【jun_14】メインの森をめざして


今日は「メインの森をめざして」の著者、
加藤則芳さんの誕生日。

加藤さんは今、筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病と闘っている。
筋肉の働きが運動ニューロンの変性に伴い、重篤な萎縮と低下に至る病い。

原因不明なため手の施しようがなく、
おそらく加藤さんは今、呼吸筋の萎縮と最期の闘いをしていることだと思う。

ボクは彼の存在を朝日新聞のコラム「人生の贈りもの」で知った。
すでに病は進行中で、この掲載日の時点で握力はゼロ、首を持ち上げるのも大変な状態だった。

そのような状態の加藤さんが、発病前の2005年4月から10月の半年、
アメリカ東部のアパラチアン・トレイル3500キロを踏破した…という事実を知って
ロングトレイルとはいったいどのようなものなのか、興味を抱いたのだった。

187日間という、尋常じゃない日数をひたすら歩き通す。
一日平均23キロ。当時56歳だった加藤さん。肉体的にも非常に過酷なトレイルだが、
なにより精神的なアップダウンは相当なモノだったと思う。

持病の頭痛が時折彼を苦しめる。
長年歩き続けたためのカラダの軋みが膝や足首などに顕れる。
30キロ近いバックパックの重みに嫌が上でも体力の衰えを感じる。

一時は本当に足の痛みに耐えられず、踏破断念の決断を迫られた。

それでもなんとか精神的に克服し、見事メイン州の100マイルウェルダネスを迎える。
学生のころ触れたヘンリー・デイヴィッド・ソローの名著「メインの森」。
市場原理主義アメリカのもう一つの顔、自然への造詣の深さを加藤さんはこの本で知り、
日本にその素晴らしさを伝えるライターとして、方々の山々を歩いたのだった。

その念願の「メインの森」。

  登りながら、なぜか涙があふれてきた。この悠揚とした拡がり、この神々しい光、この山々の滑らかなうねり。
  多くの人に助けられ、心を分かち合い、ときに共に歩き、それでもたいがいは、たった独りで、3000キロを超える距離を、
  時に悦びと感動に浸り、時に脚や頭痛に苛まれながらも歩きつづけ、ようやくここまで辿り着き、夢見続けてきたメインの
  広漠とした森の風景美の中を歩いている自分。いままでのさまざまな苦しみの5年間。それ以前からの、誰にでもあるだろう
  心のアップダウンの記憶。そういったあれこれを思い出し、涙が止まらなくなった。

  そして、この3000キロ以上の距離を歩くなかで、分かち合ってきた多くのバックパッカーとの交流。
  そしてサポートしてくれた人々への感謝の気持ち、曲がりなりにもプロとしてのボクが、
  これだけの苦しい思いをして、ここに辿りつき、これだけの感動を得ながら歩いている。
  おそらくはボク以上に苦しみ、自らの人生を磨くため、あるいはステップアップさせるため、
  あるいは見つめ直すため、さまざまな目的のためにめげることなく、自らに課した課題をクリアしようとがんばり抜き、
  この同じ風景を、この同じ感動を味わっているだろう、バックパッカーのあの顔、この顔を想うと、感慨を抑えきれなかった。
  まだ終わったわけではないのに。まだ400キロも残っているのに…。

  感動できるという幸せを、しみじみと感じる。感動する心の大切さを、あらためて胸に刻んだ。
  感想する喜びを知れば、それが生きる糧となる。その喜びを知れば、感動を求める気持ちがより強くなり、
  より強い好奇心を生み、さらなる成長へとつながっていく。
  すべての子どもに、この感動する心の大切さを伝えたい。感動は人生のステップアップのための、
  大切な要素になるべきなのだ。自らの課題を課し、それを乗り越える。乗り越えたときの感動が、
  次なるステップアップにつながり、次なる喜びに広がっていく。決して苦しみの拡がりではない。
                                          (「メインの森をめざして」527p)

人間は自然の一部であり、自然は人間の一部でもある。
そんな当たり前の事柄も、現代社会は隔絶しようとしている。

加藤さんは数々の著作で、その驕った人間存在に警鐘を鳴らしている。
なにより、自然の中を歩くことで得られる「今、此処」に在る自分の尊さが、
素直につづられていて、読んでいて何度も胸が熱くなった。

何度も困難に打ち勝ってきた加藤さん。
ALSをも奇跡の逆転劇で、復活してくれるのではないだろうか。
そんな底知れぬパワーを秘めた人なのだから。

加藤さん、63歳の誕生日、おめでとうございます!

