【Mar_23】熊野牛玉宝印


熊野三山の本宮、那智、新宮にそれぞれ伝わる「神文」。
八咫烏がそれぞれ本宮は85羽、那智は72羽、新宮は48羽使われ、
本宮・新宮は「熊野山宝印」、那智は「那智瀧宝印」と象られている。

新年を迎えた早々の午前2時、八咫烏帽を被った権宮司が秘所にて神事を行い、
牛玉宝印を摺るのに使う清水を組み上げる。
翌2日の午前5時、宮司たちが本社礼殿に座し、清水で墨をすり、
一枚一枚丁寧に「宝印」が和紙に押される。
その後、松明によって清められ、一日ご神木とともに神前に奉安され、
七日間の太鼓と打板の乱打を経て、ようやく参拝者に授与される…という代物。

宝印の中心には剣と鏡が描かれているが、
鏡の周りを囲むように八羽の烏が配されているのは、
太陽が八方をあまねく照らすように願ったもの。

この「神文」は、誓文(起請文)として武将どうしの盟約に用いられた。

【Mar_23】大斎原


おおゆのはら…と読む。明治22年の大水害で流されるまで本宮があった場所。
熊野川・音無川・岩田川の中州に今の8倍の大きさで、存在していた。

中州に建立すること自体無謀な話だが、人間の驕りがそうさせたに違いない。

  「明暦丙申立」と裏にある石碑に、「禁殺生穢悪」とあった。
  神社の中で、殺生や、穢れや、悪を禁ずるとの意味であろうが、
  紀伊半島の土地土地を経巡る途中の私には、それはことさら眼に付いた。
  つまり、楷書でしっかりと書き彫り上げた石碑の筆遣いから、
  その筆を持って文字を書く人間の、自信と驕りに対する驚きと、反感だった。
  自然は、八百万の神々はそんなに生易しくない。自然はもっと生き生きとある。
  そう思った。神々は一度や二度、打ち倒されてもなおもぞもぞと生きながらえてある。
  自信と驕りとは、つまり堕落のことだろう。本宮という神の場所ではなく、碑に文字を書いた人間、
  それを建立した者の人為が、この本宮という場所を、閉塞させている、と思った。
  神の場所とは、貴と賤、浄化と穢れが還流し合って、初めて神の場所として息づく。

                        (紀州「本宮」中上健次)

実際、一遍上人の時代は、貴賤入り乱れた場所だったらしい…のだけど。

【Mar_23】八咫烏


八咫烏の八咫(やた)とは、咫=親指と中指を開いた長さ八つ分、
つまり三尺二寸(1メートル)ほどの大きな烏…という意味。

中国では太古の昔から、太陽の中に住む3本足の烏を「金烏」、
月の中に住む兔を「玉兎」と名づけ、太陽と月を崇めるシンボルとして親しんできた。
日本には奈良時代以前に伝わってきたようで、法隆寺の調度品に「金烏玉兎」が描かれている。

今でも月の中には兔が住むことは自明だが、
烏については悪鳥のイメージが幅をきかせているため、
誰も太陽の象徴と崇めることはない。

慈鳥孝鳥とされた烏は、夜明けとともに朝日に向かって飛び出し、
日没には夕日に向かってねぐらへ帰るので、その姿が太陽と結びついた。

また方角を知る鳥として、道に迷った神武天皇を熊野に導いたことでも知られている。
日本サッカー協会のマークも、相手のゴールに導く鳥として八咫烏が使われている。

死と再生を願う古代の太陽信仰とつながる、熊野の八咫烏は、
日本人の死生観を探るキーワードなのだ。