オキナワの結婚式


人と人との縁を形にした宴が、まさに結婚式。
この2月4日、何年ぶりかでオキナワの結婚式に出席する幸せに与かった。

総勢300人はくだらないだろう、人と人とのつながりで集まった人たち。
それぞれが、それぞれの思いで、ふたりの結実を祝福している。

3時間半にも及ぶ祝いの宴は、そこに居るだけで幸せな心持ちになった。

お互いの系譜が長い年月をかけて、巡り合い、関わり、結実する。
まさに「因縁」以上の言葉では説明がつかない関係性の成立だ。

宴の締めくくりはカチャーシー。舞台では、あらゆる縁が巴のように絡み合い、
祝福の舞で、主役のふたりのこれからを素直に喜び、称賛している。

1年前のちょうど今頃、自分もその祝福の輪の中心にいたんだ…と考えると、目頭が熱くなった。

長浜大樹くん、愛実さん、ご結婚おめでとう。いつまでもお幸せに。

「こと」は「もの」によって起こり、「もの」は「こと」によってつくられる。


京都法然院の貫主、梶田真章の本「ありのまま」を読んだ。
毎日の生活をていねいに、楽に生きるためのヒントが詰まった本だ。
「散歩をする」「眠る」などの営みの中にある意味を
あらためてわかりやすく説いてある。

その中で非常に響いた一節が2つある。

○「縁」あればこそ
○ 任せきる

ひとつは、人と人との関わり合いについて。

わたしという存在は、父と母の因縁によって生まれてきているのであって
すべての存在はその関係性の中で成立しているのだ…

だから、「わたし」は自立しているのではなく、
まわりのいのちとの関わりの中で生かされているのだ…
確固とした「わたし」は実は存在していなくて
日々の移ろいやそれぞれの縁によって変化し続けている。

自分らしさを追い求め、躍起になったり、
その関係性が破綻したことで、自分を追い込んだり、
「想定内」「想定外」と自分の物差しですべてを決め込まない。

この世界には理解の及ばない、知恵の届かない「何か」があって
そういった大きな流れの中で生きているのだから、
まずはそこをスタートにして、大きくとらえた方がいい。

ひとつは、自分自身をみつめることについて。

理解の及ばない部分がある…というところから出発すると
わかりやすいのだが、自分自身の内にも制御できない部分があって
その部分を解放してやることで「他力本願」の心が得られると…

「南無阿弥陀仏」とはまさに「他力本願」の極意を言葉にしたもので
「南無」とは任せる、「阿弥陀」とは「量り知れないいのち」、「仏」は「悟り」の意で
「すべては阿弥陀さまにお任せします」という意味になる。

小さな自分を超えた、大きな存在があるのだから、
あなたのすべてを阿弥陀さまに任せきりなさい…と説いているのだが、
すべてを任せるには、自分自身をしっかり見つめることが必要だ…という逆説になっている。

このふたつのプロットは、同じところにたどり着く。
「生を謳歌しなさい」「生きていることをもっと悦びなさい」
あなたの存在自体が、すばらしいことなのだから、ありのまま生きなさい。

毎日を分刻みで忙殺されている身には、複雑な思いが巡るが、
そんな毎日のいらだちもすべて収斂される大きな懐がこの本にはある。

もうすぐ春ですね、恋をしてみませんか。


本日、オーディションを行った。
TVCMの重要な役どころである女の子の選出だ。
春商戦のキャンペーンとして、
キャンディーズの「春一番」をアカペラで歌ってもらう。
♪恋をしてみませんか?と歌ったところで、
気になる異性とすれ違い、はにかむ感じを演技してもらった。

14歳から21歳の5人の女性が
殺風景な会議室に集合した。

背広を着たむさ苦しいサラリーマンと対峙して
彼女たちは、何を感じていたのだろう。

自分をアピールすることで精一杯…といった感じだろうか?
こんなときは相手を道ばたの石ころだと蔑んで見てもらった方が
いい演技ができる。

変に媚びようと欲を出してしまったら、緊張してしまうのだ。

監督とボクは、オキナワ版宮崎あおいを期待していた。
その場にいるだけで、空気を変えてしまう娘。
どんな理屈もいらない。その存在が、すべてだ。

5人の女性は、ほとんどがCM未経験者。素人と言っていいだろう。

カチコチの自己紹介を終え、それぞれが演技をする出番となった。

…いきなり一人目から、…来た。
………………………………驚いた。

その場の空気を変えるとは、こういう娘のことを言うのだ。
そんな逸材だった。
つまりは、自分の世界をしっかり持っているから、空気が変わるのだろう。
想像力のタマモノ。

春の気持ちよい朝、「春一番」を口ずさみたくなって、
大声で歌っていたら、気になる異性とすれ違った…。
…そんなシチュエーションが、彼女の頭の中で再現されたから、
その場に居合わせた、むさいサラリーマンも共演者になってしまったのだろう。

