
6月7日。土曜日。
激しい雨、やがて小降りに。
地元の小学生も
この大会を楽しみにしているようで、
3校からエントリー。
男の子も女の子も
サバニに乗っての櫂さばき。
同級生の黄色い声援を受けて、
一生懸命、雨の中、頑張っている。
竹野に住まう舞台写真家の地域自治。

6月7日。土曜日。
激しい雨、やがて小降りに。
地元の小学生も
この大会を楽しみにしているようで、
3校からエントリー。
男の子も女の子も
サバニに乗っての櫂さばき。
同級生の黄色い声援を受けて、
一生懸命、雨の中、頑張っている。

6月7日。土曜日。
朝から雨。
奥武島のハーリーに、
「久米島の久米仙」チームが
参加するとのことで、
朝から奥武島に。
こんな雨の中で、
ハーリー?
半信半疑で奥武島まで来てみると、
サバニが二艘、ぐいぐいと動いているのが見えた。
「はあ、雨は関係ないのね」
さっそく会場となる港まで。
奥武島中の人々が集まったようで、
雨をしのぐトタン屋根の下で、
雨宿りしながら、レース観戦。
男たちは、すでに顔が赤い。
島のイベントに、天気は関係ない。

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。
世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、
どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。
それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。
きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。
きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、
きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、
一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、
毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。
(池澤夏樹「スティル・ライフ」)
学生時代に感銘を受けた
池澤夏樹の「スティル・ライフ」。
今、読み返すとその感慨も変わる。
特に、株の売買を企てるあたり。
おそらくゲゼルの「自由経済」も熟知した作家の
「資本経済」への揶揄も含んでいると感じる。
●
「モラトリアム」…社会へ一定の距離を置いて留まる人種。
「社会にコミットする」や「総括」なんて言葉が
街に飛び交っていた「プロレタリアート」な70年代。
そこでただ留まり、静観している奴らは「モラトリアム」なんて言われた。
いつまでも社会に与しないボクたち。
●
21世紀にはいっても、その立ち位置を崩さないボク。
RADWIMPSには、同じ感性を勝手に感じている。
「スティル・ライフ」冒頭部分。
一定の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかること。
それは結局、自身の感性や感情に正直であるってことなんじゃないか?
「資本経済」の歪みも
生き苦しむことでの「もがき」も
その基盤には、外なる世界と内なる世界の呼応と調和があるんじゃないか?
「モラトリアム」大いに結構。
世界を肌で感じ、内なる感性の声をしっかり聞こう…と思う。
3月14日。金曜日。
相変わらずの曇り空。
ドイツの憂鬱に押しつぶされそう。
今日も一日、美術館を巡り
人生のインプットを。
アルテ・ピナコテーク、ノイエ・ピナコテーク、モダン・ピナコテーク…
…と、年代別に美術館が分けられているのが、いかにもドイツ。
18世紀から19世紀にかけての
アートまっさかりなノイエに足を運ぶ。
とにかく、館内はめちゃくちゃ広い。
まあ、ルーブル美術館には行ったことがないので、
世界の規模はこれが標準仕様なのかもしれないが。
そして、異様に静か。
誰もが無言で、アートと対峙している。
妻曰く、フランス人は、がやがやとじゃかましく
アートを前に語り合うらしい。
そんな意味で、ドイツも日本と同じく
アートに対して一歩引いてるのかもしれない。
精神主義の大日本帝国や第三帝国の影響だろうか。
こないだハンガリー映画の「タクシデルミア」を観た。
人間の欲望が三世代に渡って描かれたグロテスク極まりない映画。
しかし、それがよかった。
三世代目の剥製師は、自らのカラダを剥製にして、
永代に残そうと試み、死んでいく。
残された肉体は、ダビデ像のように、
首と右手がないまま、台座に立ちつくしている。
アートって結局、そこに行き着く。
RADWINMPSの「バグッバイ」が心に響く。
生まれてくる前に願ってたことは
夜明け告げる朝に夕焼けを見せたげたい
きっと惹かれ合って きっと恋に落ちるよ
いつの間にか生まれてきて、
突然、消失を言い渡されて、
この世から、いなくなる。
せめて、そのもがきを
アートでカタチにしたい。
タクシデルミアの剥製師は
その究極なアートをやってのけた。
膨大な数の、「もがき」が、
静寂な館内に、陳列されている。
僕がいなくても地球は回るのに
地球がいないと僕は生きれない
僕がいない朝に 何か降らせてほしい
it’s so easy but it’s so crazy
僕のいた朝と 僕のいない朝は
どっか違っててほしい 少しだけでもいいから
彼らの「もがき声」が、
ボクの中で共鳴する。
だから迷うんだ 行ったり来たりと
僕の逝く道の上で立って待っててよね
「ほら、こっちだよ」って「こら、そっちじゃないよ」って
今日も一日、路頭に迷う。

