われに五月を ~寺山修司を唯ふ~


1983年の今日、5月4日、寺山修司は亡くなった。

「五月に咲いた花だったのに、散ったのも五月でした」

三周忌の記念に復刊された最初の作品集
「われに五月を」の冒頭で添えられた母の言葉である。

彼は47歳にして永眠してしまうのだが、
最初の作品集「われに五月を」からすでに
彼は死と隣り合わせだった。

ネフローゼと呼ばれる難病で死の床にあった
20歳の若き詩人の才能を買っていた編集者が
なんとかカタチに残そうと奔走した一冊が
「われに五月を」だったのだ。

だから、彼の短歌や散文は、
はかなさが常にただよっている。

若さゆえの「もろさ」や「非情さ」がちりばめられた
ガラス細工のような繊細さが、胸を打つ。

    三つのソネット

    2.  ぼくが小鳥に

    ぼくが小鳥になれば
    あらゆる明日はやさしくなる
    食卓では 見えないが  
    調和がランプのようにあかるい
    朝 配達夫は花圃を忘れる
    歳月を忘れ 
    少女は時を見捨て
    ぼくには 空が青いばかり

    そこに世界はあるだろう
    新しいすべての名前たちもあるだろう
    だがしかし 名前の外側では無窮の不幸もあるだろう
    
    小鳥となるな
    すくなくとも ぼくはなるな
    手で触れてみない明日のためには

   
寺山修司とボクの青春時代が密接につながる背景は
彼のアフォリズムに富んだ作品群だけでは語れない。

実際、ボクは寺山の死を身近に感じたのだ。

あれは中学三年生の四月。
大阪の田舎から東京杉並の一等地に引っ越してきて半年。
内省的な性格だったボクは、東京の地に半ば馴染めず、
行き場を失いながらも、高校受験というレールの上で
毎日を過ごしていた。

そんな中学時代の通学路に
寺山修司が救急で収容された河北総合病院があった。

     ぼくはその現場を目撃している。

     ……寺山が乗った救急車とニアミスをしている。

すでに23年も昔の話だ。
もしかしたら、そう錯覚しているだけかもしれない。

あとから見た夕方のニュースの映像が
オーバーラップしている可能性も、ないとは言えない。

しかし、ボクは報道陣が多く集まった救急口の横を
怪訝な顔をして眺めながら通り過ぎた記憶が、確かにあるのだ。

それからというもの、ボクの中での寺山修司は
あの救急車のざわめきと報道陣のざわめきと、共にある。

強烈な印象として、深く刻まれてしまった。

とてつもない偉人の最期に立ち会ったような、
自負にも近い気持ちとともに。

その喫茶店は空間がビンテージものだった


電気用品安全法(PSE法)なるものが4月から施行され、
中古楽器、中古オーディオなどの古き佳きモノの扱いが危ぶまれているが、
ボクの人生の中でも、古き佳きビンテージものに囲まれていた時代があった。

美大時代、ボクは友だちに連れられて
吉祥寺の「Meg」というJazz喫茶に行った。
Jazz喫茶全盛の70年代に栄華を極めた老舗喫茶だ。

19歳だったボクには、Megのあった吉祥寺本町のホテル街へつながる裏通りや、Megが醸し出すキナ臭い雰囲気はかなり新鮮で、
店内に入るなり「すげえ、すげえ」を連発、静かにJazzを聞き入るリスナーのひんしゅくを買った。
…そう、Jazz喫茶は「私語厳禁」の特別な場所なのだった。

時は80年代後半、安保闘争もとっくに終わり、バブル景気に世の中浮き足立っている頃である。
トイレの壁には「アブサンの青い液体がドルフィーの魂を溶かす!!」「卑劣な心臓、卑劣な肺臓、卑劣な脳髄」「プロレタリアート万歳!」
「もし神が存在しないとしたら、すべては許されるだろう」「嘔吐!嘔吐!嘔吐!」「デカルト的コギトはヒューマニズムか?」……。
…白いタイルの上に、ところ狭しと難解な言葉がひしめき合ってる。

「すげえ。」

コルトレーンが不協和なテナーサックスをがなり立て、エルヴィンが見事なタイム感覚でスネアを刻む。
眉間にしわを寄せた団塊の世代が、煮立ったコーヒーで2時間も3時間もJazzと格闘している。

持参したものさしをギターに見立て、ソロを興じている輩。
キースジャレットの「呻き声」に合わせ、時折中腰になる白髪の紳士。
オーネットコールマンのFREE JAZZに合わせて、体をゆすり原稿を書く物書きの男。
大きめのパンプスをバタバタさせながら、ホレスシルバーをリクエストする水商売の女。