【may_01】ヒミズ


「いいや、我が子よ」と彼は私の肩に手を置いて、いった。
「私はあなたとともにいます。しかし、あなたの心は盲いているから、
 それがわからないのです。私はあなたのために祈りましょう」

  「盲いる」→「盲目」→「日を見ず」→「ヒミズ」

そのとき、なぜか知らないが、私の内部で何かが裂けた。
私は大口をあけてどなり出し、彼をののしり、祈りなどするなといい、
消えて無くならなければ焼き殺すぞ、といった。
私は法衣の襟首をつかんだ。喜びと怒りの入り混じったおののきとともに、
彼に向かって、心の底をぶちまけた。

キミは自信満々の様子だ。そうではないか。
しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛1本の重さにも値しない。
キミは死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。
私はといえば、両手はからっぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。
自分について、すべてについて、キミより強く、また、私の人生について、来るべきあの死について。
そうだ、私にはこれだけしかない。しかし、少なくとも、この真理が私を捉えていると同じだけ、
私はこの真理をしっかり捉えている。私はかつて正しかったし、今もなお正しい。
いつも、私は正しいのだ。私はこのように生きたが、また別な風にも生きられるだろう。
私はこれをして、あれをしなかった。こんなことはしなかったが、別なことはした。
そして、その後は?私はまるで、あの瞬間、自分の正当さを証明されるあの夜明けを、
ずうっと待ち続けていたようだった。何ものも何ものも重要ではなかった。
そのわけを私は知っている。キミもまたそのわけを知っている。これまでのあの虚妄の人生の営みの間じゅう、
私の未来の底から、まだやってこない年月を通じて、一つの暗い息吹が私の方へ立ち上がってくる。
その暗い息吹がその道すじにおいて、私の生きる日々ほどには現実的とはいえない年月のうちに、
私に差し出されるすべてのものを、等しなみにするのだ。

他人の死、母の愛、、、、そんなものが何だろう。
いわゆる神、人々の選びとる生活、人々の選ぶ宿命、、、そんなものに何の意味があろう。

ただ一つの宿命がこの私自身を選び、そして、キミのように、私の兄弟といわれる、
無数の特権あるひとびとを、私とともに、選ばなければならないのだから。

キミはわかっているのか?誰でもが特権を持っているのだ。特権者しか、いはしないのだ。
他のひとたちもまた、いつか処刑されるだろう。キミもまた処刑されるだろう。
人殺しとして告発され、その男が、母の埋葬に際して涙を流さなかったために処刑されたとしても、
それは何の意味があろう?サラマノの犬には、その女房と同じ値打ちがあるのだ。
機械人形みたいな小柄な女にも、マソンが結婚したパリ女と等しく、また、私と結婚したかったマリイと等しく、罪人なのだ。
セレストがレエモンより優れてはいるが、そのセレストと等しく、レエモンが私の仲間であろうと、
それが何だろう?マリイが今日もう一人のムルソーに接吻を与えたとしても、それが何だろう?
この死刑囚め、キミはいったいわかっているのか。私の未来の底から、、、、

こうしたすべてを叫びながら、私は息が詰まってしまった。
                    (アルベール・カミュ「異邦人」より)

  絶対的に他なるもの、それが「他者」である。それは自我と同じ度量衡をもっては計量することのできぬものである。
  わたしが「あなたは」あるいは「私たちは」というときの集団性は、「私」の複数形ではない。
  わたし、あなた、それはある共通概念の個体化したものではない。所有も、度量衡の一致も、
  概念の一致も、わたしを他者に結びつけることはない。共通の祖国の不在、
  それが「他なるもの」を「異邦人」たらしめている。  (エマニュエル・レヴィナス「他者論」より)

映画「ヒミズ」の中で、
二階堂ふみ演じる茶沢景子がスミダに吐くセリフ…

「スミダくんは、スミダくんがつくったルールに縛られているだけなんだよ」

カミュやレヴィナスを引用したのは、
このセリフこそが、社会と対峙する人間の存在の本質を物語っているからに他ならない。

ボクたちは社会に生きるうえで、どれだけの規範を張り巡らし、生活しているのだろう?
その規範がときには人の身動きを奪い、「出口なし」の状態に貶めたりする。
しかし、すべては「相対的」な存在なのだ。

