タカダワタル的


「タカダワタル的」公式サイト

9月4日。
プレゼン差し戻しの訃報を受け、
どん底に落ちる。

ビールを飲みながら
「タカダワタル的」DVDを観る。

「タカダワタル的ゼロ」が2001年の映像だから、
その2年後のタカダワタルが、そこにいた。

2年後…か。

うがった見方かもしれないが、
「ゼロ」の時より確実に年を取っていた。

   歌えていなかった。

   弾けていなかった。

   声が最後まで出ていなかった。

タカダワタル的には
そんなことどうでもいいのかもしれない。

しかし、その存在が圧倒的なだけに、
ワタルさんがしぼんでいくのは忍びなかった。

     ●

2005年3月15日に撮られた
インタビュー映像が特典で入っていた。

この1ヶ月後、ワタルさんは召された。

そんな思いも重なるのだろう。
1杯の焼酎でふにゃふにゃに
酔っぱらうワタルさん。

外はまだ明るいのに、
「いせや」の畳に横になり、
寝入ろうとするワタルさん。

なんだか、哀しかった。
ものすごく涙があふれた。
…勝手なもんだ。

DVDに「追悼高田渡」として
今回の映画にかかわったたくさんの人の
お別れの言葉がつづられてあった。

映画の公開が2004年である。
そのプロモーションで全国行脚したのが、
最期となった…のだ。

3月15日のインタビューで
ワタルさんは、「いやあ、去年は疲れた」
「全国をいろいろ回ってね、大変だったよ」
…と語っている。

しかし、その後のアルバムの構想もしっかりあって、
「虫をテーマに1枚のアルバムを作りたいんだよ。虫。ムシ。昆虫ね。」
とさまざまな詩人を例に、そのアイディアを話していた。

そのインタビューに同席していた中川五郎さんが
追悼文で「悔やんでも悔やみきれない」と
書いているのが、胸に響く。

     ●

僕の生き方は贅沢っていえば贅沢だよね、
自分でしたい仕事しか選ばない。
それはひとりでやってるからできるのであってね、
事務所構えている人にはそれは出来ないだろうね。
仕事が無くたって別になんにも気にしない。
時間を売っている訳だからね、
その時間くらいは自分で自由にしようかと思ってる。
だからウチでというか、ぼんやりしている時間のほうが
大事だと思うんです。スケジュール通りに
「こうしなきゃいけない。ああしなきゃいけない」
というのは僕には向いてない。
でも予定が入っちゃうと、その日まで元気にやってなきゃ
いけないな…というのはある。

      ●

まあ人と会っているのが好きなんだろうね、
そこで人から色々な養分をもらって帰る。
人に会うとね、「ああこういう考えもあるんだ」ってね。
僕はそういう時に惹かれる。
文字が嫌いな訳じゃないけど、それだけで煮詰まっている人がいるよね。
そういう人には僕はあんまり興味がない。
人と喋ってるほうが面白いじゃない。
それでやっぱり歌っているのも好きなんだね。
たぶん歌う瞬間が好きなんだ。
くたびれるけどね。
でもそれもしょうがないなって…これも病気といえば病気だね。
でも歌っていなければね。
まあ、もう少し何かをしなきゃいけないなぁとは思ってる。
もう少し何かやってからじゃないと。
引退するとかそういうことじゃなくてね、
もういいなと思ったら黙って歌うのを辞めるだけ。
周りはね、「君が一番長生きするよ」なんて言うけど、
長生きなんかしたくない。けど明日、すぐに逝くって訳にもいかないんですよ。
           (2005年3月24日吉祥寺・いせやにて)

       ●

1949年1月1日 – 2005年4月16日。
歌に生きたあなたに、ホント勇気づけられます。
タカダワタルに出会えて、良かった。

【宮崎駿】崖の上のポニョ


「崖の上のポニョ」公式サイト

8月29日。
レイトショーで
「崖の上のポニョ」を見る。

20時30分からの上映というのに、
子ども連れの家族で満席。

公開から1ヵ月も経つというのに、
この盛況ぶり。
宮崎駿のすごさをマジマジと見た。

約2時間。
映像のインパクトと
中身のハヤオワールドを堪能。

正直、ストーリー背景は
よくわからなかったが、
映像体験を主としているのだろう。
…と勝手に解釈して納得する。

(だいたいポニョはナニモノなのだ?)