登場人物がとにかく異質。Jazz喫茶の舞台装置がまずもって異質。「私語厳禁」の状況が異質。

JBLの特製スピーカーが御神体のように空間の上座に祀られ、大儀に説明文まで添えられている。
「こちらに鎮座する1950年代の名機、JBL特製スピーカーは高音域をラッパ型の特製云々…」
その御神体に対峙するように肘掛け付きの椅子が向かい合わせに並んでいる。
ほとんどの席が、テーブル1つに椅子1つのセットである。レイアウトがすでに会話を拒んでいる。

目につくものすべてが刺激的な、その空間に一目惚れしたボクはすぐさまアルバイトを申し込み、
以後卒業までの3年間、週末は「Jazz喫茶に12時間」の特異な生活習慣を送ることになる。

           ●

街全体が眠りについたような閑散とした日曜日に、
昼間からビンテージもののJazzレコードに針を落とす感覚は、ステキだった。

燦々と照りつける太陽が出ていようが、どんよりとした淀んだ曇り空だろうが、
窓のない暗闇のJazz空間には無関係だったが、ボクの気持ちには大きく影響した。

気持ちも踊る清々しい日には、West Coastの軽めのJazzを、
内向的な感覚に陥りそうな寒々とした日には、60年代のインパルスJazzを、
とにかく元気がほしい日には、ブルーノートのHard Bopを好んでかけた。

レコードは無尽蔵にあった。おそらく5,000枚は下らないと思う。

あらゆる種類のあらゆるアーティストが整理整頓されて棚に収められていた。
ボクは飽きることなくすべてのレコードに目を通し、針を落とした。

客の動向や趣向を見分けながら、レコードを選ぶ悦びは格別だった。
難解なリクエストに無言で応えるときの優越感も、独特なものだった。

空間そのものがビンテージ。古いモノにしか味わえない時間の澱を堪能した3年間だ。

電気用品安全法
JAZZ喫茶MEG

好きになっちゃった、沖縄。


「たるけん」こと垂見健吾さんの写真展初日に行ってきた。
たるけんおじぃフェア

絵巻物のようにギャラリーの壁面をたるけんの写真が横断していた。
写真の流れのままに、視線を左から右へと動かしてみる。

沖縄の原風景が拡がっている。

青い海、青い空、三線、カチャーシー、おじいの笑顔、おばあの笑顔。
祭り、エイサー、キビ畑、さんご、うみんちゅ、赤瓦、シーサー、子供たち…。

沖縄に来る時に抱いていた「オキナワ」が、
そのまま大伸ばしで並べられていた。

そうだった。…そうだった。
好きになっちゃった、沖縄。

たるけんの写真を眺めながら、沖縄を夢想していた時期があったんだ。
「沖縄いろいろ辞典」を眺めながら、うちなーぐちや沖縄の風習を
興味深く読み込んでいた時期が…。

        (^^;)

垂見さんとは、沖縄移住の1ヶ月前に仙台でお会いしていた。
七ヶ浜国際村での展覧会で、インタビューをさせてもらったのだ。
「沖縄に来たら、連絡してよ」とのありがたいお言葉をいただき、
沖縄移住が「宿命」に感じた瞬間を、今も忘れない。

那覇新港を降り立ち、自転車を転がすボクの目に映った沖縄は、
9月あたまの「ぶちくん」の陽射しに、極彩色の照り返しで、
いきなり脳裏へ、強烈なカウンターパンチだった。

垂見さんの写真が、そのころのボクを思い出させた。
うぶな沖縄フリークだった9年前のボクの感動を、再現して見せてくれた。

なんてこった。…感動する心を、忘れてるぞ。

仕事に忙殺され、本来の感性を見失っていた。
もっと素直に、沖縄の土地を、沖縄の風土を、沖縄の光を、
堪能しなくて、どうするのだろう…。

そこから、始まったはずじゃないか。

疲弊してる場合じゃない。
文句を垂れる前に、感性を磨け!
もっと、もっと沖縄は大きいはずだ。

…単純なコトが、抜け落ちてました。
垂見さんに、感謝。m(_ _)m。

夜中にトイレでぼくは、きみに話しかけられていた。


アシスタント時代のネタをひとつ。

カメラマンのアシスタントをしていた22歳のころ、
ボクは丸の内線東高円寺駅から徒歩5分のアパートに暮らしていた。
初めての純然たる一人暮らしスタートの地だ。

学生時代にいた高円寺の一軒家は、父の会社の社宅であったから、
平屋で庭も大きく、間取りもゆとりがあったが、
その東高円寺のアパートは、それはそれは見事な造りだった。