絶対的に「他なるもの」それが他者だとレヴィナスが語るように、
私たちはすべての事象を「こうであろう」という想像の中で捉えているにすぎない。
しかし、「異邦人」の中で主人公のマルソーが司祭にどなりつけるように、
他者を安易に己の想像域に取り込もうとする行為が、その存在を大きく毀損するのだ。

震災を舞台とした園子温監督の「ヒミズ」は、
個々が捕らわれている概念で、他者を大きく毀損することを警鐘している。
そして、震災後のニッポンはその概念が二重三重に重なり合い、
社会全体が大きく毀損しかねない状況に陥っていることを警鐘している。

「しかし」も「だから」も「でも」も「たら」「れば」もない。

いつまでも既成の枠組みにしがみつくのではなく、
新しい規範に己を捉え治すこと、その思考の再構築が求められているのだ。

【apr_15】脱原発・山本太郎


「栴檀は双葉より芳し」
才知のすぐれた人は、幼少の頃から、すでに並外れた素質を表す…の意。

メロリンQ時代から政治に物申していた
山本太郎の自伝「ひとり舞台」を一気に読んだ。

芸能界デビューから役者への転向、
深作欣二監督と井筒和幸監督との出会い、
母の教育方針のこと、フィリピンでの経験、
そして、東日本大震災でつかんだ自身の思い。

井筒監督が太郎について語る。

「太郎くんを一言で言えば、礼節の男ですよ。
 撮影現場でもプライベートでもいつも周りに気を遣って
 礼儀を忘れない。彼は役者なんだけど
 助監督や技術のスタッフと一緒に機材を担ぐのも厭わない。
 彼が原発に反対するのも礼儀ですよ。
 原発の事実を知った以上、無礼者、無法者を許せないから、
 立ち上がったんやろうね」

「礼節」とは礼儀と節度。ニッポン人の美徳。
このコメントを読んで、なるほどねえ、と振り返った。

山本太郎もニッポンを愛しているからこそ、立ち上がったんやなあと。
礼節の国ニッポンを信じてるから、声高に訴えてるんや…と。

森羅万象、神の存在を思い、手を合わせ、一日に感謝する。
氏神さまや地蔵さん、日々の生活に自然への畏怖を忘れない心。

農業国ニッポンだからこそ、
礼節を以て営み、その収穫に感謝し、慎ましく生きる。

…太郎は語る。

 今回の原発事故には、例えば「高濃度に汚染された土地の人たちをどう避難させるか」
 とか「このまま電力を浪費する生活スタイルを続けていいのか」とか、
 数え切れないほどの設問が含まれていますよね。でも、その大本になるものは、
 実はひとつしかなくて。それは「あなたは人としてどう生きるんですか?」
 ってことだと思うんです。
 「まさに今、苦しめられてる人たちに対してどういう態度で接するんですか?」
 と言ってもいい。まあ、そうやって突き付けられたたったひとつの設問にも答えようとせず、
 今までの生活を続けようとしている人が、あまりにも多すぎるかなぁって思うのも事実なんですけど。
 そのシンプルな設問に対して答えが出れば、そこから何かを変えていけるはずじゃないかと。

チェルノブイリの隣国ベラルーシはいまだに独裁体制で
26年経った今でも国民に真実が隠蔽され、
1480ギガベクレルを超える高汚染染地域に1万人が住んでいるという。

「礼節の国、ニッポン」

相手を思いやり、節度を忘れない国を信じて、
ボクも太郎を見倣い、働きかけて行きたいと思う。

【apr_06】friends after 3.11


岩井俊二監督「friends after 3.11」を観に行く。

出演者のコメントが濃い。

総勢18名のそれぞれの立場で、
震災後のニッポンの現状について語っているのだけど、
映画は当然時間が限られているから、
「かいつまんで」見せるしかない。

それでもひとりひとりの存在から立ち上がってくる
auraというものが映像にはちゃんと描かれていて、
言葉の重み以上に、そのひとが持つ「存在意義」に観る者は心打たれる。