その後、
8月5日に放映された
「プロフェッショナル~仕事の流儀~」
宮崎駿特集をビデオで見る。

「生きててよかった。」

この今回のキャッチコピーが
ハヤオ自らの幼少体験から来る話を聞き、

また、劇中の登場人物、
老人ホーム「ひまわり」でクセのある老婆として
描かれているサキさんに自分のお母さんを投影し、
映画の中で主人公「宗助」と向き合わせることで、
自分の中の母との関係を修復しようとしたエピソードなどを
聞かされると、

…なるほど、極私的な思いが昇華されると
 それはひとつの普遍的かつ不変的なメッセージとして
 心に深く伝わるのだ…と合点。

宮崎駿がその思いを伝えるべく
極私的な感覚を細部にわたるまで投影し
何度も修正をかけている制作過程を見て、

グラフィックデザイナー杉浦康平の言った
「ミクロの調和がマクロの調和へと共鳴する」
意味を理解した。

やはりあくまで個の魅力が
世界を魅了するのだ。

デジタル化が進み、すべてが平準化され
怖ろしいほどの効率化を企てる輩が多い中、
手仕事にこだわり、極私的感覚にこだわり、
大衆を相手に「どうだ!」となげうった宮崎駿は、
現実を痛烈に批判しているように思う。

「崖の上のポニョ」はひとつの金字塔だ。

【KICHIJOJI】タカダワタル的ゼロ


タカダワタル的ゼロ

忙しさにかまけて
ブログも更新せず、8月末を迎えた。

その間、南国ドロップスのCD発売記念ライブや
オリオンビールのTVCM撮影、
au沖縄セルラー電話の秋冬プロモプレゼン…など
忙しく時を過ごす。

内省的だった6月、7月から
いきなり活動的な8月へ。

獅子座の夏は
いつもこんな感じだ。

突き動かされている…ような
血踊る季節。

…といって、決して調子がいいわけじゃなく、
淀んだ空気や、歪んだ社会に、
苦虫つぶして愚痴をつぶやく。

ふう、いつものことだ。

最近、日増しに頭髪が抜け、
後頭部がめっきり薄くなったと指摘を受け、
抗なうことの出来ぬ時間の流れに唖然とし、
…ふと、宙を見つめることもある。

そんなときに、「タカダワタル的ゼロ」を観た。

吉祥寺の「いせや」で語る高田渡。

「シゲちゃんはここは何年になるかね?この店入って何年?」
「十年」
「十年か?バカだね~。ははは…十年も居んのコイツ」
「ああいうのがいるんだ。でも好きなんです。ボクはね、
 こういう人たちが好きなの。こういうね、天然ボケみたいなのが好きなの。」

開店前から焼酎のお湯割りを飲んで、
店員に絡んでる。

「飲み屋で飲んでてね、一番好きなのがね。
 いろんなジャンルの人がいてね、その領域を絶対
 乗り越えない。入り込まない。ね。
 それが一番いい。失業、リストラあるでしょ。
 年金制度。老人ホームから出された人とかね。
 そりゃ、いろんなジャンルがいる。
 絵描きがいたり、ミュージシャンがいたり。
 おもしろい人が一杯いるね。」

吉祥寺は、まさにそんな街だった。

いろんなペースで生きていて、
決してお互いの領域に乗り越えない、入り込まない。

吉祥寺…西荻窪…荻窪…阿佐ヶ谷…高円寺…中野…。

そんな連中ばかりが巣くった、中央線沿線。
だから、居心地よかった。

「生活の柄」そのまんまの生き様で
タカダワタルは等身大の唄を歌う。

 ♪夕暮れに あおぎ見る
  輝く 青空
  日が暮れて たどるは
  我が家の 細道
 
  狭いながらも 楽しい我が家
  愛の月影のさすところ
  恋しい家こそ
  わたしの青空

       「私の青空」

ステージの上でも、いせやのカウンターでも
タカダワタル的スタンスで、絶妙な間を演出する。
よくぞまあ、そんな生き様貫けたねえ…と
惚れ惚れするようなマイペースさ。

35年前の高田渡がステージで歌ってる。

 ♪わたしはわたしよ もともとこんなよ
  笑いたかったら きゃっきゃっと笑うわ
  愛してくれれば わたしも好きだわ

全然変わってない。
飄々としたスタイル。

その一徹なところが、心地良い。
世間にわるびれず、自身に正直で
一歩引いたスタンスで、その生き様を歌う。

吉祥寺の「いせや」に行きたくなった。
昼間っから、ビールと焼き鳥で、友と語らいたくなった。

草間弥生「わたし大好き」


草間弥生オフィシャルサイト

1929年生まれ…というから驚いた。

その存在感。
達者な口ぶり。
英語も話す。
創造力、集中力。

人生のすべてを
クリエイティブに捧げてきた
自我の強さが、すばらしい…と思った。

自我が強いから、
「草間弥生」は絵を描いているのだろうか?