記念碑的な造りと言っていい。

今じゃ、おそらく考えられないほどの安普請だった。
耐震強度偽装問題がその時代に騒がれていたら、どうなっていたのだろう。
少しは冷静に、住まいのことを見直していたかも知れない。

とにかく、当時のボクは気が触れていた。
とことん自分を追い込んで、ストイックに生きることが
己に課せられた至上命題だとでも言うように、辺境の生き方を求めていた。

だから東高円寺のアパートも、かなりのキワモノだった。
風呂なし便所付き6畳一間、2階角部屋、西日入り。月々4.4万円。
当時の高円寺は、銭湯花盛り、夜中の2時まで開いているところもあったので、
「風呂なし」は、取り立てて苦にはならなかった。
カメラマンアシスタントは泊まり込みも頻繁だから好都合…ぐらいに捉えていた。

2階の角部屋で、西日とはいえ、日当たりもいい。
たまの休みに、窓辺で音楽に耳を傾け、自分の時間を楽しめるかもしれない。
ベランダはないけど、洗濯物も干せそうだ。分相応な物件じゃないか?

不動産周りをしていた3月。考えてみれば、ちょうど今頃かもしれない。
21歳のボクは、これから始まるストイックなアシスタント生活を、
自分なりに真摯に受け止め、分相応な場所…収入に見合った謙虚な佇まいを求めていた。

「住めば都」とは、よく言ったモノだ。

謙虚に、質素に、分相応に…と、
自分をひとつの型に納めるように選んだその場所は、
絵に描いたように…最悪な住まい…だった。

まず、2階がまずかった。
安普請のアパートは、共同生活であることを思い知らされた。
⇒床が薄いのだ。

歩くと、ミシミシ音が鳴った。
それがまずかった。
夜は相当、気を遣うことになった。

ミシ、ミシ、ミシ。…ミシ、ミシ…ミシ、ミシ…、ミシ…、ミシ、どん。

そうっと、そうっと、そうっと、歩いているにもかかわらず、音がなった。
これはまいった。
息をこらして、歩いた。歩き方や、歩く場所を工夫して、音のならない方法を考えた。
だめだった。
ある地点にくると、大きく梁が湾曲するのだろう、ミシミシっっっっ…と音がこだました。

すると、下階の住人が、だまってなかった。

ドン、ドン、ドン、と棒のようなもので、天井を突く音が聞こえた。
ミシ、ドン!ミシ、ドン!ミシ、ドン!。
…忍者の気分だった。屋敷に忍び込んで、天井裏に潜んでいる自分を想像した。
家主が、天井に向かって槍を突いているシーンだ。
生きた心地がしなかった。家に帰ってきても、これじゃ身動きがとれない。

こんなに神経をすり減らして、忍び足で歩いていたら、いつか破綻する。
ボクはさっそく畳をはがして、床板を補強する対策に出た。
ミシミシ音のする場所を探し当て、重点的にガムテープで補強し、古新聞を敷き詰めた。
畳が2センチほど高くなった。…かまわない、存命措置だ。

ミシミシが、(ミシミシ)ぐらいの音になった。
…階下はなんとか、クリア。
                問題は、となりだった。

トイレは共同ではなく、各間取りに据え付けられていた。
だが水回りは構造上、まとめて設計するのが、効率的なのだろう。
明らかにトイレのカタチがおかしかった。

ドアを開けると、トイレの空間が三角形なのだ。

上から見ると、わかりやすいかもしれない。
正方形の対角線を結ぶと、それぞれが三角形で等分される。
平行する二辺を扉と捉えると、そこは三角形の空間になる。
対角線を結ぶ長辺がとなりを隔てる壁となる。

長辺をはさんで、四角い空間に和式トイレが、ふたつ。
なぜ、それが明らかになったか。答えは簡単だ。……壁がうすいのだ。
となりの気配がわかるほどの「うすさ」なのだ。

となりの住人は、60歳を過ぎた孤独な夜間警備員だった。
2日に一度のサイクルで、夜中のお勤めをしていた。
だから、一日おきに天国と地獄がやってきた。

60歳を過ぎた身寄りのない孤独な老人を想像してみてほしい。

そんな安普請のアパートに一人で暮らす、孤独な老人の楽しみはなんだ?
…酒だ、酒以外には、ない。おまけに壁がうすい…と来た。
老人は昼夜逆転の生活。一日おきだから、夜はやることがない。