異性の背中を追いかけようと…、
…振り向いた、その横顔を、春一番が駆けめぐっていった。

彼女たちのコンポジットには
それぞれの身長とスリーサイズが記されている。

たった3センチ、4センチの違い。

メジャーで測れば、それだけの違いでしかない彼女たちの差異は、
空気を共有することで、とてつもない差となって顕れる。

ほんの5分。

それだけの共有で、完全に彼女の世界に引き込まれている自分がいる。

人間存在の不思議を想った。

イエスの血は決して私を見捨てない。


「イエスの血は決して私を見捨てない、
 決して見捨てない、
 イエスの血は決して私を見捨てない、
 決して見捨てない、
 そのことを私は知っている、
 イエスは慈悲深いってことを」

浮浪者が旋律をつけて、イエスを想う賛美歌を口ずさむ。
永遠とループされる、その旋律にストリングスが絡んでくる。

作曲家ギャヴィン・ブライアーズの顔に、
五線譜が投影された印象的なジャケットのこの楽曲が、
頭の中でよみがえってきた。

クリスマスイブのこの日、教会には大勢の敬虔なるカトリック教徒が
ひざまずき、イエスの誕生を静かにたたえていた。
フィリピン人の80%はカトリック教徒。
まさに国民的なハレの日が、このクリスマスという訳だ。

Gavin Bryarsのこの楽曲は、永遠75分、浮浪者のリフレインに終始する。
「イエスの血は決して私を見捨てない」「イエスの血は決して私を見捨てない」…

その切実なる心情が、迫ってくる75分である。
盲目な宗教心が、その人の一生を恍惚な領域に押し上げてくれる。
曇り一つ存在しない、臨界を超えた光に包まれ、昇天する。

しかし、教会を一歩出ると、見事なミクスチャーワールドが開かれていた。
暗黒とも思えるような、絶望的なシーンに目を疑った。
…汚穢にまみれた子供が、ビニール袋を口元に押さえ、シンナーで昇天している…。

純白の牧師と、暗黒の浮浪者。

盲目の宗教心がなければ、成立しえないような
不均衡を超越した世界。

でも、ふと我に返る。

こんな夜中にパソコン相手に言葉を紡いでいる、オレはどうなんだ?
ネットゲームに夢中になり、夜を明かして出勤するサラリーマンはどうなんだ?
どこかで「イエスの血は決して私を見捨てない」と唱えていないか?

Jesus’ blood never failed me yet

Never failed me yet

Jesus’ blood never failed me yet

Never failed me yet

Jesus’ blood never failed me yet

There’s one thing I know

For he loves me so…

Keep on Rolling!


本日より、なんとか再開。
想定通り、Macの全データは跡形もなく消失。
アプリケーションからATOKまで
インストールし、できるだけ前回の環境に
近づけようとするも、なにかが違う。

苦しみもがきながらの再スタートとなる。

先週土曜日で
「はじまりの一枚」展も終了し、
完全な独り立ちをすることに。

まずは、徐々に、徐々に、
今までのフィルムを再度確認し、
データ化することを進行。

と同時に、できる限りシャッターを切る習慣付け。

50年代の二眼レフ、Rolleiflexを購入予定。
写真のトーンもスタイルも少しずつ変化するかも。

Keep on Rolling!2006年をこうご期待!

Sudden-death その2


ライブドアショック。
この一週間の陥落は、まさに霹靂の思いだろう。
堀江貴文も犯罪者扱いとなってしまった。

彼の右腕とされていた人物が
ここ沖縄で自殺をしている。

なぜ、沖縄で?

