【Mar_01】サウルの息子


『サウルの息子』@シネマカリテ

鍵穴から覗くような被写界深度の浅い映像。
映画なのに、シネマスコープのヨコ拡がりある画額ではなく、2:3のサイズ。

アウシュビッツ絶滅収容所の話である…といったト書きも説明文もナレーションも全くなし。
つねに主人公である“ゾンダーコマンド”サウルの顔が、画面を占めている。

移送されたユダヤ人の衣服を脱がせ「シャワーを浴びろ」とガス室に送り、
鉄扉を閉め、ガスに苦しめられ阿鼻叫喚を挙げる同胞の声を聞き、
山積みとなった裸の死体を引き摺りながら焼却炉へ運び、大量の灰燼を川へ投げ込む。

来る日も来る日も繰り返される大量殺戮。
もはや感覚を喪ったサウルの視界を表すように、映像はどこまでも曖昧で昏い。
ただひとつの状況説明である音が、鋭敏に耳に届く。

抵抗する女の声…鉄鍵の鈍い響き…死体を引き摺る音…
蜂起を企てるコマンド同志のささやき…
大量のユダヤ人を運ぶトラックのエンジン音…
灰燼にささるスコップの音…。

1944年10月の絶滅収容所内に視覚と聴覚だけが入れ込まれたような、
そんなソリッドな感覚で最後まで見入ってしまった。

全篇フィルムの映像がすばらしい。

後半、蜂起を決行し、息子を背負い逃走するシーン、
今までの収容所の陰鬱な昏い画面が一転、
緑と光と瑞々しさに溢れた絵になるのだけど、夕陽がレンズに差し込み、
「生きる」ことそのものが起ち上がるような高揚感に満たされる。

何を以て【人間】とするのか…。

塚本晋也監督の『野火』も人を食ってまで生きる兵士を描くことで
【人間】尊厳の臨界点を示した作品だったけど、

『サウルの息子』もまた、
非人道の極みにおいて【人間】であり続けるとは?どういう思考なのか、態度なのか…、
そのことを差し示すことで、日常における私たちの思考停止に警鐘を打つ。

朝、列車内にすし詰めとなったサラリーマンの様態も、
肉体感覚をオフにすることで成立している…という観点でいえば、
非人間的な営みなのだと、ボクは思う。

そのような感覚遮断が日常化すると、大切にすべき【人間】の尊厳が喪われていくのだ。

【Apr_13】熊澤大介×紺野真


『釜浅商店の「料理道具」案内』 『なぜかワインがおいしいビストロの絶品レシピ』刊行記念 熊澤大介氏×紺野真氏トークイベント

マコッティのトークショーに顔出してきました〜!

釜浅商店の熊澤さんは、声も大きくトークも的確で分かり易かった。
鉄のフライパンを購入したいと思いました。

マコッティのトークはお店で聞くのと同じトーンで、
ついさっき思いついたんだけど…的ノリがあって、
非常に面白かった〜!

なぜフライパンの厚みにこだわるのか、大きさにこだわるのか…といったまともな話から、
Uguisu開店当初のドキッとするようなエピソードまで新旧織り交ぜたトークで、

…でも特に響いたのは、

休みの日にはレシピ本をとにかく読んでネタを探している…といった努力を積み重ねている事や、
お客さんには良質な時間と空間を提供すべく毎日接客に心がけている…といった姿勢には、グッと来た。

料理は気持ち良い時間を過ごしてもらうための要素であって、
料理ありきではない…といった話は、10年の積み重ねがあって言えることだと、感動。

釜浅の「良いことわりの道具」にピッタリな紺野シェフの話でした。まさに人柄だね。

【Apr_01】神々のたそがれ


アレクセイ・ゲルマン監督遺作「神々のたそがれ_Hard to be a God

ロシア映画はタルコフスキー以来だったのだけど、やはりすべてが規定外の傑作であった。
地球史800年前の中世的粗暴と汚穢が支配する別の惑星に「観察者」として降り立った地球人が、
ロシア社会主義的ヒューマニズムよろしく理想を掲げてこの惑星の社会を【是正】しようと目論む…という、
およそロシア的射程距離な物語なのだけど、その背景やら設定は、もはやどうでもいい

ゲルマン監督の美意識が100%行き届いた200分の映像を、
ひたすら五感を開いて浴びれば、それで十分
これほどの振幅で世界を構築した映画をボクは知らないし、
他の芸術作品でも見当たらないと断言したい。

あらゆる常識的見解…知らずと規定している価値基準やら、
さじ加減、受け入れがたいと感じる醜悪度のボーダーラインなど、
すべてのものが軽く一蹴されている。
18歳に観た「エルトポ」の衝撃も、18歳的には凌駕していたのだが、
この映画体験は全方位的に極限を超えている。