酒を呑むと、やがて人恋しくなる。話をしたくなる。
当然、独り言が増える。声もだんだん、大きくなってくる。
壁がうすいから、手に取るように状況が伝わってくる。
テーブルに一升瓶をどすんと置く。ちょろちょろ酒をそのまま注ぐ。
サキイカを食べる。豆のたぐいを小皿に分ける。タバコに火をつける。
壁一枚隔てた老人の、一挙手一投足が、透視のように、こちらに伝わってくる。

…ぶつぶつ何かを言っている。…酒を呑むノドが鳴る。

壁越しに伝わってくる異様な雰囲気に、ボクは戦々恐々となる。
事態はいよいよ深刻だった。ボクは身動きひとつせず、息を潜めて気配を殺した。
かといって、生理的な欲求までは、我慢ができない。

…夜中にボクは、トイレに行きたくなる。

四角い空間を対角線で分けたトイレに、忍び足で向かう。
輪唱のように、となりの部屋でも歩く気配がする。
静かに、トイレの扉を開ける。蝶番がぎーっと、音を立てる。
電気を点けると、壁の隙間から灯りが漏れてしまうから、暗闇で的を絞って、用をたす。
…ちょろちょろ、と小便が便器に当たる。…と、またしても輪唱のように、壁越しに音が聞こえる。
…ちょろちょろちょろ、(…ちょろちょろちょろ)、…ちょろちょろちょろ、(…ちょろちょろちょろ)。
やがて、恐るべき事態を迎える。ボクは壁越しに、隣人に話しかけられたのだ。

「bozzoくん、呑みに来んか。」

…小便が、ぴたっと止まる。固唾を呑む。ゴクリと、大きな音が三角形の空間に響いた。

とにかく、何事もなかったように、とにかく、できるだけ気配が伝わらないよう、その場を離れる。
空耳だ、今のは空耳なんだ、壁越しに聞こえたのは、外の酔っぱらいか何かだ。
ちょっとくぐもって、耳元で囁かれたような、変な感じだけど、夜中だし、真っ暗だし、
あまり深く考えないほうがいい。ここは、布団に潜り込んで、朝まで眠ることだ。
…なんでもない、なんでもないんだ。夢だ、空耳だ。…何も考えるな。

結局、ボクはその安普請のアパートで、2年の月日を過ごした。

環境に順応する人間の能力というのは、すごいもので、
ミシミシ言う床も、コツさえつかめば、静かに移動できた。…ワザとミシミシ言わせる時もあった。
壁越しの受け応えも、平気でするようになった。ぶつぶつ言うやつには、ぶつぶつ言って、対抗した。
壁をどんどん叩いて、文句を言うこともあった。

人間、図太く生きることは可能だ。安普請のアパートでボクは、それを学んだ。

ベンツは緑色の血を流して止まった。


Paul Austerの小説「City of Glass」を読み終えたとき、
ボクは初めて起こした交通事故の状況を思い出していた。

今思い返しても背筋の凍る、自分にしてみれば、
天変地異と同等の事件だった。

22歳、広告写真スタジオのアシスタントとして社会人をスタートさせたボクは、
それまでの淫蕩な学生生活を払拭するように、厳粛かつ勤勉な社会生活を営もうとしていた。
実際、バブル期におけるカメラマンアシスタントの生活は、凄惨を極めていたし、
まともな精神では、すぐに破綻するような労働状況だったので、
振り子が大きく右から左に振れるように、極めてストイックな意識で
仕事に取り組んでいたように思う。

…まるで…出家したような気分だった。

だから、4トントラックを運転しろ…とボスに言われたときも
なんの疑いもなく、受け入れていた。
季節は、花見気分まもない5月で、ボクは3月に免許を取得したばかり。
4トントラックはおろか、車をまともに走らせたこともなかった…と言うのにだ。

判断系統が鈍くなっていたのも事実だった。
その日まで一週間、風呂にも入れず、一人暮らしのアパートにも帰っていなかった。
つまりは、寝ていなかった。
撮影と撮影の合間に、カポックと呼ばれるスチロールのボードを布団がわりにして、仮眠する程度だった。

