【村上春樹】アンダーグラウンド


「自我より大きな力を持ったもの、たとえば歴史、あるいは神、無意識といったものに
 身を委ねるとき、人はいともたやすく目の前の出来事の脈絡を失ってしまう。
 人生が物語としての流れを失ってしまうのだ」

物語とはもちろん「お話」である。「お話」は論理でも倫理でも哲学でもない。
それはあなたが見続ける夢である。あなたはあるいは気がついていないかもしれない。
でもあなたは息をするのと同じように、間断なくその「お話」の夢を見ているのだ。

その「お話」の中では、あなたは二つの顔を持った存在である。

あなたは主体であり、同時にあなたは客体である。
あなたは総合であり、同時にあなたは部分である。
あなたは実体であり、同時にあなたは影である。

あなたは物語をつくる「メーカー」であり、
同時にあなたは物語を体験する「プレイヤー」である。

わたしたちは多かれ少なかれこうした重層的な物語性を持つことによって、
この世界で個であることの孤独をいやしているのである。

【青山真治】ユリイカ


 「何が幸せか!」と、沢井はあらん限りの大声で叫んだ。
 そうしなければ云うことできないと思った。
 「そんなもんが幸せでたまっか!直樹はどこにおってもよかと。
 いつか直樹は戻ってきて失くしたもんば取り戻すと!
 そん時、お前みたいなもんが直樹の邪魔をしよるやろう。
 ばってん俺は死んでも直樹を守ってみせるけん。そいを忘れんごとしとけ!」

ユリイカ…【EUREKA】帰納と演繹に加えて、直感が知識に至る道である。
      I found it!「わかった!」とアルキメデスが叫んだ言葉。

およそこのタイトルとはかけ離れた3時間半の映画である。

冒頭の引用はバスハイジャックを受けた運転手沢井が、
同じくハイジャックを体験し、精神のバランスを失った兄妹、
直樹と梢をバスに乗せ、原点の旅に出た時のセリフ。

この映画を青山真治は中上健次へのオマージュとしている。

登場人物の心のすれ違いを経て、
口数少なくともお互いを思う気持ちが浮かび上がってくるあたりは、
兄妹が啞になってしまう設定からも、意図が伝わってくるが、

3時間半のほとんどが、その無台詞のモノクロ描写で進行する。

映像表現の常套句「独白」すら存在しない。
しかも長回しである。ワンアングルで、耐える演技。
見ているこちら側が緊張する空気。

遠景でひたすら逃げ惑う兄「直樹」。追いかけるいとこ「秋彦」。
画面を右に左に行き交う状況が、ワンアングルで10分。
窓枠から眺めているような光景として、描かれる。

BGMも入らない。モノクロ。風にそよぐカーテンと、直樹の息遣い、草いきれ。
ただ、それだけ。

しかし、その無台詞長回しの表現から、
啞になった兄妹の云うに云われぬ苦悩が滲む。

その傷みがクライマックスに表出するのが、「直樹」が殺人を企て、
沢井に引き留められるシーン。

啞だと思われていた直樹が口を開く…

 「なして、殺したら、いけんとや」
 恐怖に震え、重く淀んだ声だった。初めて聞く直樹の声だった。
 何よりそれが悲しかった。
 「いけんては云うとらん」
 そう答えるのがやっとだった。いまここの直樹に云うならそれしかなかった。
 沢井は左手を伸ばした。直樹は警戒したが、動けなかった。
 沢井はその手でナイフの刃と直樹の指とを一緒に掴んだ。
 痛みは感じなかった。直樹が抜き取ろうとするのを強く握った。
 刃が掌に食い込むのがわかった。すぐに血が滴り落ちた。

