東京アート探訪 その7


そして、移動美術館「ノマディック美術館」。

建築家の坂茂(ばん・しげる)によって設計され、
ニューヨークではじめて組み上げられた建築物で、
152個の貨物コンテナと坂茂オリジナルの建材・紙管で成り立っている。

コンテナは移動先で借り受け、組み立てるので
コストが大幅に抑えられる…という、坂茂らしい画期的な構造体だ。

坂さんとは、面識がある。

実は、建築写真事務所でアシスタントをしていた時の
メインクライアントが坂茂建築設計だった。

当時から坂さんの建築は斬新で驚きがあった。
壁だけで成立する構造体の集合住宅や、柱を設けず開放部を正面に据えた別荘、
カーテンで空間を仕切った私邸など、
朝から夕方まで彼の建築物と対峙し、竣工写真を撮影した。

今から15年ほど前の話だ。

あれから比べると、坂さんはとてつもない建築家に前進していた。
紙管を使った建築物で、いち早く被災地に仮設住宅を建てたり、
アフリカに難民用のシェルターを設けたり…と、
建築家ができる社会貢献に対しても、早くから目を向けていた。

都知事候補の黒川紀章氏とは、全く違った「共生」のアプローチだろう。

今、こうして彼の建築物を眺めていると、
「こころざし」がどれだけ大事なのか…実感できる。

坂さんの建築に対するこだわり、真摯なまなざしは、
撮影立ち会いの合間も、ビシバシ!とこちらに響いていた。
構造体の説明をしながら、欲しい絵のアングルを指示する言葉に
孤高の声を感じていた。

…すごい人と関わっていたものだ(>_<)。 SHIGERU BAN Architects
Voluntary Architects’ Network

東京アート探訪 その6


単身東京で頑張るイギリス人、Jaimeと合流。

彼との出会いは、沖縄。
ALTの教師としてイギリス北部からやって来たのは、確か5年前。
現代美術を大学で専攻していたせいか、何事にも好奇心も旺盛で、
日本語も素早く取得、書道もアートとして自分のモノにしてしまった。
また、カポエイラの造詣も深く、小柄ながらたくましい性格の持ち主だ。

まるで、レオナール・フジタのよう。

そんなJaimeが、東京へ行く決意をしたのが、10ヶ月前。
現代アートのメインストリームも体感できて、大好きなカポエイラも学べる…
住み慣れた沖縄から出るのは勇気の要る話だったが、それでも東京を選んだ。

「今でも東京は馴染めない。でも楽しいよ。」

Jaimeは、率直にそう話した。
異国の地で、異国の言葉を使い、異国の職で金を稼ぐ。
並大抵のことじゃない。

最近、イギリス人の女性英会話教師が殺害されたばかりだが、
安全な国NIPPONでも、万全じゃないだろう。

タフな精神力と、繊細な気配り。
レオナール・フジタじゃないが、
Jaimeにも、共通するものがあると思う。

ボクの大切な友だち。

東京アート探訪 その5


国立新美術館を夕方4時に出て、
その足で大江戸線「汐留」からゆりかもめに乗り換え、
「青海」駅に期間限定で設置された移動美術館「ノマディック美術館」へ。

ゆりかもめの大きな窓から差し込む夕日と、
窓外に広がる東京湾岸の風景が、美しかった。

東京アート探訪 その4


国立新美術館は、コレクションを持たず、
広大な展示スペースを貸し出し、多彩な企画展の開催をすることで、
広く美術に関する情報提供、教育・普及につなげる
新しいスタイルのアートセンターである。

佐藤可士和氏のロゴデザインにも
そのような意味合いが込められてあった。

企画展はあいにく「異邦人たちのパリ1900-2005」しかやってなかったが、
それだけでも相当な量の展示を堪能できたわけで、
この美術館がフル回転するときには、3日ほど通い詰めなきゃ収まらないんじゃないか…
とにかくバカでかい展示空間が出来たモノだと、感心してしまう。

       ●

そんな国立新美術館の企画展ではじめて、
レオナール・フジタ、モディリアーニなど
「エコール・ド・パリ」のボヘミアンたちが一堂に介した空間を体験。
また、実際に当時の空気を伝えるムービーも確認することができた。