近すぎて見えない誰か 誤って「僕」と呼ぶ
この声の正体は誰なの?
遠すぎて見えてる誰か 誤って「神」と呼ぶ
その顔にホクロはあるのかい?
仕方なくもらった命 誤って「愛」と呼ぶ
そうしとけば問題ないけど
「どうせなら」と見つけた意味を 誤って「夢」と呼ぶ
本当はそんなんじゃないはず
生まれてくる前に願ってたことは
夜明け告げる朝に夕焼けを見せたげたい
きっと惹かれ合って きっと恋に落ちるよ
寂しげな冬にあの夏を見せたげたい
it’s so easy but it’s so crazy
生まれてみればここが全ての真ん中で
端に追いやってくれていいのに
右と左の間 地上と空の間
昨日と明日の間 夢と現実の間
だから迷うんだ 行ったり来たりと
僕の逝く道の上で立って待っててよね
「ほら、こっちだよ」って「こら、そっちじゃないよ」って
僕がいなくても地球は回るのに
地球がいないと僕は生きれない
お前が決めるままに生きてきたんだから
せめてはじめての…
僕がいない朝に 何か降らせてほしい
it’s so easy but it’s so crazy
僕のいた朝と 僕のいない朝は
どっか違っててほしい 少しだけでもいいから

3月13日。木曜日。
肌寒い天気。
夕方、ミュンヘン郊外へ。
住宅街の一角にある図書館の地下で、
日本語学校の見学をする。
事前にインターネットで
ミュンヘン市内の日本語学校を検索。
見学したい旨をメールでアプローチ。
昨日、OKのメールが届いたのだ。
初めてお会いする「哲先生」。
空手の先生もやられてるだけあって、
ガッツリした日本男子。
授業の進め方も大変ユニークで、
とてもリズミカル。
90分×2レッスンが
あっという間に終わってしまった。
20人ほどの仕事帰りのドイツ人が、
一心不乱に日本語を復唱している。
その光景は、感動的なものだった。
日本から遠く離れたミュンヘンの
一郊外の図書館の地下で、
夕方6時からドイツ人が20人集まって、
「100円ショップはどこですか?」
…と、復唱しているのである。
「日本語」というLanguageが、
ひとつの文化として、継承されている。
なんてすばらしいことだろう。
ヨーロッパ歴25年の「哲先生」の人柄もあって、
ドイツ人の生徒さんたちは、
皆おもしろ楽しく、日本語を習得しようとしていた。
とても集中した3時間のレッスンを終え、
「哲先生」ほか生徒さんたち15人ほどと、
近くのレストランでビールとソーセージを食べる。
「哲先生」は1リットルのジョッキで、黒ビールを注文。
その迫力に、ドびっくり!
生徒さんたちは、奥さんが日本人だったり、
昔日本に留学経験があったり、外交官だったり、
日本企業のドイツ支店で働いていたり…と、
何かしら日本に関わりのある方々。
なので、モチベーションが全然違っていた。
「奥さんとのコミュニケーションをよくしたい」
「仕事でもっと日本語を使いたい」
「秋葉原でメイド喫茶に入りたい」
さまざまな顔をしたドイツ人から、
一様に流暢な日本語が語られる。
言語ってすばらしい。語学ってすばらしい。
コミュニケーションって、ホントすばらしい。
なんだか、心あたたまる一期一会の時間だった。

3月13日。木曜日。
「お金」についての話が
長くなってしまった。
しかも中途半端。
経済を語るには、まだまだ力及ばず。
根源の疑問に立ち返らなければ…。
そもそも
お金の機能として問題なのは、
その価値を保蔵し、場合によっては貸し付けて値打ちを増やすこと。
誰もが利子だけで生活できる環境に憧れを持つ。
特に不安な状況となれば、なおさら。
ボクも一回痛い目にあった。
元金を増やして、
生活を楽にしよう…だなどと
よこしまな気持ちになった。
生活の安定が失われてくると、
人間、そういった発想が生まれる。
コンスタントな収入が途絶えた時など、
蓄えを2倍、3倍に…それこそ
ポケットを叩けばビスケットが2倍…
…になるようなそんな夢想を抱く。
ボクの場合、やはり元金そのものが失われる
最悪の結果を招き、もう二度とそのような
よこしまな発想は抱くまい…と心に誓ったものだが、
金持ちになればなるほど、
その蓄えをどのように増倍できるか
…といった妄想に囚われるのだろう。
シルビオ・セガルもアルゼンチンで
金の暴落に見舞われ、政府の通貨政策に振り回され、
甚大な経済暴力に攪乱させられた。
そんな辛酸が、彼を「自由経済」へ導いた。
社会のシステムを糾弾する
スケールの大きな話は、
もうすこし時間と労力をかけて
取り組んでいきたい。