実直な沢井の行動に、涙があふれる。

 彼は娘を見ていた。昨夜のことが嘘のように思えた。
 救けてほしいと思った。ここから、この自分の眼でみているものから、
 できるなら救けてあげてほしい。おれは素直で、柔順な男でありたい。
 誰をも殺したくないし殺されたくない。誰おも殴り傷つけなくないし、
 誰からも殴られたり傷つけたりされたくない。やさしい人間でありたい。
 善人でありたい。娘は、彼の腕に抱かれている。手で、腹を触られ、わらう。
 娘の腹はいったい中になにが詰っているのだろうと思うほどふくらみ、固い。
                      (火宅/中上健次著)

人間は愛する行為で、救われる。
この映画は、それを語っている。

愛される対象ではなく、愛する対象を持つこと。

それがどれだけの励みになるのか、
登場人物の地獄の苦悩をワンアングルでひたすら描き、
台詞を極力削く中で、浮かび上がる「愛する行為」。

沢井は啞の兄妹を「愛する」ことで、なんとか救われる。

生きる意味を、どうにか心にとどめる。

エンドロール手前、妹の「梢」が山頂で初めて声を上げるとき、
3時間半モノクロだった映像が、突然カラーへと変わる。

「愛する行為」を経て、「生きる」ことを掴む…印象的なシーン。

その後読み返した中上健次の著作には、
血の繋がった者同士の愛憎劇が数多く描かれていた。
「愛する行為」が決して成就しない捻れた血縁関係。

ずっしりと重く臓物に沁みた映画だった。

【石田尚志】フーガの技法


1月13日。火曜日。
快晴でも寒いのは、なぜ?
極寒の始まりか。
明朝の凍てつく寒さを想像するだけで絶句する。

まだカラダのリズムを掴めないでいる。
4時起きは先週から体慣らしで試していたが、
緊張のためか、2度も3度も跳ね起き、眠りが浅い。

20時を回ると朝のことが気になり、カラダがこわばる。
…なにをしているのだろう。

      ●

「独座大雄峰」
これまた禅語の言葉だ。

  雄大な山の峰にて われひとり
  吹き上げる風と大気を味わう。
  その静けさの中、その光の透明な清々しさに
  ひとり座する。

  何事にも左右されぬ自分の居場所を
  自分の心に見いだした時、湧き上がる自由の境地。

  響きあう心が気高いモノと同調した時に達する神域。
  自身の中にそれと呼応する内なるモノが、きっとある。

年末年始は、樹氷で名高い山形蔵王で年を越した。
樹氷こそまだカタチになってはいなかったが、
山頂の地蔵岳は見渡す限り、白銀の新世界。

西に傾く太陽を正面に、フリーズしそうな氷点下の大気の中で、
その雄大な山々と、風雪にさらされ白く肥えた樹々の屹立する姿を見ていると、
「響きあう心が気高いモノと同調した時に達する神域」というものが、
なんとなくだが、己の心に訪れたような気がした。

…しかし、それは予兆でしかなかった。

      ●

東京都写真美術館で石田尚志の「フーガの技法」を見た。
「石田尚志とアブストラクト・アニメーションの源流」展

2001年のモノクロ映像作品。

1秒24コマの1枚1枚を手書きで仕上げ、
1コマ1コマをフィルム撮影する21分のショートムービー。

Bachの「フーガの技法」の音符の連なりに合わせて、
投影された光のフレームが二重三重に交錯し、
微に入り細に入る構造音楽の結晶が無機質に再現されたかと思うと、
その秩序を擾乱するかのように、
作家独特の「言葉にならない」情念的、観念的、有機的フォルムが、
ウジ虫の発生する腐乱した肢体よろしく、顫動を繰り返し、やがて大きなうねりとなって
理性で統御された世界を錯乱に追い込む。

しかし、そのような「蠢き」を予知していたかのように
新たな秩序が光のフレームを超えた(人知を超えた)座標軸から顕れ、
その情念的フォルムをもひとつの秩序のごとく呑み込み、
最後は光の十字架が神々しく聳立する。