渡欧する行為自体が珍しい1913年に単身パリへ渡り、
第一次大戦の最中、モンパルナスで貧窮の生活を強いられ、
それでも日本人としての誇りを捨てず、
「乳白色の肌」で一躍スターダムにのし上がったフジタ。

帰国後は第二次大戦の「戦争画」に力を注ぎ、
祖国への貢献を果たそうとしたが、
日本社会には最後まで受け入れてもらえず、
晩年はカトリックに入信し、教会の装飾画を描く孤独の生涯を閉じた。

人生の半分以上をフランスの地で暮らし、
最終的にはフランス国籍を取得、日本国籍を抹消までしている。

そんな身の細る思いを貫き、
82歳まで生きたレオナール・フジタの孤独を、
「乳白色」の下地に感じた。

その繊細なタッチ、細かすぎるほどのディテール、
なによりもモノを見つめるやさしい眼差しに、心が打たれた。

この繊細な心の襞を持った人間を、
表面的な奇抜さやスキャンダラスなゴシップだけで酷評した
当時の日本美術界の狭量さに、深い哀しみを覚える。

彼はある意味、日本史上はじめて世界に認められた日本人だった。
フランシスコ・ザビエルが日本に来たのが1549年だったことを考えると、
どれだけ日本人が国際化からほど遠いか、わかると思う。

野茂やイチローの先駆者が、レオナール・フジタなのである。

異邦人たちのパリ1900ー2005

東京アート探訪 その3


その人はひょっこり顕れた。

73歳。

とてもそのようなお年を召した方には見えない。
黒のスーツを着こなし、俊敏な身のこなしで、客人を案内している。

おそらく外国からの視察だろう。
自分の創造した建築物を隅々まで案内する気持ちって、どうなんだ?

マチエールに至るまで自分の目が行き届いているのだろうか?
「ここをよーく見てください。素材が違うんです。光の加減で文字が浮き上がる仕掛けです。」
…とか、設計者にしかわからないこだわりが随所に散りばめられているのだろうか?

やがて、その人の周りを都民が囲った。

「選挙、応援してます。」「がんばってください!」
…とかなんとか。有閑マダムが笑顔で、2ショットをお願いしている。
もちろん、嫌な顔ひとつせずケータイフォトに収まるその人。

自分の建築物内である。

敵が存在するわけがない。
その威厳を、この大きな創造物が肩代わりしてくれるのだ。
「見なさい。あなたは今、ワタシが産み出した建築空間の中に居るのですよ。」

空間を産み出してしまう建築家ってなんなんだ。

権威をかざして、おのれ自身を大きく感じてしまうものなのか?
「共生の思想」を傘に、都知事選に出馬する勘違いを起こしてしまうものなのか。

自分の力で空間を産み出す経験から、「共生」の意識が芽生えたのだろうが、
そこに「奢り」を感じずにはいられない。

産み出す力が、「人間至上主義」に行き着くのは、容易に想像できる。

その人は、自らの分身である建築物のエレベーターで、高みへと上り、いなくなった。

黒川紀章 Kisho Kurokawa Architect & Associates

東京アート探訪 その2


アートトライアングルのひとつ、国立新美術館。
都知事に立候補した黒川紀章の建築物だけあって、
オープンとともに話題持ち切り。

まあ、月曜日の午後なんで、
そこそこの来場者だろう…

と思いきや、やはり居ました…有閑マダム群。
オーガンジーの洒落たシャツを着て、赤い紅。
白髪交じりの髪をボブにまとめて、シンプルに落ち着いた感じ。
中には、どうみてもデコラティブでしょ!といったお召し物の方も。
とにかく館内は、人、人、人の渦。

みんながみんな、レオナール・フジタを観に来たわけでもないだろうに。

ここに渦中のCandidate、黒川紀章さん本人が現れるとも知らず。

国立新美術館

東京アート探訪 その1


笠間の寒々しい曇り空から一転、
月曜日はひさびさに東京でも晴天に恵まれた。

当初から予定していた
東京アート探訪に出かける。

まずは東京ミッドタウン。
この日はマスコミへの内覧会。
声高に案内をくりかえす男性。

サントリーミュージアムがOPENすると、
六本木アートトライアングルが完成。

どうなることやら。
東京ミッドタウン

笠間で5年ぶりの再会 その4


笠間芸術の森公園内にある、「陶の杜」を散策。

ヒノキの杜の中に、さまざまなカタチの陶が散在する。
この写真も、そんなオブジェのひとつ。
まるで生命体の集まりのように、
風にゆらゆらと揺れる姿を眺めていると、
時間を忘れてしまう。