どうもそうではなさそうだ。

絵を描く発端は彼女の場合、病気だった。

 少女時代より統合失調症を病み、
 繰り返し襲う幻覚や幻聴から逃れるために、
 それら幻覚や幻聴を描きとめる絵を描き始める。
 
…とwikipediaにはある。

表現行為はつまり「世界につかまる体験」…と田口ランディは言う。
それは「恋をする行為」に近い。
自分ではどうしようもない狂おしい衝動がこみ上げ、
制御不能となり、心が世界に持って行かれてしまう。

「自我」よりも「忘我」。

映画の中で、草間弥生はよく自分の作品を誉めた。
「すてきな絵ねええ」「こんな詩、誰にも書けませんよ」

おそらく「忘我」な草間弥生と「自我」の草間弥生が交錯しているのだ。

このドキュメンタリーは2006年から描き始めた
F100号キャンバス50枚に及ぶ大作
「愛は永遠(とこしえ)」の制作過程を追ったものだ。

160cm×130cmの大きな画面を
ひたすら黒のマーカーで描き潰す。
その集中力たるは、忘我の域である。

78歳となり、取材者に「晩年の大作ですね」と言われ、
「わたし、晩年なの?」と切り返す草間弥生。

しかしこの「愛はとこしえ」は
相当なエネルギーの放出だと思う。

しぼんでしまってもおかしくない。
しかし、ますます鋭気盛んである。

矢沢永吉じゃないが、
表現者として憑依しているから
彼女自身の生命は衰えるどころか、
ますます若返ってくるのだろう。

本来、表現とはそのようなものなのだ。
我を忘れ没頭する。恋愛のように。
「世界につかまる体験」なのだ。

 草間弥生、79歳。
まだまだ世界は彼女を手放そうとしない。

 

【JAPAN】YASUKUNI


話題のYASUKUNIを観に行く。

「抗日感情」が入った似非ドキュメンタリーだとか、
「撮影許可」を得ずに構成されているとか、
様々な問題を孕んだ映画だ。

確かに90歳の刀鍛冶職人刈谷直治氏が
映画の主題となるような編集になっている辺りは
本人もびっくりしているだろう…と思うが、

こういった目線が
日本人から描かれてこなかったことが
とても問題だと、ボクは思う。

戦争責任がうやむやなまま
現代にまで来てしまったから、
事態はややこしいことになっている。

終戦記念日における
熱狂的な参拝者の群衆を見てると、
「日本人」を意識するって
そんなちっぽけなことなの?
…と思ってしまう。

「戦後の日本人は明治維新以来約246万柱の英霊の犠牲の上に
 今現在があり、そのおかげで我々が生かされているという事実から目を背け、
 いまだ大東亜戦争で散華された英霊の名誉を回復できずにいる」

「侵略戦争だの防衛戦争だのと議論もいいが、祖国日本のため
 命の極限において戦った人を侵略者扱いするバカな国はこの日本以外にない!」

「一国の首相が、一政治家として、一国民として戦没者に対して
 感謝と敬意を捧げる。哀悼の念を持って靖国神社に参拝する。
 二度と戦争を起こしてはいけないという事が日本人からおかしいとかいけないとかいう批判が
 私はいまだに理解できません。まして、外国政府がそのような心の問題にまで
 介入して外交問題にしようとするその姿勢も理解できません。
 精神の自由、心の問題、これは誰も侵すことのできない憲法に保障されたものであります。」

