
11月26日。木曜日。
ヒートテックでは汗ばむ陽気。
今週末はこんな感じで温かいらしい。
18度が温かいって、…2ヶ月住めば人間変わるもんだ。
西麻布のSwitchにて行われた
雑誌CAMEL発刊記念トークショーへ行く。
写真家操上和美がしかける
彼自身の責任編集による季刊誌…とのこと。
エディトリアルデザインを務めた
パリフォト帰りの町口覚さんも
今日は少し緊張気味。
そりゃそうだ、あの操上和美だ。
見てる側も血潮がドクドクとしてきた。
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話は高校時代に遡る。
高校二年生の春休み、友人に感化されたボクは
美大受験の名門予備校であったすいどーばた美術学院の春期講習会に参加する。
1986年のころだ。
バブルが徐々に上がってきて
「カネは天下の回りもの」な感が出てきたころ。
中森明菜が「デザイヤー」を歌い、欲望を扇動していた。
練馬の高校生だったボクは、
アタマこそ紫色のロン毛ではあったが、
世間擦れしておらず、ウブな可愛い男だった。
だから美大に行くことで開ける世界も
まったくわかっておらず、ただ「絵が好きだから」
…という理由だけで来てしまった志望動機の希薄な生徒だった。
少数先鋭ながらも
都内各地から志しの高い高校生が
その春期講習会には集まった。
毎日が目からウロコの状態だった。
こんな衝撃は男子校に入った時以来。
練馬の田舎モンからすれば、
渋谷から通ってくる高校生は
異彩を放っていた。
ファッションも奇抜でツッパッていながら、
センスもハイレベルで話題も多岐にわたり(映画・芸術・写真・・・)、
当然のごとく絵も「上等」だった。
こちらは容姿こそ派手ではあったが、
中身が伴っておらず、ツッパリ度合も生易しい
チェリーボーイってありさま。
そんな自分を逆に面白がってくれたのか、
講習も終盤にさしかかると、渋谷の連中とつるむような関係となり、
授業終了後に池袋でお茶をしてうだうだダベることもしばしば。
そのメンバーの中に、一際色彩センスの鋭い女の子がいた。
…それが操上和美さんの娘だった。
ボクはそこで初めてリアルな「写真家」を知ることとなる。
当時操上さんはADの浅葉さんやCの糸井さんらとPARCOの広告を手がけていた。
ADやCなどというアルファベットが何を意味しているのか、ウブな高校生は知るよしもない。
だいたい広告制作のイロハすら、まったくわかっていなかった。
それでも「操上和美」という名前は字面そのままのインパクトで強烈に焼き付いた。
当時のボクにとって、リアルに活躍する写真家は「操上和美」ただひとりだった。