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高架下の誘惑


高円寺北四丁目27-6。
これが、当時ボクが過ごした社宅のアドレスだ。
細い道を挟んで向かいは阿佐ヶ谷になる。

中学生、高校生とボクは愛犬ダンディとマリーを連れて
朝夕さらに夜と、ひんぱんに散歩に出かけていた。

今にして思えば、この6年間の散歩が、
ボクの性格と想像力を見事に形成したように思う。

その時、ボクはよく中央線の高架下へ向かった。

昼間でも夜でも一様に暗躍としていて、
何かしらの蠢きと企みを放っている、高架下がボクは好きだった。

太陽光が遮断され、軒の隙間から入り込む一条の光が、
劇的な空間を演出したりするのを眺めるのが、好きだった。

逆光にはためく洗濯物と安普請のアパートにドラマを感じて、
高架下を行き交う、一癖も二癖もある風貌の人々の生活に思いを馳せた。

そんな雰囲気そのままに、高架下の古本屋で、かび臭い文庫本に手を伸ばし、
淫靡な世界にどっぷり浸かるのが、ボクにとっての快楽だった。

高円寺北中通り商店街


高円寺に降り立った。
中学2年から大学4年、その後の社会人2年をこの土地で過ごした。
11年間…人生のおよそ1/3をこの地に費やした格好だ。

多感な時期に、さまざまな事象をスポンジのように吸い込んで
ボクは大人になっていった。
高円寺には、そんなボクの源泉が豊富にある。

古着屋、中古レコード屋、ライブハウス、ゲーセン、
中古本屋、高架下、客引き、ピンサロ、沖縄料理屋…。

降り立って、あきれた。

北中通り商店街の入り口は、パワーUPしていた。
かつてのピンサロは、キャバクラと名前を変えて
軒を連ねていた。見事に奥行きと彩りを深めていた。

壮観だった。

高円寺だ…と感入った。

とにかく餃子。


宇都宮にはCI(コーポレイトアイデンティティ)全盛の
1988年に一度、足を運んでいる。

その時は看板業者のアルバイトとして
宇都宮にある銀行のCIを全面変更する大工事に参加した。

大きな袖看板を4tトラックに括り付け、
東京から高速を飛ばして、宇都宮の中心に入った。

銀行の閉店後、袖看板の取り替え、
ガラス面の意匠シート貼り替え、入り口真鍮サインの付け替え…と
作業は明け方まで続き、宇都宮の餃子は遠のいた。

作業も終盤にさしかかり、眠気も頂点に達した頃、
ガラス面のカッティングシートを貼り替え中に、
ボクは大きな失態を演じた。

カッター作業で小指を切り落としかねたのだ。
夜中に見る鮮血は、若輩にはきつすぎた。
自分に対して無性に腹が立ち、ズキズキ痛む小指を憎んだ。

結局、悪態をついたボクを除いたメンツで
職人たちは宇都宮の餃子にありついた。

ボクは4tトラックの助手席で、突っ伏したまま
恨めしく餃子の赤い看板を眺めていた。

宇都宮の餃子。

着いたら、とにかく餃子にありつこう。
…新幹線の車中でそんなことばかり考えていた。

宇都宮…朝の出勤風景


朝の7時半。
JR宇都宮駅に降り立つビジネスマン、学生を待ち受ける。

太陽がしっかりと光を放ち、
休日明けの萎えた気持ちを奮い立たす。

それでも学生は、心ここにナシ。

皆一様に寝ぼけ眼にだらしなく集団で歩く。
宇都宮の女子校だろうか…バスを待つ集団。

紺色の制服が、さらにどんより紺色を増して
朝の風景に重たく鎮座している。

「ニンニクたっぷりの餃子を朝から食べてこい!」

ひとりごちた息がニンニク臭かった。

新幹線で宇都宮へ


沖縄から東京、そして宇都宮へ…。
空港から新幹線へと乗り継いでの出張はめずらしい。

仕事で新幹線に乗るのも、10年ぶりか。

東京、上野、大宮、宇都宮…。
車窓は街中から冬の色あせた風景へ。

宇都宮はかつて、ぬいぐるみ工場が多くあったという。
今では、需要が中国に流れ、職人さんも老いてしまい、
ひと頃の活気もなくなってしまった。

そんなかつてのぬいぐるみ工場に足を運び、
オーダーした着ぐるみの進捗を確認するのが、今回の仕事。

憂国忌


今日11月25日は三島由紀夫の命日…憂国忌である。
しかも、生きていれば80歳…という節目の年。
奇しくも行定勲監督が「春の雪」を映画化され、
改憲論争で自衛隊の存在が取り沙汰されることもあって、
三島由紀夫が没後35年を経て、再び注目されている。

