
橋本治『巡礼』…ゴミ屋敷の話を、
戦後の日本のありようから照射して、その男の悲しみを炙り出す。
しかし、これってまんま日本のありようであり悲しみなんだよね。
“現実というものは、歪なものだ。それが、自然なあり方というものだ。
その中に腰を落ち着けることに慣れてしまった矢嶋富子は、
無意味な糾弾に時を費やすことの無意味さもよく知っていた。
困ったことだが仕方がない_「仕方がない」ですませてしまえるのは、
自分の家の前に不快なゴミの山が積まれていないからだった。”
【無意味さ】が1つのキーワードになってるけど、
敗戦後の日本は「敗戦」をごまかし「責任」をごまかし「密約」をごまかし、
ひたすら国民を欺いて「カネ」だけが正義であるかの世の中を構築してきた。
本筋に向き合わないことが美徳のような倣いに、70年馴致されてきた結果が、
この【ゴミ屋敷】なんじゃないのか?
“自分が積み集めた物が「ゴミ」であるのは、忠市にも分かっている。
「片付けろ」と言われれば片付けなければいけないことも、分かってはいる。
しかし、それを片付けてしまったら、どうなるのだろう?
自分にはもう何もすることがない。
片付けられて、全てがなくなって、元に戻った時、生きてきた時間もなくなってしまう。
生きてきた時間が「無意味」というものに変質して、消滅してしまう。
「無意味」は薄薄分かっている。しかし、そのことに直面したくはなかった。
「自分のしてきたことには、なにかの意味がある」_そう思う忠市は、
人から自分のすることの「無意味」を指摘されたくはなかった。
「それは分かっているから、言わないでくれ」_そればかりを思って、
忠市は一切を撥ねのけていた。”
無意味さの蓄積がこの有様な【ゴミ屋敷】で、
70年の時間を無為にしたくないから欺き続けているだけなんじゃないのか?
橋本治は、そのことを切実に国民に問うていると、ボクは思う。
辺野古の県民投票も綻びの顕れの1つであるのに、いまだに向き合うこともせず、
無視が許せる社会って、何事をも他人事にしてしまう無意味な時間の蓄積が【今】だからだ。
過去から現在まで全てはひとつながりで、だからこそその根幹から糺して行かねば、
【ゴミ屋敷】は増え続ける。
無意味に無意味を重ね、何のために祝祭的消費社会を存続しているのか、
そこに向き合わなければ「生きている無意味」に埋もれてしまうだろう。
忠市の最期がそのことを如実に物語っているわ。
#photobybozzo