生を封じ込めてしまうかのように…だ。

クリスマスの夜、人は自分の一生に神秘を感じたいと思う。
キリストになぞり、その享けた生を神格化したいと願う。

しかし、その神秘は一瞬一瞬に輝いているのだ…
ということをこの小説は語っているように思う。

毎日の積み重ねの中に、それは宿っていると。

写真はそのことを伝える手段として、在る。

⇒添付の写真は、ManilaのMakati、トライアングルパークのクリスマスツリー。

hana&alice~篠田昇を偲ぶ~


岩井俊二監督の「花とアリス」完全版DVDを借りて観た。
何よりもショックだったのは篠田昇撮影監督が
メイキングの映像に数多く出ていることだ。

2004年6月22日、彼は52歳の若さで亡くなっている。

「花とアリス」の公開は2004年3月。
彼の遺作となるのは行定勲監督の「世界の中心で、愛をさけぶ」だが、
行定勲は岩井俊二作品の「Love Letter」「スワロウテイル」で
助監督を務めていたから、篠田昇とのつながりは岩井俊二同様深い。

http://www.swallowtail-web.com/jp/eye/backnumber/message_old/message_040623.html

「花とアリス」は篠田昇のカメラワークが思う存分楽しめる作品だ。
ボクは「リリィシュシュのすべて」で逆光に揺れる
手持ちのフレーミングに酔いしれた1人だが、
「花とアリス」では、斜光の美しさや独特の足下のトリミング、
懐に入るようなヒロインへの寄り、微妙な心理を匂わす不均衡なフレームアウトなど
円熟の篠田昇ワークを堪能することができる。

なにより、彼がメイキングカメラに向かって息を吹きかけ、
レンズを曇らせるシーンがあるのだが、番長健在の活きの良さが
こちらに伝わってきて…胸が痛んだ。

52歳。あまりにも若すぎる。

…うなだれてしまう。

宿命って奴が存在するなら、
死の影がいつかは忍び寄ってくるわけで、
…そんな日のためにも
こころの準備として、毎日を精一杯生きる。

…そんな当たり前を実行しよう…と思った。