しかもチェックインしたホテルは
国際通りの外れにある
寂れたカプセルホテル。

ビジネスホテルの乱立で
ここ沖縄でのカプセルホテルの需要は極めて低い。
おそらく那覇市内では、ここだけかもしれない。

偽名を使い、寂れたカプセルホテルに入り、自殺を諮る。
なんとも背筋の凍る思いである。
・・・彼をそこまで追いつめたのはなんだったのだろう。

昨日の夜中、テレビ番組で劇団四季のドキュメントを観た。
大日本帝国のBC級戦犯を扱った演劇「南十字星」の話だ。

フィリピンやインドネシアなど
アジア各国で侵略を進めた日本軍の現場指揮官が、
敗戦ののち、軍事裁判で即刻死刑を言い渡される。

誰かが背負わなければ、前に進まない状況とは言え、
突然、絞首刑を言い渡された軍人たちの焦燥感は計り知れない。

国を呪い、その不遇を嘆いたことだろう。

それでも彼らは日本の未来を思い、
復讐心を捨て、その運命を受け入れようとする。

胸が熱くなった。

それぞれのSudden-death。
ひとつの命が断たれることのエネルギー。
その因果は違えど、断たれた事実は変わらない。

メメント・モリ。

・・・「死を想え」。

命はどこまでも尊い。

Sudden-death


金曜日の夜に、愛用のMacが、突然、立ち上がらなくなった。
見事な突然死だ。

今まで取り込んできた写真データも
仕事のデータも、メールのアカウントも、
すべてがふっとんだ。

こんな不条理があっていいのか・・・・。

コンピュータ社会にどっぷり漬かっていた証拠。
元々カタチのないもの・・・と高をくくってしまえば
案外、すんなりと事は進むものかもしれない。

しかし、周りはそれをゆるさない。

メールがバンバン入ってくる。
催促の電話や進捗を伺う電話がかかってくる。

サイバー社会にしっかり組み込まれ、
対応ができなければ、たちまちサイバー不具者扱いである。

こちらも途方に暮れてしまう。

ひたすらMacの復活を願うしかない。
しかし、ゼロからの再構築は根気のいる作業。
今から、ゲッソリ。

・・・・・。

写真は、大阪の地下鉄淀屋橋駅。
あまりにサイバーなデザインにびっくり。
ヨーロッパを彷彿とさせる空間である。

しばらくblogの更新はできないかもしれない。

楠葉センチュリータウン


大阪府枚方市楠葉花園町5-5-301。
楠葉センチュリータウン。

小学校2年生から中学2年生の夏までの6年間、
ボクはこの6棟もある15階建ての集合マンションで暮らしていた。

もう25年も前の話である。

当時としては、かなり画期的な集合住宅だった…と
今改めて、思う。

1棟に300世帯。それが6棟。
なんと1800世帯以上の家族が
限定された地域に住んでいたのだ。

各棟には集会所が設けられ、
各世帯ごとの駐車スペースと物置スペースが確保されていた。
6棟間の中央には時計台があり、
野球やサッカーを楽しむ運動場が配され、
その公園を囲むようなカタチで水路が巡っていた。

…見事な集合住宅だ。

このマンションのおかげで、
近くには小学校と中学校が建立された。

楠葉西小学校と楠葉西中学校。

マンションに住まった家族のその多くが、
社宅として借り受けた転勤族であり、
さもなければ、パイロットや医者、弁護士などの
高給取りであった。

1800世帯の多くは、
当時を象徴する中流階級であったように思う。

子供たちは連れだって同じ小学校に通った。
同じような境遇だから、すぐさま仲良くもなった。

同じ通学路を行き帰り、
同じ遊び場で野球をし、
同じような習い事で席を並べた。

箱庭のようなタテに密集した空間。
15階から見下ろす情景は、子供心に異様さを覚えた。

向かいの棟に並ぶ300世帯の窓、窓、窓。
思い思いのカーテンが、それぞれの個性を演出している。
300世帯それぞれの独立した人生模様が描かれ、
それぞれが確立した世界を形成している…はずだった。

しかし、ハチの巣穴のように並列した300もの世帯を
向かいの棟から眺めていると、違った感慨を覚えた。

…ブロイラー飼育のニワトリたち。

高層マンションにツキモノの飛び降り自殺が、
この場所でも後を絶たなかった。
ひどいときには、日を重ねて起きることもあった。

集会所脇の茂みに、
自殺者と思われる人型のカタマリが
しばらく放置されていることも、しばしばあった。

高度成長期後に建てられた集合型マンション、楠葉センチュリータウン。

ブロイラーのように集約され、囲われた1800世帯の家族は、
成長を約束された経済社会のなかで、明日を夢見て、
それぞれが楽しく生活していた…はずだ。

…25年も前の話である。

現在の1800世帯の家族は、この箱庭の中で、
何を思い、何を掴んだのだろう。

雨の金閣寺


そのとき金閣が現れたのである。

雨の京都で訪れた金閣寺は
予想以上の存在感で、
霞む視界に金色の輝きを湛えていた。

25年ぶりに見る金閣。

息を呑んだ。

それは私と、私の志す人生との間に立ちはだかり、
はじめは微細画のように小さかったものが、みるみる大きくなり、
私をかこむ世界の隅々までも埋め、
この世界の寸法をきっちり満たすものになった。

巨大な音楽のように世界を充たし、
その音楽だけでもって、
世界の意味を充足するものになった。

時にはあれほど私を疎外し、
私の外に屹立しているように思われた金閣が、
今完全に私を包み、その構造の内部に私の位置を許していた。

…そのままだ。

溝口の心をわしづかみにし、
その美しさゆえに現実とのはざまに常に介在した
あの金閣が、そのままの姿で、そこに、在った。

…これは現実なのか。

世界を変えるのは、行為ではなく認識だと
溝口は炎燦めく金閣を眺めながら、想った。

…その存在を眼前にしながら、私もまた、
私自身を内包する世界の再認識を迫られている…と想った。

ギルドギャラリーでの展覧会


1月14日より大阪のギルドギャラリーにて
大森克己ワークショップの集大成、
「はじまりの一枚」展覧会がはじまった。(28日まで)

大阪の御堂筋を少し入った「船場丼池ストリート」にある
ギルドギャラリーは、2階に渋いJAZZのレコード店を持つ
マーメイドビルの4階にある。

1階のそば屋をそのまま中に入り、
奥の階段を上がりきったところで広がる白い空間。

受講生13人の作品が横一列、並列に展示されていた。

やはり、こうやって人様の前に露出されることで
見えてくる部分は大きい。
展示の領域に入った作品は、キビシイ状況に置かれながらも
潔く自身を提示していた。

展示することの意味を改めて感じた。