ボクと三島の出会いは24年前、中学1年の時になる。

大阪の男子校に通うこととなり、
徒歩通学から電車通学へと生活圏が一挙に広まり、
それまでの情報量からは想像だにせぬ情報の殴打に遭遇し、
無垢な精神が、翳りを持ち始めた頃…。

同級のインテリ徳川君が下校の道すがら、「三島由紀夫」を口にした。
…ショッピングモール内の書店に立ち寄った時であった。

「三島由紀夫って生まれた時の記憶があったんだって。」

「彼は昭和元年に生まれて45年に死ぬまで、すべてを自分の意志で決めたんだ。」

「つまり、自分の人生を意識的に生き抜いた人だったんだよ。」

徳川君の言っていることが、当時のボクにはまったく理解できなかった。
ただただ同級の彼が発する「意識的」という言葉に戸惑い、「三島由紀夫」に戸惑った。

その時、書店で導かれるまま眼にした「三島由紀夫」の朱色の背表紙と
大胆なレイアウトの新潮文庫に、言いしれぬ興奮を覚えたのを、今でも覚えている。

とにかく、ボクはその時「知的興奮」に目覚めたのだった。

神楽坂本多横丁


気を取り直して、神楽坂へ。
飯田橋から坂を上がる。

天気のせいもあって
人々で賑わっている。

和服姿で昼食をとる女性達。
老舗の軒先に並んで、席の順を待つ夫婦。
江戸情緒を堪能すべく、料亭を訪ねる外人家族。

ふと思って、横丁に曲がってみる。

賑わいは遠のき、往来の人はまばらになる。
静かな佇まいに…逆光の演出。

…記憶のフラッシュバックに襲われた。

マクドナルド永田町店


土曜の朝に、国会議事堂に向かう。
やはり国の機関だけあって、ガードが厳しい。

腹ごしらえをしてから挑むことにする。
マクドナルド永田町店で朝マック。

差し込む朝日が、店内を温める。
タバコの匂いが足下から這い上がってくる。
穢れた空気の対流。ファーストフードの味。

警棒を持って交差点に立つ警官が
あちこちに居るのが見える。

……。

すでに撮る気を失った自分がいた。

身体的に撮るということ


土曜の夜に、ライブを観た。
女性ボーカルがアコースティックギターをバックに唄う。
150名ほどの聴衆が静かに見守る中、カラダ全体を共鳴させて
身体的な詩をメロディに乗せて、唄っていた。

見事に聴き惚れてしまった。

2オクターブの音域を巧みに揺らし、
時には強く、時にはささやくように
カラダが反応するまま、声を剥き出しにしていた。

音楽は、やはり身体の叫びだ。

写真はどうだろう?

身体の赴くまま、感覚的に対象を捉えているのだろうか?
そして、その感情が、そのまま剥き出しに定着しているのだろうか?
写真を撮るということも、音楽と同じく
生理に真っ向反応して、しかるべきなのだ。

身体的に撮ろうと、思った。

「あぼっけ」という名のギャラリー


ちょうど10日前に、水戸のはずれにある
木葉下(あぼっけ)と呼ばれる地名のギャラリーに赴いた。

沖縄との温度差15度。日本の四季を体感する。

友人山田圭一の作品を夕景、朝焼けの中で撮影する。
このギャラリーのある浅房山は、産業廃棄物のゴミ溜めとなっている。
山田はそれらの廃棄物を女子高生の巨大なケータイストラップに見立て、
入山口に吊していた。

ゴールドにペイントされ夕日に輝く廃棄物。
その美しさが人間の偽善を見事に表現していた。

展覧会の情報はこちら。会期はすでに終了している。
http://www.ne.jp/asahi/yosshi/kazu/beyond.html