これらの言動は、すべて一方的だ。
日本の側からしかモノを見ていない。

それは結局、戦争責任を明確にしてこなかったことに起因する。

ダッハウの強制収容所では
当時ドイツ人がおこなった行為をそのまま忠実に展示しよう…
…という誠実な姿勢が見て取れる。

靖国神社は、
その当時におこなわれた日本の行為を神格化し、
祀ることで責任を回避している。

なぜA級戦犯を合祀したのか。
なぜ戦争をおこなった人たちが犠牲者扱いなのか。
その目線からして、おかしい話だ。

そういった史実の捉え方のズレを
ズレと感じていない日本人が多いこと、
そのあたりが日本人の傲慢さを顕している。

「神風」思想。
「日出づる国、日本」。

どこの国よりも秀でている…といった優越感が
その底辺に流れていると思えて仕方がなかった。

「ちっちぇ」。

This is BOSSA NOVA


1950年代の終わり、
ボサノヴァはブラジルのリオデジャネイロの
海沿いの街から生まれた。

サンバやショーロという多彩なリズムをもった
豊かな音楽の土壌から、
静寂の中に躍動を秘めた“新しい傾向”を
感じされる音楽の芽が息吹いた。

コルコヴァードの丘にそびえる
キリスト像の背後から俯瞰するリオの全景。

イパネマ海岸の青さと燃えるような夕暮れ。
木々の緑とリオの山々の稜線。

スクリーンから溢れるリオの美しさに心奪われる。

ジョビンが「ボクの音楽の多くはリオの美しさによるものだ」
と回想したように、ボサノヴァの美しさは
まさにリオの美しさに拠るところがが大きい。

This is BOSSA NOVA

ボサノヴァ創世の相関図が
手に取るように展開され、
この音楽の屹立線とも言うべき、
背筋を伸ばした「粋」の良さが
あらためてボクの心を捉える。

ヴィニシウス・ヂ・モライスや
ホナルド・ボスコリのような
詩人やジャーナリストが
ボサノヴァの立役者であったことも
非常に興味をそそった。

そして、何より
アントニオ・カルロス・ジョビンの
洗練された楽曲には涙が出た。

CORCOVADO、あのリオにそびえる丘が
どれほど彼らの心の支えになっているのか…と。
情景を思い描きながら、Tomの曲を噛みしめると
ブラジルの風が、五感に流れていくのを感じた。

 ここぞ、私の探し求めた居場所
 命の炎がきらめき尽きる日まで
 あなたがそばにいてくれる

 昔の私は道に迷い、孤独だった
 人生を悲しい悪ふざけと思った

 でもあなたのおかげで
 生きる意味に私の眼が開かれた
 我が愛するひとよ

リオでなきゃ、ダメなんだ。
それが、ボサノヴァ。

サルバドールの朝


多忙を極めて更新を怠っていたら、
2月7日になっていた。

すでに2週間。

その間にさまざまなことが起こり、
さまざまな思いが浮き沈み、した。

日記と同じで
書き留めるくせをつけないと
ブログの更新もおろそかになる。

2008年が始まってから
エンジン全開で突っ走ってきた。

もうそろそろシフトダウンしても良い頃…
…と高をくくっていたら、また嵐が来た。

そして、ふと立ち止まって考えた。
運命ってなんだ?

身近だった人間の突然の死を経験してから
ますます現実との乖離が激しくなっている。

そんな時に
「サルバドールの朝」を観た。

1975年のスペインが
フランコ独裁政権下であったこと、
自由を唱えることすら、ご法度であり、
25歳の若者を死に至らしめることに
なんの抵抗もなかったこと。

この事実に、驚愕した。

バルセロナは40日間滞在した場所だ。
青い空や青い海、夜明けまで続く宴、
音楽が巷に溢れ、人々は陽気に笑い、
カフェコンレチェはいつも美味しかった。

そんなバルセロナで
32年前にサルバドールは
死刑執行の朝を迎える。

この描写がむごたらしい。

鉄環絞首刑…ガローテ。

…柱につけた鉄環に首を入れさせ,
 その鉄環をねじで絞めて殺す
 極めて残忍で、苦痛を伴う死刑なのだ。

 執行人は万力を締めるように、徐々に徐々に力を加える。
 サルバドールは鮮明な意識の中で、手足をばたつかせ、
 もがき苦しんでいる。
 その状況を廻りはただ見つめ、息の根が止まるのを待つ。

 執行台の設置場所がまた非道い。
 刑務所奥の物置のようなところである。
 さらに執行人は、ガローテを設置に来た老いぼれ職人。
 若者の「死」をここまで下劣に扱うのか…と怒りの涙が溢れた。

32年前の出来事である。
自分の人生に振り返ってみる。

このまま仕事に翻弄され、時間を無為に消化することが
果たして有意義なことなのか。

そんな思いが沸々と浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
何かが間違っている。そんなことはないか?

