
【能登半島大震災】
今回炊き出しを行った八ヶ崎集会所。
能登島最北に位置するゆえ、なかなか支援の手が届かない。
中央集権的な動きは災害時機能しないことが、今回も明らかに。
いかに日頃共助の心持ちでお互い接しているかが、非常時の精神的復興に関わってくる。
2ヶ月経っても水も通らない状態が続くのだ。
我田引水に振る舞おうにも、集落全体が機能不全で相互扶助しなければ生きてゆけない。
#photobybozzo
竹野に住まう舞台写真家の地域自治。

【能登半島大震災】
今回炊き出しを行った八ヶ崎集会所。
能登島最北に位置するゆえ、なかなか支援の手が届かない。
中央集権的な動きは災害時機能しないことが、今回も明らかに。
いかに日頃共助の心持ちでお互い接しているかが、非常時の精神的復興に関わってくる。
2ヶ月経っても水も通らない状態が続くのだ。
我田引水に振る舞おうにも、集落全体が機能不全で相互扶助しなければ生きてゆけない。
#photobybozzo

震災時、防災科学技術研究所の要請による災害記録支援員の活動として、
2011年5月3日から7日にかけて陸前高田市を中心に回ったときの記録。
3月11日のあと After March 11, 2011
メンバーの北島さんが10年前の映像を20分にまとめてくれました。音楽も彼の手によるもの。
見返すとまざまざと五感が震える。これほどの崩壊を経験していながら…この国は変われなかった。
利権に塗れた敗戦後の70年はサステイナブルであった。
噴飯ものだわ。写真は今年3月の陸前高田市。
高田松原津波復興祈念公園 国営追悼・祈念施設 設計/内藤廣
その時の#photobybozzoはこちら。
【on_Flickr】0507_stricken

大熊未来塾
大熊ZOOM配信参加。
帰宅困難区域から大熊町の今を木村紀夫さんがLIVE配信。
10年目を迎える原発の地元は、未だ線量2μSv。
今日は初回ということで震災当日の木村さん宅周辺の状況を振り返り、
御家族捜索の過程を150分に亘って伺う。
次女涼凪ちゃんのご遺体が5年9ヶ月後に漸く発見されるという状況の中、
行政は中間貯蔵施設の設置や防潮堤建設で、先へ先へコマを進めようと煽ってくる。
その時間感覚のズレを現場から伝えることで共に考えたい…と始まった『大熊未来塾』。
中間貯蔵施設の期限は30年。
その後、最終貯蔵地に回される予定だが、
既に10年目を迎えた大熊の現実を次世代に渡さなければ、
30年後の人々に木村さんの思いは伝わらない。
亡くなった命を繋ぐ為に立ち上がった木村さんの気持ちを
しかと受け止めていきたい。
#photobybozzo

ダルカラ『語られたがる言葉たち』初日明けました!
現在進行形の原発事故だからこそ、劇中の人々の声がグサグサ胸に突き刺さる。
津波の濁流に家や車が飲み込まれ、一緒くたに流されてゆく嘘の様な現場を知っているからこそ、
全町避難で家も車もあの日のままに取り残された光景を目の当たりにしているからこそ、
全てのセリフがとてもリアルで、だからこそ取り返しのつかない在り様に茫然として涙が止まらない。
「資本主義は真面目な報道と相性が悪い」「民主主義は真面目な報道と相性が悪い」
という2つの現実は、そのままこの社会の様を映していて絶望的になる。
沖縄も福島もまったく解決の糸口が定まらず、宙ぶらりんの状態だ。
しかし「見たいものしか見ないし、聞きたいことしか聞かない」民衆は、
巻き込まれまいとコミットしようとしない。
生きることは有象無象と共に在り、総ては地続きで境界線など存在しないのに、
やたらと線を引いて己れを安パイに留めようと躍起なのだ。
演劇が面白いのは、舞台と客席の隔たりが時間と共に一体化するところ。
他人事だった物語が血肉となって内面化し、演者も観客も渾然一体となる。
終演後のダブルコールはその表れだ。
資本主義も民主主義もこの社会の一面でしかない。
ここに生きる者、この時間を共有する者として、
何が大切なのか…この三部作は問うていると思う。28日迄。
#福島三部作
#photobybozzo