ひとりひとりは貴い存在。
だから、自分の出来ること、
信じるコトを推進している。

18人はそれぞれ、
この大震災で、
雷に打たれて開眼した人たちだ。

だから、観る側は勇気づけられる。

「おかしい」と思うことを「おかしい」と言ってくれる存在。

その当たり前なコトが、
くだらない「しがらみ」で言えない現実。

その通底を脅かすものは「カネ」だと、実感した。

「カネ」によって社会全体が動かされているから、
「カネ」の損得が真っ先にアタマに浮かぶ世の中だから、
「カネ」を得るための振る舞いを覚える。

脱原発の宣言をした城南信用金庫の吉原頭取は語る。

「損得なしに企業は成り立つんですか?という質問をマスコミから良くされるのだけど、
 会社は損得より先に「こころざし」ありきじゃないんですか?と言いたいのです」

「会社は社会に対しての「こころざし」があって設立されるもの。
 カネ勘定を第一に考え、損得で動くこと自体、もうすでに「カネ」に毒されているのです」

あああ、嘆かわしき現代社会。

いまやキッザニアで子供時分から「カネ」の扱いばかりに目が行っている世の中だ。
なによりも先に「カネ」の皮算用でそろばんをはじく思考回路になっている。

「カネ」よりも「こころざし」だと、頭取が語るこの理屈こそが「本当」なのに。

ボタンのかけ違えどころか、
敗戦国家ニッポンは、
カネに目がくらんでしまうほど
心に余裕がない貧小な国家だったのだ。

今からでも遅くはない。
悔い改めて、その煩悩を捨て、
「こころざし」を育てよ。

【mar_31】内田周作


役者、内田周作。
映像作品の撮影で徹夜明けだったところを
そのまま新宿ゴールデン街へ誘い、撮影。

この5月には出演した映画
大林宣彦監督の「この空の花」も公開。

上京3年経って
しっかり結果を出している役者だ。

それでも東京の役者業界の実情を知って
ガッカリ肩を落としてもいた。

「ようはギャラが安すぎなんですよ」

モノを創るってのは時間がかかる行為なはず。
それでも消費される速度に合わせて
無理強いモノが創られている現実。

しかも薄利多売だから、食えるはずの映画監督すら、
まともに映画だけで食えていない現状は、いかがなものか。

役者なんか底辺の稼業ですよ。
本物の役者が売れている訳じゃない…ところが、
このニッポンのダメさ加減を露呈している。

撮影のあいだ、熱く語ってくれた周作くん。
…写真業界も、…いやクリエイティブ業界全般が
似たような傾向だ。

震災以後、本物のクリエイティビティが求められているというのに、
既得権益の争奪戦争いばかりで、新しい地平に移ろうという機運がみえない。

だから未だに普天間基地は返還されないのだ。

【mar_14】父の愛人


父の愛人」試写前、
挨拶をする迫田公介監督。

38分間の中に凝縮された人間模様。

不在の父と関わる3人の女_娘、妻、愛人。
それぞれが不均衡な心の揺れを抱え、生きる。
父の不在が、「孤独」を弥が上にも突きつける。

その「孤独」を引き受けるか、やり過ごすか。

人間は弱い。孤独には滅法弱い。

だから人は、「その日暮らし」に
「終わらない日常」をやり過ごしている。

「愛されない」ことの恨みつらみを吐露し、悲劇の渦中に悶々とするか。
「愛する」行為に溺れ、浮ついた思いに盲目となるか。
どちらにしても日常をやり過ごすことに違いは、ない。

