【Aug_12】「海辺の生と死」by島尾ミホ


『海辺の生と死』@テアトル新宿

さんざん観るべき映画を見逃してきたので、この映画だけでも…と縋る思いでテアトル新宿へ。
一挙に島時間へ引き込まれた。全篇「満島ひかり=島尾ミホ」のための映画。

1945年3月、沖縄は慶良間諸島に米軍上陸で、その後の本島上陸→南部決戦と悪夢の3ヶ月を送る…という時に、
奄美の加計呂麻島はこんなにも穏やかで、まともな島生活を送っていたのだな…という、
沖縄も上陸前はもしかしたらそれぐらい長閑だったのかしら、と羨むような空気。

8月の原爆投下の時期に至っても、オルガンを弾きながら歌う余裕がある…とは。

実際、加計呂麻島での巡り合わせは思し召しであったのかと思えるほどの、
島尾敏雄中尉と大平ミホのつながりは神秘的でさえある。
息子の伸三さんが2008年に綴った両親の話からは想像がつかないほどの神秘性である。

いや、それだけ純真な愛に没入できたからこそ
戦時を生き抜くことが出来たのかも知れない。
ミホが敏雄を守ったのだ。

それほどの深みを満島ひかりは自然体で演じていた。

これだけ運命的な時間を生きたふたりだからこそ、
死の淵を彷徨う「死の棘」の濃密な時間もあったのか…と思う。

「おとうさんの字は晩年になるに従い、
丸みを帯びて来て、
字を書く時にまで自分を偽っているようで、
私にはむしろ不気味に思えるのでした。」
(島尾伸三)

ますます島尾家を、奄美を、加計呂麻島を知りたいと思った。

【May_01】標的の島_風かたか


三上智恵監督最新作
標的の島_風かたか
を観る!

映画の日にポレポレで観てきました、三上作品。
冒頭の古謝さんの唄声でもう、怒りと涙の感情が大きく揺さぶられ、
2時間ずうっと揺さぶられっぱなしでした。

怒、怒、怒、怒、です。

沖縄を離れて8年。ずうっとずうっと怒りっぱなしですが、
平田守さんの肉薄した映像に魅入って、
高江や辺野古で座り込みしてるような心持ちで、
機動隊に対峙している自分がいました。

「エアシーバトル構想」…初めて耳にするコトバですが、
云ってることはよぉ〜くわかります。

日米地位協定によって、戦後72年間ずっとこの国は、アメリカの下に居るのですから。

領空権もなく、自衛隊の最高指揮官はアメリカという、
植民地事態なまま今まで来たんですから。

自衛隊の存在意義ってなんだと思います?

あれは米指揮の許に在る軍隊ですから、憲法九条には抵触しない…と。
そういう理屈で成立した組織なの、ご存知でしたか?
50年に警察予備隊として結成されたときの名目は、
国連安保理決議第84号により
国連軍がアメリカに委ねた統一指揮権のもと利用される
という狡猾なカタチで今まで存続してきた軍隊なのです。
(矢部宏治著「日本はなぜ戦争ができる国になったのか」より)

奄美大島から与那国島までの島嶼をそのまま主戦場にして
中国アメリカの直接対決を避け、
米従軍である自衛隊がその最前線で抵抗する…というのが、
「エアシーバトル構想」です。

今着々と進んでいる与那国、石垣、宮古、
そして辺野古の自衛隊基地整備は、
まさしく中国の標的となるべく進められているものなのです。

辺野古は普天間基地の代替施設という決まり文句は、
真実をねじ曲げた小賢しいレトリックでしかなく、
その真意は米「エアシーバトル構想」に従軍する
自衛隊のベース基地となるものです。

すべてが【国連軍】という偽善の下に
ぶら下げられた回りくどい修飾文の、
別役実の不条理劇そのままの状況。

そしてそして、これまた厄介なことに、
基地反対で座り込みを続ける山城さんたちを
蹴散らす機動隊の面々は、
米国→隷属日本政府→防衛省→警察という指令系統の傘の下で、
オノレの感情を殺し、思考を停止したロボットのような様相で、受動態として壁を作っている。