『発酵ツーリズム・青ヶ島トークイベント』@ヒカリエ8F
久々にヒラクと再会〜!発酵から日本再発見の切り口、
その中でも青ヶ島は、宗教も発酵文化も自然と地続きで、
日本風土の持つ共生力が現存する島であること。
逆に云えば、このワイルドさが本来の姿であり、
日本人のメンタリティは死に瀕してるとも言えるわけで。
もっとリアルに五感で取り巻く世界と向き合わないと、…と切実な気持ちになった。
しかし、この場所で荒井さんとヒラクがつながってるのは
ほんと夢のようで『ルイ友』ってあるんだなぁ…と。
萌芽がやがて茂みになり、枝葉がやがて大樹となって、
価値観の転覆が起きることを切に願うわ。
#photobybozzo

発酵ツーリズム@ヒカリエ8F
2019年4月26日_2019年7月8日
記憶を伝達するのは言葉だけではない。
味覚は感性の領域における
「民族の記憶」を保存する方舟。
イイコト云うわ。
#photobybozzo

山内明美さんの『こども東北学』。
2011に出された著書ゆえ、
震災で壊滅した我が地への悔恨が充溢していて、胸が締め付けられる。
今一度、その時の惨状を振り返って見てほしい。
【on_Flickr】0507_RikuzenTakata
これだけ激しい天変地異の中で
「あぁ、これはわたしたちが引き起こしたものだ」
と自身の内に罪を感じ、
その思いをそのまま吐露したのだな…と。
貧富は世の中の常であるけれども、富裕の者は望まないでいても豊かになり、
貧しい者はどんなに富を願っても得ることができない。
しかも、このことに盛衰があるのは、
天地に盛衰があって気候が不順になるのと同じように、自然の理であって、人の力が及ばない。
……宝暦五年(1755年)は五穀が実らず、領内のすべての人々が飢饉に直面してしまった。
夏六月から秋七月になるまで長雨が続き、冷たい風が吹いて、暑さを皆殺してしまった。
身分の高い者も低い者も、年寄りも若者もみなが、にわかに青ざめ、うろたえ、嘆き悲しみ、
この何とも言いようのない出来事を記録した。
翌年の夏に至っては!ついに一日の命も保ち難く、
親子兄弟の愛情さえ忘却してしまうほどの悲惨な有様であった……。(『飢饉考』より)
2019年の日本はとても歪んでいてしっかり立って居られないけど、
その昔、飢饉に直面した人々の苦悩は「生」に直結する事態だった。
だからこそ、自分のからだが海や山にも、コメやイモにも直結していて、
「生きる」はこの地の山や海と同義だったのだ。
震災によって引き起こされた「原発事故」は、未来永劫、
この山や海に禍根を残した。
山内さんは書く。山や海を基本とする「村の生き方」を全否定するカタチで
敗戦後の近代社会は勃興した。しかし、その価値観の結実が「放射能汚染」だと。
元京大の小出裕章さんは言う。「核の歴史は、人間の征服欲の歴史」と。
これだけの事態に及んでも尚、【原子力=核】が活況を極めているのは、
「核を牛耳るものは、世界を牛耳る」と目されているからだと。
敗戦国である日本のルサンチマンたるや、「何じゃこりゃ〜!」ですよ…と。
だから今となっても【原子力=核】に追いすがっての「プルサーマル」だし、「夢の増殖炉」なんだと。
国の品格って、民の品格の写しだと言うけど、
正直これだけの「負けず嫌い」だとは。島国根性、アッパレだわ。
内向き社会で内向き市場だから、
世界を知らずに、世界君臨を目指せる。
そういった背景が、この国の歪みそのものだし、
自国の豊かさを身売りしてでも君臨しようとする【征服欲】の顕れなんだと。
鏡がないのね、どこまでも。
「温故知新」も「他を知る」も怠り、
今を弄することに盲信している日本。
【無目的】なのは、弱さ故なのです。ちーん。
#photobybozzo