     …、…、…。

ものごっつい映像体験だった。
これこそまさに「独座大雄峰」ではなかったか。

「響きあう心が気高いモノと同調した時に達する神域」

宇宙だ、コスモスだ、神だ。

すべてを凌駕し、聳え立つ十字架の、なんという救い。
このカタルシスが、音と映像で大いなる増幅を繰り返し、
脳内の襞という襞に「思考停止」を強要する。…強制終了…「シャットダウン」だ。

      ●

寝不足からか、思考がショートしている。
こちらも…「シャットダウン」…。
続きは明朝以後。

【Raymond Carver】解剖室


その頃、わたしは若かったし、人並み以上に強かった。
どんなことでも、と自分では思っていた。
夜、アルバイトで、検屍のすんだ後の解剖室を掃除していた。
解剖がすごく早く終わることもあれば、
ずいぶん遅くまでかかったりすることもあった。
そうすると、なんと、あの特別にしつらえられた台の上に
残骸が放置されていたりするのだ。
コチコチに冷たくなった赤ん坊。
ある時は、黒人の大男。白髪のやつで、胸が切り開かれていた。
内蔵がすべて頭の横の金属皿の上に並べられている。
ホースから水が流れ、頭上からはライトが照りつけていた。
またある時は、脚が置いてあった。女性の脚が台の上に。
青白い格好のいい脚。わたしは、自分の見ているものが何であるか、
ちゃんとわかっていた。前に何度も見たことがある。
それでもなお、はっと息を飲んでしまうのだ。

夜、家に帰ると妻がこう言う。
「大丈夫よ。この世が終わればあの世がある」
だが、それほど単純にわりきれない。
妻はわたしの手をとって、両手でしっかり握りしめた。
わたしはソファーにもたれて目をとじた。
何かを…考えながら。
何を考えていたのかわからない。
妻がわたしの手を自分の胸に持っていく。
その時、わたしは目をあけて、天井を見る。
あるいは床をじっと見つめる。
それからわたしの指は彼女の脚へ。
温かく、格好のよい、
かすかに触れただけで震えだし、びくっとする脚。
だが、わたしの心は晴れず、落ち着かない。
何も起こってないのに、
いろんなことが起こっていた。
研ぎすまされ、どんどん尖っていく石……生命とはそんなものか。

      ●

トムウェイツを聴いて、カヴァーが読みたくなった。

【谷川俊太郎】詩はどこへ行ったのか?


11月25日。憂国忌。
朝からしとしとと雨。
気温は18度まで上がるらしい。

本日の朝日新聞朝刊オピニオン面に
あった記事。「詩はどこへ行ったのか」。

谷川俊太郎のコメントが
いちいち響いて、

「写真があるじゃないか」と
コメントしたくなった。

【導入部】
 かつて、詩は文学系青年のたしなみであり教養でもあった。
 ところが、いまは社会の表舞台から姿を消したように見える。
 詩はどこへ行ったのか?
 現代における数少ない「詩人」谷川俊太郎さんに詩のありかを尋ねた。

【俊太郎のことば(抜粋)】
 「詩」には二つの意味がある。
 詩作品そのものと、ポエジー、詩情を指す場合です。
 詩情は詩作品の中にあるだけではなく、
 言語化できるかどうかもあやしく、定義しにくい。
 でも、詩情はどんな人の中にも生まれたり、消えたりしている。
 ある時には絵画に姿を変え、音楽となり、舞踊として顕れたりします。

    (中略)

 人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えるとわかりやすい。
 生まれる時、人は自然の一部。宇宙内存在として生まれてきます。
 成長するにつれ、ことばを獲得し、教育を受け、社会内存在として
 生きて行かざるを得ない。

 散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、
 詩は、宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。
 言語に被われる以前の存在そのものをとらえようとするんです。
 秩序を守ろうと働く散文と違い、詩はことばを使っているのに、
 ことばを超えた混沌にかかわる。

    (中略)

 デジタル情報が膨大に流れていて、
 言語系が肥大していることの影響が何より大きい気がします。
 世界の見方が知らず知らずのうちにデジタル言語化しているのではないか。
 つまり、ことばがデジタル的に割り切れるものになっているような。
 詩はもっとアナログ的な、アナロジー(類推)とか比喩とかで
 成り立っているのですからね。
 詩の情報量はごく限られていて、あいまいです。