水俣病からフクシマへと連綿続くこの責任者不在の原理。
死者の声を聞いて死者と共に座り込みをし、
未来の子どもたちを悲しませたくない…という一心で、
80歳を越えて尚カラダを張っているおじぃおばぁたちに、

対峙する機動隊の若者たちは、任務遂行のためでしかない…という不均衡な構図。

生身の人間の苦しみに対して真っ向から受け止めず、
組織や制度を楯に巧妙にズラシを施し、
搦め捕ろうとする「欺しのテクニック」。

その最たる法律が【共謀罪】です

この国はホントに、ホントに、どこまで恥さらしなのか。
どこまで米国の敗者として魂を売り飛ばし続けるのか。
三上さんが映画監督になってまで全国行脚しなければ、
この不条理劇の狡猾さが伝わらない…
そのことが何よりも哀しいことだし、

ひとりでも多くの人が、
この詐欺師ニッポンの国家の成り立ちに、
この映画を通して気づいて貰えれば…と、
ただただ願うだけなのです。

怒、怒、怒、怒…。

【Apr_01】家は希望の港じゃないHome is not a harbour


たかが世界の終わり
directed by Xavier Dolan

My home has no door
私の家にはドアがない
My home has no roof
私の家には屋根がない
My home has no windows
私の家には窓がない
It ain’t water proof
どんな水も通してしまう
My home has no handles
私の家には取っ手がない
My home has no keys
私の家には鍵がない
If you’re here to rob me
私を奪いに来て
There’s nothing to steal
盗むものは何もないけれど

A la maison
自宅が
Dans ma maison
私の家が
C’est là que j’ai peur
私は家が怖いの

Home is not a harbour
家は希望の港じゃない
Home home home
家、それは、それは、、
Is where it hurts
傷付けるもの
My home has no heart
私の家には心がない
My home has no veins
私の家には血管が流れてない
If you try to break in
割って入ろうものなら
It bleeds with no stains
汚れること無く血を流すわ
My brain has no corridors
私の脳には廊下がない
My walls have no skin
私の壁には肌がない
You can lose your life here
ここで人生朽ちていくのよ

Soundtrack:
Juste la fin du monde
Camille – Home Is Where It Hurts

【Apr_01】牯嶺街少年殺人事件


牯嶺街少年殺人事件@新宿武蔵野館

4時間ものの映画。
1961年の混沌と不安が渦巻く時代の台湾を舞台に、
少年たちが徒党を組み争い、殺人を犯すまでの実話を基にした物語。

まずもって情景が美しい。
日本統治時代の日本家屋と裸電球、
開けっ放しの窓をすり抜ける風、
舗装されていない土道に側溝、
鉄製ブレーキの自転車…。

しかし展開する物語は穏やかではない。

国民党独裁に伴う本省人と外省人の争いやら、
本国共産党への軍事圧力で台湾自体のアメリカ支配も強まり、
ドルが大量流入するなど、政治が不安定であると、
思想統制や監視、吹聴、密告などなど、生活レベルでの些末な争いも絶え間なく。

当然コドモ社会においても親世代同様、
党派が乱れ、鉄砲や日本刀(統治下の名残)など
物騒なものが手に届く範囲にあり、
その結末に殺人事件が起きる。

それらの出来事をヤン監督は、ある種不親切な手法で紡いでいく。

ナレーションは入らず、フレーミングも照明も客観的で説明不足。
できるだけ感情移入をさせまいと一歩引いて並列に落とし込んでいくから、
登場人物の背景も探り探りだし、あまりに暗くて
何が起こっているのか分からないシーンまである。

