【May_19】コロナで露わになる日本の脆弱なセーフティネットの実情


日本の政治システムの中で、
政治家や行政官僚たちが、
色んなアイディアを出したり、
制度を作ったり、
頑張ったり…ってことで
競争をしていないんですよ。

行政組織も政治組織も
国民のほうを向いていない。
今までそうだったので、
コロナ禍になった時に、
突然国民のほうを向いて
国民の身に成り切って、
ここに何が必要かって
考えるマインドを持つ
人間が非常に少ない。

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コロナで露わになる日本の貧弱なセーフティネットの実情
(宮台真司『マル激トーク・オン・ディマンド第997回』より)

敗戦後から70年までは高度経済成長で「豊かになりたい共通前提」があり、
政府の組織目標も自明に思えたのだけど、72年の石油ショック以降、
財政状況も変わり「心の豊かさ」を名目に人によって幸せの尺度が違うとして、
利権目的の裁量が増えたことが1点。

80年代からは郊外の共同体空洞化で相互扶助が喪われ、
個人と国家がダイレクトにつながった結果、セーフティネットへのスティグマが先鋭化し、
「自己責任」という言葉が社会を覆うようになったことが1点。

困窮者の救済は共同体保護の前提である…という認識の劣化を、
このコロナ禍の時代、ひとりひとりが受け止めて考えなければならない。

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【May_19】岡崎京子「東京に初雪がふった日」


「写真」という行為の特性を最も端的に言い表した言葉だと思う。
1996年5月19日の交通事故で作家生命を絶たれた岡崎京子さんの感性が素晴らしい。
そう、「写真」は対象を切り取ることで、刹那に遠ざける。
その客観性こそが「写真」であり、生きていることの不思議なのだ。以下コピペ。

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いいえ、写真が哀しいわけではなく、写真機という世にも薄情な機械が
かけがえのない人の姿をうつしとってしまうことができ、
しかもまたその「かけがえのなさ」を
見ず知らずの人にまで差し出してしまうことが、哀しいのかもしれない。

それとも人は誰でも死んでしまう
というあたりまえのことを、
このうえなく淡い感傷とともに
おもいださせてくれるから、
写真が哀しいのか。

いいえ、それは遠さと、きっと関係がある。
だって、写真にうつされてしまうと、
いま目の前にあるものでさえ
とても遠くなるから。

でも、ほんとうははじめから遠いのだ。

なにもかもが、あらかじめ、遠い。

わたしたちはそのことに気づかないか、
気づかないふりをしてるだけ。

ときどき写真はそれを顕す。

そんなときだ、写真をいとおしくも哀しくおもえるのは。
でも哀しい写真はとても少ない。
街のなかや雑誌のなかでみかけるたくさんの写真はむしろ、ばかばかしい。
そのばかばかしいところがよけいに哀しいとおもうほど、わたしは老成していない。
ばかばかしいものは、ただひたすらばかばかしい。

(岡崎京子による荒木経惟論 「東京に初雪がふった日に」/『荒木経惟写真全集 3 陽子』 平凡社)

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【May_16】柿崎麻莉子 IN THE “SESSION HOUSE”


セッションオンライン劇場 第一弾
「柿崎麻莉子 IN THE “SESSION HOUSE”」

コロナ禍の中、素晴らしい試み。セッションが身近に感じられ、食い入るように観てしまった。
しかし、この物理的ディスタンスを感じさせない、ダンスの情動を伝えられる踊り手は限られるのだろうな…と改めて。
柿崎さんは、剛柔併せ持つ身体性が類い稀で力強かった。
初ソロ作品の写真あったのでUP。
WSの作品は生で触れたかった。あの昂揚感はナマだなぁ。

柿崎麻莉子「vergis mein nicht」(2012再演)
【on_Flickr】0616_MARIKO

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