    (後略)

      ●

社会内存在と宇宙内存在。
社会秩序の内と外。

散文は秩序内で機能し、
詩は秩序を超えたところに向かおうと欲す。

      ●

写真も秩序で満たされた「社会」を切り取ることで、
秩序の外を描こうとする表現媒体…だと、ボクは思っている。

ま、アートは「視点をずらす」ことだから、当たり前ではあるけど。

ただボクが求める写真は、言語化できない「あわい」を切り取ったものだ。
それが、宇宙との交信を掴んだもの…だと言えば、そうなのかも知れない。

生と死を超えた「何か」。
生まれる前と死んだ後をも包括した「何か」。

それらすべてを貫く流れが「宇宙内存在」であり、真実ではないか。

その「断片」が実は「日常」に転がっている。
だからボクはそれを写真で掴みたい…そう思っている。

秩序の内と外、そのボーダーに立つ。
そこから見えてくるものがある。

…今はまだ、秩序の外ではあるけれど。(自嘲)

      ●

 夏になれば 
 また
 蝉が鳴く

 花火が
 記憶の中で
 フリーズしている

 遠い国は 
 おぼろだが
 宇宙は鼻の先

 なんという
 恩寵 
 人は死ねる

 そして…という
 接続詞だけ
 残して

     (「and」谷川俊太郎)
 

【MOVIE】ANVIL!試写会


10月23日金曜日。
9月26日の朝便で沖縄を発ったから
もうすぐ東京生活1ヶ月。

引っ越し作業やら就活、ライブ撮影、
友人との再会…などとやっていたら、
もう秋も半ば。

11月って言ったら東京では冬に近い。
街ではおそらくクリスマスネオンが煌めき、
マフラーやコート姿が当たり前になる。

時間の経つのが、早い。
引っ越し祝いにもらった花も枯れてしまった。

        ●

そんな時節の合間に試写会の案内が、来た。
いやいや、正確に話せば、試写会が、当たった。

テレビのない生活なので、朝日新聞の朝夕刊を購読し、
朝夕くまなく目を通しているのだけど、
水曜日の夕刊は都内の催しがひと通り載っていて
試写会のご招待!なんてのもたくさんある。

モノは試しと3通応募してみたら、1通戻ってきた、ご招待券となって。
こんなイベント、東京ならでは!…と自転車飛ばして「ZEPP TOKYO」へ。
東京テレポートってフジテレビ本社のあたりで、
観覧車もぐるぐるとネオンもきらびやかに回ってる派手な場所。

こんなところで試写会!?と…なにか仕掛けがあるのでは?と勘ぐってたら、
やっぱり最後にドカンと驚きの出来事があったのだが、それは最後に。

「ANVIL!~夢を諦めきれない男たち」公式サイト
こんなヘヴィメタ映画に応募しちゃうあたりが、ボクなのですが、
期待以上にハラハラドキドキさせられて、しかも最後は涙が止まらない…

事実に即したドキュメンタリーでよくぞここまで序破急作れるな…と
感心していたら、やはりそこには深い友情譚があった。

人と人とのつながりって縁深いものがあるな…とつくづく感心してしまうのだけれど、
監督のサーシャ・ガバジは16歳の時にロンドンのライブハウス「マーキー」で
ANVILの壮絶なLIVEに立ち会い虜となり、BackStageにその感動を伝えようと出向く。