太陽の光があれば、どれほど楽しげな写真になったことだろう。

他に、陶の古文書が煩雑に置かれた陶の本棚や、
魔女のプラットフォームと呼ばれる旅行鞄が点在する丘、
木琴のように音階を持つ空洞の陶が並んだ陶琴と呼ばれる楽器があったり。

2005年11月に開催された同じ茨城の展覧会
「Beyond the border from here」展を思い出した。

誠に豊かな杜だった。

笠間芸術の森公園「陶の杜」
ギャラリー木葉下(あぽっけ)

笠間で5年ぶりの再会 その3


茨城県には何度も足を運んでいたが、
恥ずかしいことに「笠間」という市を今回、初めて知った。

なぜこんなに陶芸が盛んなのか?
詳しいことはわからない。

茨城県全体が、アートに力を入れているようにも見える。
⇒「決してそんなことはない。むしろ、遅れてる。」と愛ちゃんは言う。

しかし、水戸芸術館の前衛的な展覧内容や
1991年に行われたブルガリアの作家クリストのアンブレラ・プロジェクトのような
大々的なインスタレーションも、記憶に新しい。

ここ茨城県笠間市も、街と陶芸が密接に関係していて、
GWに行われる陶炎祭(ひまつり)では、220もの陶芸作家が作品を持ち寄り、
相当なにぎわいを見せるようだ。

陶芸のギャラリーが隣接する「ギャラリーロード」を見て回る。
新進気鋭の作家たちが、さまざまな種類の陶芸を展示・販売していた。
どれもこれも沖縄のやちむんとは趣が異なっていて、おもしろい。
やはり、土が違うからなのか?手にした感触からして、硬質な印象がある。

笠間芸術の森公園
クリストのアンブレラ・プロジェクト

笠間で5年ぶりの再会 その2


その後、彼女は「3ヶ月で戻ってくる」と言い残して、沖縄を離れる。

ボクたちも、せいぜい半年ぐらいで戻ってくるだろうと踏んでいた。
「南米に行ってくる!」って勇んでいったけど、行けて半年だよなあ…って。

ところが、彼女はその後4年間ものあいだ、
南米をメキシコ⇒ボリビア⇒アルゼンチンと南下し、
さらにはスペインへと足を伸ばす「流浪の旅人」となった。

時々、忘れた頃に送られてくる手紙は
写真付きで元気な姿が確認できたが、
日本語もたどたどしく、
銀細工の道売りで生計を立てていると聞くと
ジプシーさながらの姿が思い起こされ、
「ホントに大丈夫なんだろうか?」と
肝を砕いた。

     ●

実際のところ、話を聞いてみると
想像以上に波瀾万丈だったことがわかった。

もちろん、想像の域は出ない。

彼女の南米での毎日が、
沖縄でゆるゆると過ごしているボクに
わかるはずもない。

せいぜいNYでの悪戦苦闘を重ね合わせる程度だ。

「髪の毛に虱がついて、坊主になった。」
「体重が42キロにまで落ちた。」

多くは語らないが、
その実体験から出る言葉の重さに
彼女の4年間を想う。

この4年間の機微に富んだ毎日がきっと、
今後の彼女の人生を彩ることになるのだろう。

5年ぶりの再会は
そのブランクをまったく感じさせなかったし、
彼女の性格やそぶりも昔のままだったのだけれど、
時折見せる「ふっと」した表情や、瞳の奥に
刻まれた「記憶」の深さを感じたりした。

     ●

愛ちゃんは今、
南米生活で培った技術を生かして
銀細工の製作・販売を行っている。

llerva(愛ちゃんのシルバーアクセサリー)

この写真は、彼女の仕事机。
細かい作業を器用にこなして
見事な銀細工を紡いでいた。

くるみを輪切りにしたステキなネックレスを
再会の祝いにいただいた。

今もしっかり身につけている。