だから、4トントラックも運転できると、勝手に思っていた。
…相当な勘違いをしていたのである。

事故前日、ボクはレンタカー屋から六本木のスタジオまで4トントラックを運転している。
撮影香盤はむちゃくちゃなスケジュールだったし、建て込みを伴う大がかりなものだったので、
前日に撮影機材、撮影商品を積み込んでおく必要があったからだ。

準備は明け方間近までかかってしまった。

仮眠をとった早朝、カメラマンに起こされ、ボクは4トントラックのエンジンをかける。
カメラマンの乗るFORDフェスティバが、早々と国道の車の流れに乗った。
見失うまいとボクは、必死に4トントラックを合流地点へ走らせる。

問題の交差点。

目的地に急ぐ車が信号の明滅に合わせて吐き出されるラッシュ時だ。
5m以上の車長がある4トン車をスムーズに入れ込むには、技術が要る。
運転手のボクも、瞬時にその苦境を理解する。
冷や汗が脂汗になるのを感じながら、そのタイミングを伺っていたその時、
反対車線で同じように流れの間隙を伺っていたタクシーが、手招きするのが見えた。

「お先にどうぞ」タクシーの運転手が、苦境に愛の手を差し出した瞬間だ。

一心不乱にミッションレバーを一速に入れ込み、アクセルを踏む自分がいた。
…左右の事前確認もせず、交差点に4トントラックが入り込んだ。
けたたましいクラクションが鳴り響き、思考回路が停止した。
猛烈な勢いでベンツが視界に入ってくる…クラクションはもはやstuck状態。
…天敵に足のすくんだ小動物のごとく、ドデカい4トン車は交差点入り口で動かなくなる。

がっっしゃーん!!!!!

衝撃はスローモーションで、足先から頭の先まで伝わり、脳天をしたたか天面に打ちつけた。
「や、や、やってしもうた!」との間抜けなセリフすら出てくる余裕はなかった。
顔面蒼白で、大破したベンツを見つめていた。緑色のエンジンオイルが流血状態。
まだエアバックもない時代である。歪んだ顔の運転手が、フロントガラス越しに伺えた。

すべてがスローモーションだった。

いや、思考が皮膜一枚かぶったような感じだった。
つまり、すべての状況が他人事なのである。
当事者である自分が、傍観者として立ち会っている。
おそらく「認めたくない」意識が、潜在的に働いたのかもしれない。

ベンツが緑色の血を流して止まっている。

4トン車の前輪は、運転席側に深くのめり込んでしまって身動きもとれない。
立ち往生で国道の流れを完全に堰き止めてしまうほどの大事故である。

なのに、現実味もなく呆然としている自分がいた。
カメラマンの怒号がかすかに聞こえる。
巻き込まれた車のクラクションが響いている。

「City of Glass」の主人公Quinnも同じように現実と乖離していく。
夜の長さが昼の長さよりも次第に長くなっていき、
食事をしたり、ノートに記入したりする時間がどんどん短くなる現象に陥る。
そのうちに、活動できる時間はほんの数分となって、
食事を終えると、ノートに三行書くくらいの時間しか残らなくなってしまう。
そしてついには、ひと口かふた口食べると暗闇が再び辺りを被った…。

観念的な話のようだが、まぶたが閉じられるように現実が生気を失う瞬間は、実際に訪れた。

六本木の交差点で、ボクの意識のまぶたも閉じられようとしていた。
視界が感度を失い、徐々に冥くなっていった。周りの雑音がボリュームを落とすように小さくなった。
緑色の血を流した歪んだベンツが、歪んだ運転手の顔と区別がつかなくなり、
ドデカい4トン車が、ただの構造体にしか見えなくなった。

Paul Auster…、すざまじい作家に出会ってしまった。
もう少し、読み進めてみようと思う。

楠葉センチュリータウン


大阪府枚方市楠葉花園町5-5-301。
楠葉センチュリータウン。

小学校2年生から中学2年生の夏までの6年間、
ボクはこの6棟もある15階建ての集合マンションで暮らしていた。

もう25年も前の話である。

当時としては、かなり画期的な集合住宅だった…と
今改めて、思う。

1棟に300世帯。それが6棟。
なんと1800世帯以上の家族が
限定された地域に住んでいたのだ。

各棟には集会所が設けられ、
各世帯ごとの駐車スペースと物置スペースが確保されていた。
6棟間の中央には時計台があり、
野球やサッカーを楽しむ運動場が配され、
その公園を囲むようなカタチで水路が巡っていた。

