
この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。
世界はきみを入れる容器ではない。
世界ときみは、二本の木が並んで立つように、
どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。
それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。
きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。
きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、
きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、
一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
たとえば、星を見るとかして。
二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、
毎日を過ごすのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。
水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。
星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。
星ではなく、せせらぎや、セミ時雨でもいいのだけれども。
(池澤夏樹「スティル・ライフ」)
学生時代に感銘を受けた
池澤夏樹の「スティル・ライフ」。
今、読み返すとその感慨も変わる。
特に、株の売買を企てるあたり。
おそらくゲゼルの「自由経済」も熟知した作家の
「資本経済」への揶揄も含んでいると感じる。
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「モラトリアム」…社会へ一定の距離を置いて留まる人種。
「社会にコミットする」や「総括」なんて言葉が
街に飛び交っていた「プロレタリアート」な70年代。
そこでただ留まり、静観している奴らは「モラトリアム」なんて言われた。
いつまでも社会に与しないボクたち。
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21世紀にはいっても、その立ち位置を崩さないボク。
RADWIMPSには、同じ感性を勝手に感じている。
「スティル・ライフ」冒頭部分。
一定の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかること。
それは結局、自身の感性や感情に正直であるってことなんじゃないか?
「資本経済」の歪みも
生き苦しむことでの「もがき」も
その基盤には、外なる世界と内なる世界の呼応と調和があるんじゃないか?
「モラトリアム」大いに結構。
世界を肌で感じ、内なる感性の声をしっかり聞こう…と思う。