それは「一つの映画は世界そのものである」とするヤン監督の思想…の顕れであり、
世界はその細部に宿ることへの証左なのかもしれない。

とにかく言えることは、
私たちが日々経験する出来事はすべて、
私たち自身が選んだ結果であり、
その起因は私たち自身にある…ということ。

1961年の混沌とした台湾の政治情勢によって、
ひとりの中学生が女学生を刺し殺すのであり、
思想統制によって家族の気持ちがバラバラに崩れ落ちるのだ。

私たちが今生きる現代社会においても、
日々必然として事件が起こり、事故が起きる。
それをあちら側とこちら側で分断し、
関係ないを決め込んでみても、
その因子は自分たちの中に抱えているのだ…ということ。

オウム事件しかり。安倍政権しかり。

「社会は思想が物化した成果物」
と云ったのはハンナアレントだけど、
人々の思想そのものが言語化され言葉で発せられる前から、
人々は空気で選択し、無意識がカタチとなって顕れる…、それが社会だと。

その恐怖を体感した4時間だった。
エドワードヤン監督の映像言語の強靱さには、驚かされた。

【Feb_02】なりゆきな魂、瀬々敬久監督。


瀬々敬久監督『なりゆきな魂、

どこにも収斂され得ない周到に計算された映画。

これは舞台では成立しない、映像だから見せられる作品だと。
演劇にある最大公約数的にイメージを集約していくような展開に馴れてしまうと、
いつの間にか想像力が貧困になっていく。そんなコトを考えさせられた。

なんともチープな映像…決してセオリー通りに落とし込まないフレーミングとか、
彩度や明度やコントラストをいじらず、整理しない手法とか、
「うわ、どこまで計算ずくなの?」と思わせる。

それもこれも、ネット全盛で、ビッグデータとかAIとか統計学的な視野に、
思考もイメージも収められてしまっていて、オノレの中に存在する、
零れた…滴るような“野生”とか、未分化な人間本来の領域がどんどん
葬り去られて行ってる趨勢へのアンチテーゼなのだと。

社会に飼い慣らされてしまっている人間の、魂に訴える作品。
アマヤドリ『銀髪』じゃないけど、
ボクの中ではじゃがたらの江戸アケミに直結するのよね。

理性、理性、ってそんな枠組み、詐りでしょうが。

【Dec_26】1/10Fukushimaをきいてみる_2016年版@サンモールスタジオ


1/10Fukushimaをきいてみる
_2016年版@新宿サンモールスタジオ

無料上映会に行ってきました。

10年をスパンで「福島の今」を毎年聞いて回り、
その現実を少しでもシェアできたら…と始まった企画。

今回はその4年目。回を重ねるごとに、
とても10年ではこの現実は語り尽くせない…と身悶える
監督はじめ作り手側の苦悩が伝わってきた上映会でした。

非常にデリケートな部分まで踏み込んだ内容なので、
アナログな手法で手渡しにして「福島の今」を伝えたい…という、
監督の実直な気持ちに深く共振し、であるからこそ、
できるだけ沢山の方々に観てもらいたい…と、思う映画です。

安保法案、憲法改悪、成長戦略、五輪開催と、
ひたすら前へ前へと憑き動かされているこの国ですが、
そのすべてのしわ寄せがここフクシマとオキナワに集約されている現実。

遅々として改善されない生活と向き合い、
それでもなんとか1ミリでも良い方向へ向かおうとする
愚直なまでの人たちの生き様を、
この映像から受けとってもらいたい。

本日も無料上映やってます。
2017は順次全国で上映会予定。
03/20には吉祥寺であります。
是非とも足をお運びください。

【Nov_01】西川美和監督新作『永い言い訳』


西川美和監督新作『永い言い訳

「人生は、他者だ。」

この印象的なフレーズが、終盤のシーンで目に飛び込んでくる。
正直、つかみかねた。
人生が他者?どういうことだ?
もやもやしたまま映画館をあとにした。

そして、片岡義男著『ジャックはここで飲んでいる』の書評に目が止まった。

「人生は、実は自分の外にある。人生は何もかも、
すべて自分の内側にある、と思っている人がじつに多い。
したがってうまく行かない人生が、じつに多い。
人生が自分の内側にあると思うな。」