…見事な集合住宅だ。

このマンションのおかげで、
近くには小学校と中学校が建立された。

楠葉西小学校と楠葉西中学校。

マンションに住まった家族のその多くが、
社宅として借り受けた転勤族であり、
さもなければ、パイロットや医者、弁護士などの
高給取りであった。

1800世帯の多くは、
当時を象徴する中流階級であったように思う。

子供たちは連れだって同じ小学校に通った。
同じような境遇だから、すぐさま仲良くもなった。

同じ通学路を行き帰り、
同じ遊び場で野球をし、
同じような習い事で席を並べた。

箱庭のようなタテに密集した空間。
15階から見下ろす情景は、子供心に異様さを覚えた。

向かいの棟に並ぶ300世帯の窓、窓、窓。
思い思いのカーテンが、それぞれの個性を演出している。
300世帯それぞれの独立した人生模様が描かれ、
それぞれが確立した世界を形成している…はずだった。

しかし、ハチの巣穴のように並列した300もの世帯を
向かいの棟から眺めていると、違った感慨を覚えた。

…ブロイラー飼育のニワトリたち。

高層マンションにツキモノの飛び降り自殺が、
この場所でも後を絶たなかった。
ひどいときには、日を重ねて起きることもあった。

集会所脇の茂みに、
自殺者と思われる人型のカタマリが
しばらく放置されていることも、しばしばあった。

高度成長期後に建てられた集合型マンション、楠葉センチュリータウン。

ブロイラーのように集約され、囲われた1800世帯の家族は、
成長を約束された経済社会のなかで、明日を夢見て、
それぞれが楽しく生活していた…はずだ。

…25年も前の話である。

現在の1800世帯の家族は、この箱庭の中で、
何を思い、何を掴んだのだろう。

沖縄料理屋「抱瓶」


ボクが今、ここ沖縄にいる因果は「抱瓶」にあると言ってもいい。
高円寺の沖縄料理屋「抱瓶」。

ここで巡りあった泡盛や沖縄そば、ゴーヤーが
そのあとの人生を決定づけた。

高校生の時、家族でこの「抱瓶」に何度か訪れた。
その時に感じたカルチャーショックは
しばらく所在なくボクの周りに漂っていた。
「抱瓶」に来ると、そんな不可解な感慨に陥っていた。

うまく消化しきれなかったんだと、今になって思う。
まだ「島唄」も「ビギン」も存在していなかった。
せいぜい「花」や「ハイサイおじさん」ぐらいの時代だった。

この雰囲気の源泉が、遠い南国に息づいてるだなんて
想像もつかない立ち位置で、ボクはボクの中に沖縄を醸成していた。

すこしづつ、すこしづつ、沖縄が堆積していった。

だから、この足で沖縄に触れた時の「しっくり」くる感じが堪らなかった。
カラダの毛穴全部がパフパフと喜んでいた。

ある意味、必然だった。

時代の趨勢と取り残されたもの


写真は現在の高円寺北4丁目27の6。
かつての社宅は跡形もなく、立派な低層マンションが視界を遮っている。
中学生のボクが眼にしていた平屋のシルエットは
遠い記憶を辿るしかない。

ここもすっかり変わってしまったなあ。

そんな感慨をもって視線を右に移すと…、あるじゃないですか。
立派な植木に囲まれた、立派な邸宅が。

社宅時代に盛んにやりあった気むずかしいお向かいさんのお宅。
今もそのままの気むずかしさを醸し出している。

20年の月日の中で、変わらないモノもあるんだ…。

そんな感慨がまた湧いてきた。

高架下の誘惑


高円寺北四丁目27-6。
これが、当時ボクが過ごした社宅のアドレスだ。
細い道を挟んで向かいは阿佐ヶ谷になる。

中学生、高校生とボクは愛犬ダンディとマリーを連れて
朝夕さらに夜と、ひんぱんに散歩に出かけていた。

今にして思えば、この6年間の散歩が、
ボクの性格と想像力を見事に形成したように思う。

その時、ボクはよく中央線の高架下へ向かった。

昼間でも夜でも一様に暗躍としていて、
何かしらの蠢きと企みを放っている、高架下がボクは好きだった。

太陽光が遮断され、軒の隙間から入り込む一条の光が、
劇的な空間を演出したりするのを眺めるのが、好きだった。

逆光にはためく洗濯物と安普請のアパートにドラマを感じて、
高架下を行き交う、一癖も二癖もある風貌の人々の生活に思いを馳せた。

そんな雰囲気そのままに、高架下の古本屋で、かび臭い文庫本に手を伸ばし、
淫靡な世界にどっぷり浸かるのが、ボクにとっての快楽だった。