『初湯』吉増剛造
濡れている。
濡れている。それをみたものはこの世にはいない。死水か
ら初湯へ。初湯から死水へ。母よ。たっぷりと濡れているの
を忘れて、瞼を濡らすのは、いつからはじまったのか。仮死
の徴候のような、瞼ににじんでくる、母よ、睫毛よ、岸辺の
筏よ。
濡れている。
酒精も、発汗する額も、濡れている。黒岸と呼びならわし
た、幻の大陸がわたしの眼にみえてくる。急流の、洪水や氾
濫ではない。どこかひび割れている河底に萌えたちはじめる
眼、その気配である。母よ。死水から初湯へ。
あれは、泳いでいる死体だ! とだれかが叫ぶ、おそらく
対岸の村の、餓鬼たちだ。
母よ。ひじょうに濡れている。障子も五臓六腑も、あたま
のなかも、手のほどこしようもないほど濡れている。母よ。
宇宙はかーるくゆがみ、どこからか水の漏れる音が聞こえ
てくる。雨期なのであろうか。
死水から初湯へ。初湯から死水へ。
おれにはなんにもするこたねえや!
医者は聴診器を身体にあてて、そこが雨期か乾期かをしら
べるのだ。
ちたん、ぽおたり。ちたん、ぽおたり。
ちたん、ぽおたり。ちたん、ぽおたり。
川やくちびるが濡れている。
わたしの職業は、河川工事の人足だろうか。気がつくとい
つも、銀河のような中州にとり残されて、夜の帳のおりてゆ
く。ああ、母よ。
わたしはあのうみがなつかしい。

今しゃべりながら気がつくんだけれども、
あの三・一一の大災厄から五年近くたって何をやってるかといったら、
しきりに自分で洪水を起こしてるのね(笑)。
水に対する「驚異」が一貫して身体にも浸透していて、あの大災厄のときにも、
すぐに陸前高田に飛んでいきました。以来五年近く、
紙を濡らして、氾濫状態を起こす、……文字のある世界を自らの手で壊滅状態にまで運んで行くということが、
「詩作」の中心になりました。勿論「伝達言語」でもなく「絵画」や「彫刻」でもない。
「怪物君」と名付けましたが、宇宙の脅威を眼下にとらえようとすることだったのでしょうね。
(中略)
そういうふうにして、書き写すというよりも書くというのは、次々に透視力を紡ぎ出していくことなのだと思い始めています。
これは手数がかかりますよ。半日かかるけどそれをやっていって。終わったと思ったら今度は折り目が問題だなって……
傍の誰かがいうのね(笑)。いろんな絵具で塗りたくって、いろんなふうにしていくんだけどね。
この「怪物君」は三年半ぐらい続けています。こんなことをやるのは、一休宗純や八大山人や、もしかしたら円空さんにも類似した精神なのかも知れませんね。
で、こうなってくると音楽にもなって。
終始一貫だからある意味では「狂気」かもしれない。そういう「狂気」から何とかして命を延ばそうとする、……いまね、
「狂気」といったでしょう、僕もね、もっと先まで繊細に、先の先まで考えたり思考しなければいけないことを、
つい「狂気」って逃げちゃうのね。だって、その方が通りが良いしさ、それですんでしまうのね。
でも、でも、詩作や映像作品、音声化、協働制作等々を通して、もう、「狂気」というだけではすまされなくなったのね。
殊に二〇一一年以降、……そんな言い方では、もうだめだと思うようになりました。
とくに、たとえばゴッホね。小林秀雄さんの「ゴッホ」でさえも、最後は「狂気」にしてしまうのね。
でもそれはちがうんだ、……。時折は、あの“渦巻き”や“稲妻”や“ひまわり”もあるのだけれども、
一心の真剣な愛はゴッホの中心に坐っているものなのね。それで火のようになっている。
大災厄以来、僕は小林さんの『ゴッホの手紙』ばかり読んでいました、……。アントナン・アルトーへの共感もあるけど、
ここまで来て、もう「狂気」です、……ですませようとする心はほぼ完全に放棄したのでしょうね。
「怪物君」はそのあらわれでした。
それが書くというしぐさの原点ですね。それは全く変わらない。これはエスカレートしてきちゃう。
最近じゃ書いた字のうえに水彩絵具を塗るのね。そうすると、ぐちゃぐちゃになる。
別にぶっ壊しても構わない。だって大災厄のときにそれが起こったんだからね。
(わが詩的自伝『素手で焔をつかみとれ』吉増剛造著より)