そこでANVILのリップとロブはこの16歳の少年にLIVEの感想を真摯に求めるのだ。

大人の扱いを受けた16歳は、リスペクトを持ってANVILに接し、
やがてアメリカ・カナダツアーのローディに迎え入れられる。

そのツアー中もリップとロブは16歳の少年を対等に扱い、
最後は演奏メンバーに加えてまでくれる。
1ヶ月ばかりのひと夏の経験は、少年にとって最高の思い出となった。

そんな愛情を受けたサーシャ・ガバジ監督は、20年後彼らに会いたいと考える。

そこで、今も現役で音楽を追求しているリップとロブに再会し、
その彼らの一途な人間性に感動するわけだ。

映画制作の背景にそのような深い友情譚があったからこそ、
この映画は人を揺さぶる感動に溢れているのだと思う。

試写会の最後は、生のANVILが出てきて、
衰えのしらぬ壮絶な演奏を披露してくれた。
…すげえ演出。立ち上がって、涙、涙。

明日から公開。
ぜひとも足を運んで欲しい。

【谷川俊太郎】世界へ!


10月15日。木曜日。
東京に来てからすでに半月。
ここ一週間は秋晴れの過ごしやすい日々。

ハローワークへ行って職探し。
木場公園を自転車で走り抜け、風を感じる。

沖縄と東京が同じ空でつながってる…だなんて。

とてもじゃないが、実感が湧かない。
沖縄の空は、もっと色濃く奥行きがあったもの。

たった1500km先に想像がいかないのだから、
人間のテリトリーなんて、たかが知れてる。

詩人を友だちに持つと、ステキだ。

あらぬ目線から生活を捉えていて、いつも驚かされる。
そして、その愛の深さに、感心する。

谷川俊太郎が若い時、こんな文章を書いている。

        ●

あらゆる人間は、常に何ものかを通して、
生き続けてゆこうとしているのである。

詩人もその例外ではない。

彼は詩を通して生き続けてゆこうとしているのであって、
決して詩そのものを求めて生きているのではない。

我々は詩を書くために生きているのではない。
生きてゆくために、あるいは、
生きているから、詩を書くのである。

私は詩には惚れていないが、世界には惚れている。

私が言葉をつかまえることの出来るのは、
私が言葉を追う故ではない。
私が世界を追う故である。

私は何故世界を追うのか、何故なら私は生きている。

        ●

人間として生きてゆくためには、
私は詩人であらねばならない。

俊太郎は書く。

詩人として、人々と結ばれ、世界と結ばれなければならない。

写真も同じだと思う。
いや、どの職業もきっと当てはまるのだろう。

詩人は「生」に恋し、「生」に愛をふりまく。

ボクは写真を通して、生き続けてゆこうと決めたのだった。
愛をもって、生活を切り取るのだ。

撮ることが、生きることと同義。

【東野圭吾】手紙


人気の流行作家「東野圭吾」の「手紙」を薦められるままに読み「犯罪者の家族
を持つ」という特異なシチュエーションに悶絶しながらも「終章」の感動的など
んでん返しに鼻腔を拡げ目頭が熱くなるのをこらえ「兄貴」が合掌しながら背中
を顫わせるシーンで嗚咽を交えて涙を落とし「なんてオレは甘ちゃんなんだ」と
相変わらずな自己批判だけでいっこうにリアリティ不足は否めず…なんて思って
いたところへ東京の不動産屋から電話が入り「いい物件が見つかったんですけど
失礼ですがただいま職は失われている感じですか?」などと慇懃無礼な言い回し
で問うたからこちらも「フリーです」と返したら「日本語でいうところの無職で
すね」と蒸し返すような回答をよこし完全にこちらを卑下してきたので自民麻生
よろしくの鈍感力で「責任力が違います」とアピールしてみたが勿論会話は成立
せず…これが社会的弱者としての扱われ方かとやっとリアリティをもって自分の
置かれている立場とその先の未来のクレジット(信用)のなさを痛感させられる。

                ●

「キミが兄さんのことを憎むかどうかは自由だよ。ただ我々のことを憎むのは筋
違いだと言ってるだけだ。もう少し踏み込んだ言い方をすれば、我々はキミのこ
とを差別しなきゃならないんだ。自分が罪を犯せば家族をも苦しめることになる
…すべての犯罪者にそう思い知らせるためにもね」