そのことに気づいた人間は、メンチを切って
しかと己の「孤独」を引き受けるのだ。

孤独とのタイマンを張ると、人は強くなれる。
「父の愛人」は、そんなことを想起させる映画だ。

…で、THEATRE_BROOKの「無実の子」を思いだした。
 
 「無実の子」 詞・曲/佐藤タイジ
 
  あぁ 無実の子よ 光にまみれて
  踊りつづけておくれ お願いだから
 
  そして 海へ出よう 熟れきったバナナは
  落ちて腐るだけだから 水しぶきの 光の波

  ハレルヤ 夜が明ける前の明るい星に
  ハレルヤ 赤くなり出した 東の空

  おぉ待ち遠しい おぉ待ち遠しい おぉ待ち遠しい あなたに逢うのが
  おぉ待ち遠しい おぉ待ち遠しい おぉ待ち遠しい 大事なあなたが

  あぁ 青い雨よ 乾いた街を
  祝福してください 祝福しておくれ

  タスケテ 夜が明けるまでに叫びつづけて
  なんにも 出来ないことに 膝から崩れ落ちて

  おぉ待ち遠しい おぉ待ち遠しい おぉ待ち遠しい あなたに逢うのが
  おぉ待ち遠しい おぉ待ち遠しい おぉ待ち遠しい 大事なあなたが
 
  大事なあなたが 最後の 逃げ道だった

はじめこの唄を聴いたとき、
不均衡な心を「あなた」に依存する唄だと思ったのだけど、
…「逃げ道」という自覚的な台詞からして依存度の高いイメージだ。

最近、この「あなた」はピュシスじゃないか…と思うようになった。

ピュシスとはPHYSISと書いて「自然」と解する。
それも人間の主観を離れた「大いなる自然」である。

…変化する現象の根底をなす永遠に真なるもの。

人はそれぞれの人生を全うすることでしか
この三次元の世界に留まることはできない。

しかし、己の生命の源であるピュシスは、
人の存在を離れて連綿と、そこに在る。

いわば、命の根源。
これが地球誕生からの56億年間、生命を突き動かしている。

ここで語るには大きすぎる話だけど、
「孤独」を引き受ける…とは、ピュシスを感じることだと、
ボクは思うのだ。

【mar_01】ピナ・バウシュとイ・チャンドン


毎月1日は映画の日。

なんとか時間を割いて2本の映画を観る。

「Pina_踊り続けるいのち」

ドイツの舞踊家pina_bauschへのオマージュを
「ビエナビスタ」のヴィム・ヴェンダースが3Dで昇華した作品。

 Dance,Dance,otherwise you are lost.
 踊り続けろ、さもなくば己を見失う。

圧倒的な「生命賛歌」。ここまでの踊りを、ボクは知らない。
3Dならではの空間の拡がりもすごいのだが、
ダンサーたちの「生きる」歓喜にはじける肉体に驚いた。
ダンスはここまでイノセントに生きることを全肯定できるのか。
人間の強さ、儚さ、悦びと哀しみ、愛し愛されたい願いと不安、
「やり過ごされる」日常の中で、置いてかれたまま放置される「純潔」。

ドイツの様々な都市や自然の中で表現されるダンスが、またイイ。

日頃アタマの片隅に追いやられていた「生きることへの純粋な悦び」を
呼び覚ますかのようにダンサーは己の「血の通った肉体」で表現する。

関節が動くことへの悦び、筋肉が収縮することへの悦び、
血が巡り熱が生まれ、汗腺から吹き出る汗が肉体を潤す悦び。

「生」そのものへのイノセントなまなざし。

ピナ・バウシュはその愉悦を伝えたくて、生きた。
ヴィムはその遺言を忠実に映像化した。
これは人間が生きることの「答え」そのものだ。
このようにカタチになったことは奇跡であり、人類の遺産だ…と思う。

おそらく「pina」を観た大半の人たちは、
「芸術は素晴らしい。私もそう生きたい…だけど日常はね」
と言って「やり過ごそう」としたかもしれない。

しかしイノセントな生きるまなざしは
日常にこそ育まれるのだ…と愚直に語る監督がいる。

イ・チャンドン_Lee Changdong。

たった5作しか撮り終えていないのに、
これだけの衝撃を与え続ける監督もいない。

夫を喪い、息子を喪いながらも、神に帰依して救われようとして果たされなかった
女主人公の壮絶な存在を描いた「シークレットサンシャイン」から3年。

今度は、詩を生むことで日常から脱皮する老女の姿を
「ポエトリー/アグネスの詩」としてカタチにした。

些末な日常に事件や病気やセックスが絡み、
それでも近視眼的にやり過ごされてしまう社会の中で
老女は突然「詩を書きたい」と詩作教室に通う。

自然をみつめ、言葉を紡ぐ努力をしながらも
一篇の詩すらカタチにすることができない日々が続くが、
身辺を凝視する作業の中で、はたと日常を「やり過ごす」コトができなくなる。

ここでもイノセントなまなざしが「生」に光を与える。

生きるコトの尊さとは、一刻一刻をどう過ごすか…にかかっている。
ピナの肉体による生命讃歌も、老女の言葉を紡ぐ行為も、
生きていることの不可思議に注ぐイノセントなまなざしが、在る。

今、必要なのはその純潔な、無垢な、まなざしじゃないだろうか?