「怪物と戦う者は、自分もそのため怪物とならないように用心するがよい。
そして君が長く深淵を覗き込むならば、深淵もまた君を覗き込む」
(ニーチェ「善悪の彼岸」より)

怪物そのものが恐ろしいというよりは、怪物と戦う者が自分もまた怪物となってしまうという事態こそが恐ろしい…とは、
反知性主義へと加速化する現代社会への「知識人」的警鐘だけれど、
なにより恐ろしいとボクが思うのは、ゲルマン監督によって可視化された「神々のたそがれ」的世界が、
カタチを伴った途端現実的になることで、
それが奇しくもこの2015年に映像化され公開されたという事態こそが恐ろしいのであって、
ロシアという欧米のモノサシでは測れない文化圏からの発信であるだけにいよいよ近視眼的なのである。

何はともあれ、クリエイターは必見。

【Jan_31】戦後70年の清算


   自分もふくめ、大多数の「反戦・護憲平和主義者」という立場は、
   基本的にはなんの義務も負わず、しかも心理的には他者より高みにいられる
   非常に都合のいいポジションなのです。
   しかし、現実の歴史的事実に基づいていないから、やはり戦後の日本社会で、
   きちんとした政治勢力には成り得なかった…ということになります。

            (日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか?_矢部宏治著)
  
とてもドキリとする言葉である。
しかし、この指摘に向き合わなければ、戦後70年の清算は今後も完遂されず、
結果として望むべきもない右傾化へとどんどん歩を進めてしまう…という
脳天を強打するような「気づき」を、この2冊は与えてくれた。

つまり、共産党をベースとする「反戦・護憲」思想というのは、
憲法九条を礎とする【リフレクト思想】であり、
戦後70年間の政府与党が築いてきた日米安保を主軸とする大国隷属の、
経済一辺倒路線に対する「アンチテーゼ」以上の思想を提示したものではなかった。

問題の本質には結局、全然踏み込めていない。

戦後70年の米国追従の歩みとは、実は1868年の明治維新で引き起こされたパラダイムシフトから
連綿と続く【長州藩=天皇】体制の成れの果てだということ。

この150年間、一度たりとも、この体制を転覆させることができなかった故に、
今、わたしたちはここまで来てしまった…という事実。

第二次安倍政権が強行に押し進めている諸々の右傾化への歩みの源泉は、
突き詰めれば、吉田松陰の松下村塾出身者の高杉晋作、木戸孝允、山縣有朋、伊藤博文ら
明治政府黎明期の面々が犯してきた歴史を正統化するための、世代をまたいだプロジェクトに他ならない。

全国にあまたある神社仏閣を分離統合し、天照大御神を始祖とする天皇教をでっち上げ、
地域に根ざした信仰をそのまま天皇を頂点とする信仰にすり替えることで、天皇の権力を絶対化。
その権力の傘を利用することで、国民を国力強化に統べり、帝国化へと邁進、大東亜構想を打ち立て、
台湾・韓国・満州を次々と植民地化する。そのコトの始まりが、琉球国併合による沖縄植民地化なのである。

あれから_150年。

琉球王国は一度たりとも、自国の幸福を得られていない。

いわば沖縄の歴史、沖縄の屈してきた辱めの150年がそのまま、
日本国政府→明治のあたまから続く天皇制の傘の下で仰け反っている【長州藩=天皇】体制の本性だと言える。

   琉球は日本によって幾度となく「捨て石」としての役割を負わされていました。
   それにも関わらず、琉球人は自らの犠牲がいつか報われるだろうという
   日本への根拠なき信頼感と帰属意識を持ち続けていました。
   そうした琉球人の姿は、あまりにも純朴かつ健気であるように見えるかもしれません。
   しかし、琉球人を自らと同じ日本人としか認識していない多くの日本人の中で、
   まさにその同じ日本人だとする琉球人が強いられてきた負の歴史的現実を理解している人が、
   いったいどれだけいるのでしょうか?
   