「つまり人生とは関係の作り方とその維持の仕方にほかならず、
自分を外から観察しようとする意志と行動によってのみ、新たな局面が訪れる。」

『永い言い訳』はまさに、人生を手玉に取っていたタレント小説家が、
自分の内側(内面)ではなく、外側(事故・他者)に翻弄され変容していくさまを
1年の季節を巡ってていねいに描かれた映画だ。

その1年の締め括りとして作家である主人公が行き着いたコトバ、
それが「人生は、他者だ。」というフレーズ。

自分ひとりでは生きられない、他者の存在なしには生き仰せられない…そのことに気づく物語。
中盤、同じく妻を喪った大宮陽一とその息子の間で起こる諍いも、
双方にこの「他者」を気づかせるもの。

考えてみれば、人生は「他」を知ることで「己」を豊かに育むプロセスであると言えるのかもしれない。

写真家上田義彦氏の繊細なメインヴィジュアルが美しい。
全篇16mmのフィルム映像も生々しい質感だ。

そうそう、写真もまた、他者性を多分に含んだ表現。

他者との接触なしに写真は成立し得ない。
世界と対峙し客体化したときに初めて「撮る」行為が屹立するからだ。
つまり、ボクの写真もまた、人生とともに豊かに成り得るということなのかも知れない。

震災後5年を経て結実した西川映画。この到達点は尊い。

【Jul_30】世界全体が、歯止めのかからない競争地獄に陥ってしまっている。


小栗康平コレクション第4弾『眠る男』

前田…
近代の富というものは、国家ぐるみで追求して、国民全体でできるだけ金持ちになろうということですね。
経済成長というやつ。それは、最初のうちは世界の中でごく一部の国家や社会が追求していて、それ以外のところは
はじかれていたんだけど、今や世界中が近代の富を公然と追求している。

どんな政治体制であろうと国家は近代の富だけを公然と追求する。

そうなると、もう互いに奪取しあうしかない。この競争ですね。この競争があまりヒドイものにならないように
約束を決めようっということで、貿易協定なんんかがあるんだろうけど、そんなことじゃこの競争は止まらない。

世界全体が、歯止めのかからない競争地獄に陥ってしまっている。
それをグローバリズムとか云うのでしょう。取り返しのつかないことになると思いますよ。

小栗…
国民国家などという国家形態はたかだか二百年にもならない。
国が単位で争いを起こし、戦をし、戦にまで至らないとしても抑止力と称して殺戮兵器を準備し続ける。
これらはみな、国民国家という枠組みの弊害です。
そう考えると、江戸時代の幕藩体制って豊かだったなあと思うよね。(笑)
おらが村がクニなのであって、国家なんて知ったこっちゃないもんね。

(小栗康平コレクション4『眠る男』_小栗康平×前田英樹対談より)

【Jul_30】小栗康平コレクション4『眠る男』


小栗康平コレクション第4弾『眠る男』

オリジナル脚本
製作:群馬県
出演:役所広司、安聖基(アン・ソンギ)、クリスティン・ハキム、他

中之条は伊参スタジオで、長年の友Jaime_Humphleysが作品を制作したことがキッカケで
小栗康平監督の『眠る男』オープンセットと運命的な出会いをし、それ以来いつか観るぞと誓っていた作品。
(写真はそのときの模様。12_Oct.2015_Jaime_Humphreys「Lie of the Land」@中之条ビエンナーレ伊参スタジオ

想像以上に見応え十分の、実写版「トトロ」とも言える世界観でした。

主人公はタイトルどおり『眠る男』。
山男で世界の山々に精通した「拓次」がなぜか地元群馬の山奥で滑落し、意識不明の状態で「ワタル」に発見される。
「ワタル」は知的障害があるが、オカリナを見事に奏でる男。若き小日向文世が演じている。農村の年老いた父母の許で、昏々と眠り続けている。
その謎めいた事故で『眠る男』となった「拓次」を中心に、つながりのある人々が「拓次」との接点を語る間接話法の映画。
つまり、主人公である「拓次」は何も語らず、全篇を通して横たわっている。その存在感が、素晴らしい。
その主人公の「不在」を話の中心に、「同級生」たちやスナックで働く「南の女」たち、
「水車の老人」「自転車置き場のオモニ」「父と母」「親戚の人」たちが、「拓次」を語ることで映画は進行する。