                ●

沖縄にいる己の現状が「死に体」な有り様なのはこれはもうただの怠け者だから
であって4ヵ月半も無重力状態の宇宙で仕事をこなしてきた若田さんが地球の重
力に突然押しつぶされそうになるその感覚とはその根源において意味が違うしだ
いたい宇宙になんか行ったことがないと逆ギレされても扱いに困る。

これだけ時事ネタ満載なのもTVニュースに釘付けだからであってそれだけ時間
を持て余しているからだ…と断言してしまったら「おいおい奴さんやるべきこと
は沢山あるぜぃ」と横から突っ込みを入れられること必至で図書館に行って東野
「白夜行」を借りてくるヒマがあったら自分の書物を要る要らないで選別せえ
やと怒鳴られる始末。いよいよ明日から8月。ひとりで自棄の祝杯でも挙げるか。

【保坂和志】夏の終わりの林の中


07月22日。水曜日の午前中は46年ぶりの天体ショーで夏休み気分絶好調な
高揚感に島全体が包まれている感じなんだけど、ボクの中ではすでに夏は終
わりに近づいていて勝手に感傷気分でセンチメンタル野郎ってどういうこと
?と今日も酸っぱい汗をカラダ全体でかきながら悶々とした一日を過ごす。

                ●

「人は自分のからだを、普段は「ある」と感じないものなんだよね。
胃が痛くなってはじめて、「ここが胃なんだあ」と感じるー。映画館で長く
坐ってて、尻が痛くなってきて、尻のあることを実感するー。
 たまにサッカーなんかやったらすごいじゃない。全身筋肉痛で、階段を降
りるときはこの筋を使う、椅子から立ち上がるときはこの筋を使うー、って
いうのがいちいちわかるものね。
 痛さに限らず、ーくすぐったいときも、スーっとしたときも、気持ちいい
ときも、ーその感覚っていうのがあることで、からだの部分が「そこにある」
って感じることができる。
 心っていうのもそれと同じでね、喜びとか悲しみとか興奮とか、そういう
もので自分の心が動いていることを感じるー。
 心はそういうものだっていう、錯覚を持っている人たちがいるよね。テレ
ビ観ても映画観ても、感動っていうか劇しい心の動きだけ強調したがる人と
かー。
 でもそういうことじゃなくて、喜びとか怒りとか、そういう劇しい動きが
なくっても、心というのはもっと無機的に、一定のリズムみたいなものを打
って存在しているものなんじゃないかなぁー。
 それは劇しい動きに頼っているかぎりたぶん気がつかないんだろうけど、
そっちに関心が薄れると、無機的なものの静かなリズムが前に出てくるー」
                 (保坂和志著「夏の終わりの林の中」)

                ●

太陽が徐々に欠けていくことで「光の尊さ・太陽の神々しさ」を再発見する
ように失われることで得る感覚もあるんじゃないか…といった解釈がすでに
錯覚を伴っていて、無機的な営みの中にも常に新しい何かが生まれていると
いう謙虚な姿勢こそが大事だなんてそれこそ虚無的な「ええカッコ思惟やな」
とわかったようなダジャレで自嘲する。世間は総選挙で「最高にアツイ夏や」
と今からギラギラしているけれどもこの総選挙だって08月31日に投開票だか
ら政権交代と共に夏も終わるわけで、今から秋の装いを想定した先を見越し
た動きがよろしいんじゃないか…と自分に照らし合わせたりなんかしてみる。

そういやアラーキーが言ってたっけ「事件現場を撮ればどんな写真だって訴
えかける強い写真になるんだよ。日常を切り取った写真でハッとさせられる
のが写真家の腕ってもんだよな」…これってつまりは保坂和志が描く心のあ
り方にもつながっていてボク自身も共鳴しているのはそういった本人も気づ
かないような心の揺れがしっかり表情として掴まれていて、写真として見せ
られたときに本人がハッとするような切り取り方が理想だなって思うんだけ
ど結局なにが言いたいかッて「この夏は特別な夏だな」ってことなの(笑)。