             (琉球独立論_松島泰勝著)

琉球王国は、明治政府による強制処分以前、600年以上の歴史を誇る純然たる国家であった。
琉球は「沖縄」と名を変えてから150年、常に日本国政府の犠牲となったきたのだ。

その最たる証拠が、天皇による沖縄メッセージである。

   1947年、09/19天皇の顧問寺崎英成氏が、沖縄の将来に関する天皇の考えを
   私(シーボルト:マッカーサーの政治顧問)に伝える目的で、日時を約束した上で訪ねてきた。
   寺崎氏は、アメリカが沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するように天皇が希望していると、明言した。
   天皇の見解では、そのような占領はアメリカのためになり、また日本にも保護を与えることとなる。
   (略)
   さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島々)に対するアメリカの軍事占領は、
   日本に主権を残したままでの長期リース_25年ないし50年、あるいはそれ以上_という
   フィクションに基づくべきだと考えている。
   天皇によると、このような占領方法は、
   アメリカが琉球諸島に対して永続的な野心を持たないことを日本国民に納得させるだろう。

            (日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか?_矢部宏治著)

明治から始まる【長州藩=天皇】の権力構造は敗戦によって転覆の危機を迎える。
天皇自身、己のポジション崩壊(=処刑)の危惧を抱いていたことは近衞文麿の上奏文からも伺い知ることができる。

   「残念ながら敗戦はもはや避けられません。(略)しかし敗戦は大きな痛手ですが、アメリカ、イギリスの世論は、
   いまのところ天皇制を廃止せよというところまでは至っておりません。従って敗戦だけなら、
   天皇制の維持についてはそれほど心配する必要はないと考えます。心配すべきは敗戦よりも、
   それに伴って起こる共産革命です。」

   「私が考えるところ、我が国のの内外の情勢は、いまは共産革命に向かって
   急速に進行しつつあります。国外ではソ連が異常な膨張をつづけています。(略)
   そのソ連は最終的には世界を共産主義化しようと考えていることはあきらかです。」

   「一方国内では、共産主義革命が達成されるすべての条件が、日々、整いつつあります。(略)
   なかでも特に憂慮すべきは、軍部の中の特定グループによる革新運動です。年若い軍人たちの多くは、
   我が国の天皇制と共産主義は両立すると考えているようで(略)皇族方のなかにも
   そうしたことに耳を傾けられる方がいると伝え聞いております。」

            (日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか?_矢部宏治著)

【ドミノ理論】国務長官ジョン・フォスター・ダレスが使った共産革命を畏れた言葉。
ひとつの革命がドミノのごとく連鎖を産む…として、その芽を徹底的に潰した。

この【ドミノ理論】を持ち出すべくもなく、資本主義の本質は「ノンインテグリティ(Non-Integrty)=日和見主義」であり、
硬質な思想に裏打ちされた「共産主義」や「イスラム圏」に対しては強烈な拒否反応を示す。それも嫌悪に近い。
思想による洗脳が信仰となり、【長州藩→天皇】体制を転覆させる勢力と成り得るからだ。
自分たちの改革も結局のところ信仰をベースにした大衆勢力の洗脳にあったからだろう。

大衆を取り込むこと、大多数を味方につけることが政治の方法論となってしまった。
まつりごとが、戦術主体のテクニカルな要素で大半を占めてしまった時点から、根本が狂いはじめた。

日本は、世界を知った1868年以後、世界に追いつき追い越せのスローガンに邁進してきた。
そのコンプレックスたるや、尋常ではなかった。(司馬遼太郎の世界観)
しかし1945年、その浮き足立った試みは、完全に潰えたはずであった。
日本はこのとき、全てを清算し、足元をみつめ、己とは何たるかを、沈思することから始めるべきであった。

だが、ノンインテグリティがゆえの生存能力とも言うべきか、

天皇制を傘にした長州勢力は、今度はアメリカ大国というより強靱な権力に寄生し、
己のポジションを大国隷属によって確保する手段に出たのだった。

しかも、天皇みずからがその保身を賭け、アメリカに懇願する…という、
マッカーサー元帥からダレス国務長官へ、米国軍から国務省への鞍替えもモノともせず…である。
なんという浅薄な振る舞いであろう。

その動きにただただ追従してきたのが、われわれ大衆ではなかったか。

もういい加減、自覚したほうがいい。

明治維新からの150年の歩みを再検証し、現政権のルーツを洗うこと。
タブーとされている天皇制の成立を疑うこと。
その行為が、結局は【新生ニッポン】への早道だと、ボクは思う。
タブーとは、アンタッチャブルへの予防線であり、そこにこそ、真実が隠されているからだ。

ちなみに今のニッポンの経済界の一翼を担う日立・東芝・日産は、長州出身の藤田伝三郎がルーツ。
彼の東京別邸が今の椿山荘である。泉岳寺は長州藩の菩提寺。
今の日本を賑わしているモノは、長州に源泉があると見ていい。

   
   

【Oct_10】中島興


中島興のヴィデオ万物流転@渋谷UPLINK

中島興先生とは震災の年以来の再会。

初めて先生のヴィデオ作品を観たのだけど、先生の存在そのままの映像作品群で深く共鳴した。

アフタートークで、学生時代にはホントジリ貧で、
バイト先の東洋現像所で廃棄されていたフィルムを使ってアニメ作品を作った話や、
生徒たちに度胸をつけるために新幹線にヴィデオを持ち込み作品をつくった話を聞いて、
人と人とのつながりを深く意識した先生のスタンスに、膝を打つ思いだった。