  『眠る男』のプロットは、厳格なまでに単純なものです。
  拓次という山に魅せられた青年が、谷で意識を失って発見される。
  発見したのは、ワタルです。病院で治療したけれども、意識は戻らず、
  治るあてもなく家に戻り、寝たきりで両親の世話になっている。
  あんなに山に精通していた拓次が、なぜ谷に落ちたのか、そもそも彼は何をしにそこへ行ったのか。
  (中略)
  映画内で起こる最大にして唯一の出来事は、拓次の死でしょう。
  死なれてしまうと、それじゃあいつはどこに行ったのか、今どこにいるのか、という疑問が、
  新たに人々のなかに湧いてくる。湧いて止まないものとしてね。
  そこに、この映画が差し出すテーマはあると思う。つまり、
  死ねば人はどこへ行くのか、です。
  たぶん、拓次は森に戻ったのでしょう。けれど、その森とは何か…ですね。
  
(談 小栗康平)

この不在感が、この映画の核心である。だから、画額は常に遠景ショットだ。
人物が非常に小さい配置で、その全景となる群馬の森や町を主体的に扱っている。
そのショットを監督は、「述語が主語を包摂する」という言い方をしていた。
人物は「場」に包摂されている…ということ。
引きのショットによって、写り込む様々な事象、その存在をすべて肯定する、信頼する。
そこからこの映画は成立しているのだ…と。
群馬の山並みと、群馬の町の営みと。そういった遠景に配される人々の生活と。
それらすべてを画面に入れ込むことで、包摂する世界全体を全肯定する。
「述語が主語を包摂する」とは、そういうこと。この世界を信頼するところから、この映画は始まるのだ。
 
  本当に大事なことは肯定形でしか伝わらない。
  主語を強調することで、こんな自分ではダメではないか、そんなお前ではダメではないか、
  となって、狭いところへ陥ってしまいがちなんですが、
  そこを抜け出すための…試みでもありました。
 (談 小栗康平)

人間の背丈を中心としたフレームではない映画。樹木や森のスケールを基準に撮られた映画。
だから、後半「上村」は「拓次」に問いかける。
  
  人間って、大きいんかい?小さいんかい…。

後半、『眠る男』の拓次の魂が、小さな竜巻と共にカラダから出て行くシーンがある。
そこに居合わせた人たちが、家中「拓次」「拓次」と魂に呼びかけ、【魂の読み戻し】をする。
しかし、拓次の魂は戻らない。
その戻らない有り様を、巧みなロングショットで…無人の温泉場や…無人の水車場を撮ることで…表出する。
    「魂が森に還っていく」
生まれて、そして死んで…の生の循環に、全景としての里山の風景が、在る。

最後に、山間の開けた場所で人々が野外能を鑑賞するシーン。
生と死を「橋掛かり」する能楽を持ってくることで、この世界は決して確固としたものではなく、
まして人知で計り知れるほど矮小なものでもなく、生死一如なもの。自然とともにあるもの。

人の枠組みにすべての事象を合わそうとするのではなく、
(そういう論理を強要しているのが【社会】という存在)
感覚を研ぎ澄まし、自身が感知できる領域を押し広げる。
それが引いては、【世界】を知るということ。

「わたしが在る…そのことが【世界】のはじまりである」

最後に小栗監督のコトバで締めたい。

    映画が人類に向かってできる最大の貢献は、
  〈在るものへの信仰〉を直接に、一挙に取り戻せることだと思います。
  そういう映画が生まれ続けることは、人類の死活問題と言っていいくらいだ。