ニュー・シネマ・パラダイス


またもや年末に、感動の映画に遭遇できた。
2006年は歓びを歌にのせてで。
2007年はニュー・シネマ・パラダイスで。

こんな映画を見過ごしていたなんて。

映画になぜこれほどまで魅了されるのか…
そんな思いがすべて詰まった、珠玉の作品だ。

小学生の時に初めて映画を観に行って、
その魅力にはまり、チラシを集めた記憶が蘇る。

当時は映画チラシを専門に扱うお店もあって、
昔の映画に思いを馳せるべく、1970年代のチラシを買い漁った。

まだビデオレンタルも普及していなかったので、
過去の映画は名画座で上映されるのを待つしかなかった。

スティーブ・マックィーンや
ダスティン・ホフマン、ポール・ニューマンなど
アメリカ映画のスター達が輝いていた時代のチラシを眺めては、
どんな映画なんだろう…とイメージを膨らませていたのだ。

あのときのときめき。

映画館で始まり、映画館で終わる
そのストーリー構造といい、
情感を煽るエンリオ・モリコーネの音楽といい、
「映画ってなんてすばらしいんだろう」…と全肯定したくなる映画だ。

子供のときの純粋な感動を、
この映画は蘇らせてくれた。

巡り会えたことに感謝。

Slow Day/Charles Bukowski


It’s just a slow day moving into a slow night.
It doesn’t matter what you do
everything just stays the same.

the cats sleep it off,
the dogs don’t bark.

It’s just a slow day moving into a slow night.
There’s nothing even dying,
It’s just more waiting through a slow day moving into a slow night.
You don’t even hear the water running,
The walls just stand there and the doors don’t open…..

It’s just more waiting through a slow day moving into a slow night.
Like tomorrow’s never going to come and when it does it’ll be the same damn thing.

ゆっくりと過ぎゆく一日は
ゆっくりと過ぎゆく夜となる

あなたが何をしようとどうでもいいこと
何もかもすべては前と同じ

猫たちは眠って過ごし、犬たちが吠えることもない

ただゆっくりと過ぎゆく一日が
ゆっくりと過ぎゆく夜になるだけ

死ですらたいしたことじゃない

ゆっくりと過ぎゆく夜に向かって
ゆっくりと過ぎゆく一日に
もっといろんなものが待ち受けている

水が流れる音に耳を傾けることもない
壁はただ立ちはだかり、
そしてドアが開くことはない…

ゆっくりと過ぎゆく夜に向かって
ゆっくりと過ぎゆく一日に
もっといろんなものが待ち受けている

明日などまるで来ないかのように
そして来たところで
まるで代わり映えすることのない一日のはず

酔いどれ詩人になるまえに


メリークリスマス。

酔いどれ、詩人、マットディロン。

この作品を構成する3要素。
それだけで、ボクはこの映画を期待した。

予告篇の全篇に流れる
クリスティン・アスビョルセンの歌声も
期待の炎に油を注いだ。

観る前から、作品に酔った。

酒に呑まれる質だからか、
学生のころから、この手の作品には滅法弱い。

自己陶酔。

トムウェイツのやさぐれ男の世界や
ジャズ喫茶の陰鬱で行き場なしの空気や
バーカウンターの紫煙にまみれた男と女の欲望に
ボクは昔から感入ってしまう。

歯止めのない欲望が渦巻く
剥き出しの人間模様が、好きなのだろうか。

ブコフスキーは書く。

酔いに任せてトチ狂ってるのは、おまえらのほうだ…と。
何かにしがみついて、幻影に囚われているのは、おまえたちだ…と。

何事にも不器用で、
流すことを知らないから、
ドデカイ思考の渦に呑み込まれ、
肉塊な言葉を吐き出すしか、ないのだろう。

考えが考えを産み、言葉が言葉をおびき寄せ、
どうしようもなくヒートUPしたくそったれな脳みそを、
酒と煙草と女が、ほどよく淀ませてくれる。

ブコフスキー。
思考の酩酊にようこそ。

クリスマスの夜に、カンパイ。

酔いどれ詩人になるまえに