特に「MY_LIFE」という映像作品。

自分の人生を「生と死」で照らし出す試みは、右画面に息子の誕生シーン、左画面に母親の葬式シーンを並列。
生まれてくる子どもたちと、死んでゆく親たちが淡々と記録され映し出されるのだけど、
その生まれて来た子どもたちもやがて結婚し、子どもをつくり、孫が生まれ、カオスのように突然病に冒され…と、
時間の流れがぎゅーっと凝縮。世代を亘って人と人とがつながっていく様を、見事に作品にしていた。

いやしかし、火葬シーンは観ていられなかった。

病床の母親が息絶え、棺桶の中で花を手向けられ、やがて蓋が閉じられるのだけど、
トンカチで釘を打つシーンや、火葬場に運び込まれ、骨と灰だけになって出てくるシーンに、
「火葬とは、なんと無慈悲な葬送だろう」とその合理性ゆえに死者を焼き尽くすやり方に強い異和感を覚えた。

やはり風葬のように、時間とともに「死」がこの地に馴染んでいくプロセスが必要なのではないか…と思った。

来週17日もヴィデオ上映あり。
詳細はUPLINKまで。

【Oct_01】I Shall Be Released


チョコレートドーナツ」@渋谷UPLINK

「I Shall Be Released」 lyrics by Bob Dylan

彼らは相手の立場になってると言うけど
彼らは全然わかってないんだ
僕は彼らの顔をみんな覚えているよ
僕をここへ押し立てた彼らみんなの顔を
僕には僕を照らしてくる光が見えるよ
それは東から西へ沈むときさえ照らしてくれる
だから たった今 たった今から
もう僕は優しさを止めたりしないよ
彼らは彼らも誰もが守られたいんだって
彼らは誰もが傷つき自らも弱いのだと言う
僕にはそうじゃないって 違う道もあるんだと
壁の向こう側に立ちさえすれば(相手の側にたてば)
わかるはずさ
僕には僕を照らしてくる光が見えるよ
それは輝いて 輝いて
東から西へ沈むときさえ照らしてくれる
そうさ 神よ
僕はたった今 たった今から たった今からでも
僕は優しさを押しとどめやしないさ
あぁ、僕を照らしてくれる光が見えるよ
君は沈む時さえ僕を照らしていてくれているんだね
僕は誓うよ 誓う 誓うから 僕の愛おしい人(みていて)
もう僕たちは想いを止めたりはしないからね

【太田信吾】わたしたちに許された特別な時間の終わり


「わたしたちに許された特別な時間の終わり」directed by 太田信吾@東中野ポレポレ座

ミュージシャンを志しながらも、志半ばで転がるように自らを死に追い込んでしまった友人、
増田壮太が残した遺言「映画を完成させてね。できればハッピーエンドで」に憑かれたように
この映画を完成させた太田信吾監督。

「わたしたちに許された特別な時間の終わり」というタイトルは、この映画を観ることで腑に落ちた。

壮太の「ハッピーエンド」を成就するため「自殺の才能」という言葉でもってその死を肯定すべく、
監督はフィクションパートを組み込むが、死の絶対性の前にそんな小手先な行為は破綻する。
その無様な部分もすべてさらけ出すことで、この映画が伝えたい真意は強靱さを増したように思った。

社会へ組み込まれるまでのモラトリアムな時を「わたしたちに許された」と形容することで逆説的に社会の歪みを表出し、
「特別な時間の終わり」と終止符を打つことで、その状況が危機的様態にまで在ることを監督は訴えている…と。

「おおでもさ、社会の調和がいったいさナンボのもんですか?」

「タバコを深く吸い込むだけで、一日がまた流れ去ってゆく」

「どうせ気分で生きている。それは社会と矛盾する。」

死を選んだ増田壮太は、オノレの歌でその歪みを叫んでいた。
彼を自殺にまで追い込んだこの社会は、そんなひとりの死を軽々と呑み込み、「惰性」でもって突き進んでゆく。

いやしかし、その「惰性」を生んでいるのはこの社会を構成しているわたしたち一人一人の意識であって、
「調和」や「平常」を重んじるというスタンスの裏には、立ち止まって考える「勇気」をナシ崩す
「思考停止の悪・凡庸の悪」が大様にのさばっていることを自身に問い詰めなければしょうがない!…と、
この映画は身を削って振り絞って訴えているのだ。

彼の歌ひとつひとつが、その盲点を突いていて、悼む。…必見。