
11月25日。憂国忌。
朝からしとしとと雨。
気温は18度まで上がるらしい。
本日の朝日新聞朝刊オピニオン面に
あった記事。「詩はどこへ行ったのか」。
谷川俊太郎のコメントが
いちいち響いて、
「写真があるじゃないか」と
コメントしたくなった。
【導入部】
かつて、詩は文学系青年のたしなみであり教養でもあった。
ところが、いまは社会の表舞台から姿を消したように見える。
詩はどこへ行ったのか?
現代における数少ない「詩人」谷川俊太郎さんに詩のありかを尋ねた。
【俊太郎のことば(抜粋)】
「詩」には二つの意味がある。
詩作品そのものと、ポエジー、詩情を指す場合です。
詩情は詩作品の中にあるだけではなく、
言語化できるかどうかもあやしく、定義しにくい。
でも、詩情はどんな人の中にも生まれたり、消えたりしている。
ある時には絵画に姿を変え、音楽となり、舞踊として顕れたりします。
(中略)
人間を宇宙内存在と社会内存在が重なっていると考えるとわかりやすい。
生まれる時、人は自然の一部。宇宙内存在として生まれてきます。
成長するにつれ、ことばを獲得し、教育を受け、社会内存在として
生きて行かざるを得ない。
散文は、その社会内存在の範囲内で機能するのに対し、
詩は、宇宙内存在としてのあり方に触れようとする。
言語に被われる以前の存在そのものをとらえようとするんです。
秩序を守ろうと働く散文と違い、詩はことばを使っているのに、
ことばを超えた混沌にかかわる。
(中略)
デジタル情報が膨大に流れていて、
言語系が肥大していることの影響が何より大きい気がします。
世界の見方が知らず知らずのうちにデジタル言語化しているのではないか。
つまり、ことばがデジタル的に割り切れるものになっているような。
詩はもっとアナログ的な、アナロジー(類推)とか比喩とかで
成り立っているのですからね。
詩の情報量はごく限られていて、あいまいです。
(後略)
●
社会内存在と宇宙内存在。
社会秩序の内と外。
散文は秩序内で機能し、
詩は秩序を超えたところに向かおうと欲す。
●
写真も秩序で満たされた「社会」を切り取ることで、
秩序の外を描こうとする表現媒体…だと、ボクは思っている。
ま、アートは「視点をずらす」ことだから、当たり前ではあるけど。
ただボクが求める写真は、言語化できない「あわい」を切り取ったものだ。
それが、宇宙との交信を掴んだもの…だと言えば、そうなのかも知れない。
生と死を超えた「何か」。
生まれる前と死んだ後をも包括した「何か」。
それらすべてを貫く流れが「宇宙内存在」であり、真実ではないか。
その「断片」が実は「日常」に転がっている。
だからボクはそれを写真で掴みたい…そう思っている。
秩序の内と外、そのボーダーに立つ。
そこから見えてくるものがある。
…今はまだ、秩序の外ではあるけれど。(自嘲)
●
夏になれば
また
蝉が鳴く
花火が
記憶の中で
フリーズしている
遠い国は
おぼろだが
宇宙は鼻の先
なんという
恩寵
人は死ねる
そして…という
接続詞だけ
残して
(「and」谷川俊太郎)