3月13日。思索の時。
Tramに乗り込み、
アインシュタインがいると思った。
たしかにミュンヘン在住だった時期もあるので、
見まがう人が居てもおかしくない…か。
NHKの放送があったあと、
地域通貨の活動が盛んになったように思うが、
当時の動きから比べると、
今は下火のような気がする。
現在も千葉県のピーナッツのように
活発な活動をされている地域通貨もあるようだが、
街おこし、商店街おこしとして始まった地域通貨は、
その本質を失って、多くは活動休止を余儀なくされたのだろう。
エンデやシルビオ・ゲゼルが提唱した貨幣の本質は、
「お金」も「モノ」と同じように減価(時間と共に価値が下がっていく)するものだった。
蓄えると価値が下がる…この発想転換が、
「モノ」と「モノ」の交換手段としての「お金」の本質を立ち上げさせ、
市場に「お金」が流通した。

3月13日。雨に濡れる白鳥。
ルートヴィヒを想う。
「お金」が「お金」を生み出す「資本主義」。
そこにどんな無理が生じてくるのか。
もともとない「価値」を
「お金」の売買で架空に作り出している。
そこが無理な話ってこと。
何かを生産せずに対価を受け取ることは不可能だから、
「お金」を借りてしまった債務者は、
何かを生産しなければならない。
それがdevelopment「開発」。
あらかじめ想定した「売上げ」を申請して、
銀行から資金を借り、大きく土地を開発する…なんてこともある。
どちらにしても
「お金」が生んだ架空の「お金」を
実質的に生み出すために「開発」が生まれる。
利子が膨らめば、それだけ開発の規模も膨らむ。
「先物買い」みたいなイメージだろうか。
「モノ」と「モノ」の間を取り持つ「お金」が
未来に生み出す価値を「先に」生み出して大きくなっていく。
しかも右肩上がりに…留まることを知らず…。
それって、どういうこと?
「お金」が「お金」を生み出した分だけ、
ボクらは未来を食い散らしている。
未来の価値を雪だるま式に転がせば転がすほど、
未来に耕すはずだった土地は、どんどん開発され、
破壊され、急激な成長を生み、
債権者はどんどん金持ちになって、
債務者はどんどん蝕まれていく。
この100年で、世の中が急激に変わったな…と感じた原因は、
「資本」を先売りすることで「未来」を先買いした結果だったのだ。
そして、地球は環境破壊が進み、
素に戻れない状況まで追いつめられてしまった。
「お金」が「お金」を生み出すサイクルは、
どんどん加速の一途と辿っている。
ミヒャエル・エンデは、ここに警鐘を鳴らしたのだ。

3月13日。木曜日。
ミヒャエル・エンデ博物館にて、
エドガーの画集やルイーデの絵を眺めて過ごす。
芳名帳には、日本から来た
たくさんのエンデファンが
その思いを日本語で綴っていた。
ボクも「来るべくして来ました」…と記した。
エンデの思索で感銘を受けたのは、
やはり「根源からお金を問うこと」。
わかりやすく説明すると、
1.はじめは「モノ」と「モノ」の交換で暮らしていた。
⇒「パン」と「バナナ」を交換して、お互いが満足していた。
2.そこに「モノ」の価値を代用するものとして「お金」が生まれた。
⇒価値を定義する物差しとして「金」や「銀」が基準になった。
3.すべての価値を代用し、かつ風化しない「お金」は力を持ち出す。
⇒「バナナ」は腐るけど、「お金」は腐らない。
4.「お金」を蓄え、貸し出すことを商売として思いついた人間がいた。
⇒価値が不変だから、貸し出すことが可能になった。
5.貸し出す対価として「利子」を生み出し、儲けることに。
⇒「価値」を肩代わりする代わりに、手数料を払え…と。
6.モノの価値を代用する「お金」そのものが、商品となった。
⇒「お金」を預けると「利息」がつき、貸すと「利子」がついた。
この6が曲者で、
もともと対価の代用でしかなかった「お金」は、それだけで生産性はなく、
価値を生み出すことはできない。1000円はいつまでたっても1000円だ。
しかし、「お金」を商品として売り買い(貸し借り)することで、
「お金」にプラス手数料という価値が生まれてしまった。
「利息・利子」という名の手数料は、「お金」を借りた側の負担から生まれている。
債務者が生み出す価値である。もともとないはずの「価値」だ。
ここに問題が生じてくる。
「利子」はマイナスには転じない。ベクトルは常に上向きだ。
元金は、転がる雪だるまのように
どんどん利子にまみれ、大きくなる。
その増えた分は、債務者の手で生産しなければならない。
一方の債権者は、雪だるまが大きくなるように
資金を集める。「銀行」の始まりだ。
預ける側のメリットとして「利息」をつける。
「利息」を払うために「銀行」は債務者を急き立てる。
「お金」を商品にすることで「お金」が生まれている。
これはやっぱり、無理が生じてくる。
商品をつくって、その価値を対価として支払う仕組みから
「お金」そのものの「価値」を売買して「お金」を生み出す仕組みに。
…これが「資本主義」と呼ばれるもの。