【未完のレーニン】ブルジョア階級の国家への直接的依存

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

 
  〔中略)

ブルジョアジーと国家はあくまで分離しているということは、上記のような利点をブルジョアジーにもたらすと同時に、
ブルジョアジーにとっての致命的な弱点を生む。
…というのは、ブルジョアジーがブルジョアジーたり得るのは、プロレタリアートへの人格的支配は存在しない以上、
端的に言えば生産手段の私的所有が法的に承認されることのみによる。

言い換えれば、ブルジョアジーの存在根拠は法的規定による。それと同時に、法を定めこれを強制的に執行する機能は、
資本制社会においては国家に集中している。こうしてブルジョアジーは自らの武力には立脚しない以上、
自らの階級の存在根拠(すなわち私的所有の法的根拠)を国家に直接的に依存しているということになる。

つまり、ブルジョアジーは自らの力で自らをあらしめることができない…という弱さを持つ。

それゆえにブルジョアジーは、国家が中立的な外皮を纏いながらも実質的にブルジョアジーの代理たるように、
国家に対して影響力の備給を何らかの形でおこなわなければならなくなる
ここでレーニンは、官職の買収、議会の買収、官金横領などをこの備給の例としてあげている。

おそらくわれわれは、ここでその内容について詳論することはできないが、
アルチュセールのイデオロギーについての洞察にしたがって、
諸々のイデオロギー装置をそこに加えるべきだろう。

ブルジョアジーと国家を結ぶベクトルが、ブルジョアジーから国家への備給を顕す矢印のみでなく、
国家からブルジョアジーへ対しても描かれなければならないのは、このブルジョアジーの国家への直接的依存のためである。
そして、この時期のレーニンが革命の問題を、国家権力の問題に収斂させたのは、まさにブルジョア社会における
国家とブルジョアジーとのあいだの力関係が相互的なものであり、ブルジョア階級はその存立の可否を直接的に国家に負うこと
そしてそこにブルジョア階級のアキレス腱があることを強く確信していたことを示すだろう。

してみれば、プロレタリアート国家への移行の可能性は、言い換えれば革命の課題は、
プロレタリアートと国家とのあいだの直接的(物理的)闘争において、
プロレタリアートがいかに国家に勝利し、またブルジョアジーから国家への力の備給を防ぎうるのかという問題に収斂するだろう。
レーニンのあの一元的な【力】の生成とその強靱さが問題になるのは、この場面においてである。

     ●

さらにこの図の構造を再生産することを考えると、
この構図がきわめて不安定なものであることが理解される。

というのは、資本蓄積の要請から搾取が激化し、階級対立が先鋭になると、
それに比例して国家の位置が高くなり、そこに力を備給するブルジョアジーはより多くの力を得なければならないが、
ブルジョアジーがこれを得るにはプロレタリアートからの搾取を強めるほかない。

このことは階級対立の激化を必然的に引き起こすから、
国家の位置はより高くなり、そこに備給をおこなうことはますます困難になる。
したがって、ブルジョアジーはプロレタリアートへの搾取をより強める…という悪循環が生じる一方で、
国家の位置は、正統性を減じつつますます上方へと昇ることになるから、
国家から降り下ろされるベクトルはより長くその角度はますます鋭角的になり、
つまりその強度を増し、それに比例してブルジョアジーは自立性を減じることになる。

あるいは、より具体的に言えば、ブルジョア階級が自らの存立の基盤を、
国家による生産手段の私的所有の法的保障、
および国家の暴力によるブルジョア的法秩序の維持のみに依存するその依存度は、
構図の再生産によって累進的に高まるということだ。

ここで明らかになったのは、この構図の破滅的な不安定さである。

なぜなら、この構図を維持することの出来る限界は、
ブルジョアジーがプロレタリアートの維持再生産が可能な範囲で
プロレタリアートを搾取できる度合いという限界によって明らかに画されざるをえない。

しかしその一方で、資本累積にはその限界が原理的に存在しない。
したがって、ブルジョアジーは二律背反したふたつの命令を受けとることになる。
すなわち、彼らは一方で被搾取者階級の維持再生産のための限界内で搾取せよという命令を受けながら、
その一方で、資本累積の要請は、あらゆる限界をも踏み越えて蓄積することを命ずる。
したがってブルジョアジーは、資本累積の要請に呼応して搾取を無制限に強化し、この構図を極大化することもできなければ、
ある程度の水準に保つことも出来ない。
構図は不安定な動揺状態に置かれるほかないのである。

【未完のレーニン】近代資本制社会における国家の実像

世界史が階級戦争の歴史であることは、すでに古くから知られていた。
実際共産党宣言の新しさはその点にあるのではない。
共産党宣言の新しさと魅力は、それとは別のものである。
すなわち、階級闘争を人類史上唯一最後の闘争、
つまりブルジョアジーとプロレタリアートの緊張の弁証法的絶頂まで体系的に集中した点にあるのである。
多数の階級の間の対立は、一つの最後の対立に単純化される。

およそ単純化ということは強度の異常なる昴進を意味する。

     ●

この図式に、ブルジョア社会の構造の強さと弱さが集約されていると言ってよい。
言い替えれば、プロレタリア革命の困難と可能性とが同時に現れているということだ。

いま述べたように、この図においては、
ブルジョアジー(C1)とプロレタリアート(C2)とのあいだの闘争的な関係は、
ブルジョアジー(C1)と国家(state)とのあいだに置換される。

このことは、ブルジョアジー(C1)は実際には根源的にプロレタリアート(C2)と対立関係にあるにも係わらず
プロレタリアートと直接的に闘争せずともすむ、つまり階級闘争において自らの力を費消する必要がないということを意味する。

ブルジョアジー自身の代わりに国家がその闘争を代行してくれるからである。

支配階級が自ら武装することなしに支配を維持するシステムを手にしたのは、
有史以来おそらく初めてのことだろう。
この巧妙な仕組みが、ブルジョア社会におけるブルジョアジーの強みの一つである。

さらに、ブルジョアジーにとっての決定的に重要なもうひとつの利点がこの構図にはある。
ここでは、ブルジョアジー(C1)はもはや直接的にはプロレタリアート(C2)を支配しない。
なぜなら、述べてきたように、資本主義的搾取は人格的支配によってではなく経済過程を通じて行われてるからである,

したがって、ブルジョアジーの道具としての国家がなすべきことは、
この経済過程を支える商品売買秩序ーーより端的に言えば私有財産ーー
(ブルジョアジーにとっては生産手段であり、プロレタリアートにとっては労働力商品)を、
社会の全成員に対して普遍的に維持・保証することのみであり、
そしてこれを実行するのが法体系とその背後に控える国家の暴力装置である。

そしてこの際、
法秩序は社会の全成員に対して普遍的に妥当するものとして現れるため、
国家権力は脱人格化される。

かつてミシェル・フーコ―は『監獄の誕生』において、
犯罪の概念が王の身体という具体的人格に対する侵害から
抽象的な秩序に対する侵害へと変容してゆく近代の歴史過程を描いたが、
この過程は国家権力の脱人格化と相即していると言えるだろう。

このようにして、ブルジョア国家は、国家暴力の人格的起源を措定することのできない、
すなわち特定の人格とは無関係な(ものとされる)『法の支配』が貫徹する法治国家として、現れることとなる。
このことから次の事柄が帰結する。

それは、軍隊・警察・官僚からなるこの行政的執行能力ーーこの真のブルジョア国家権力ーー
の直接の人格的担い手は必ずしも資本家であることを要しないということである。
ということは、この執行能力がどのような階層によって担われようと、
それが私有財産的法秩序の維持執行権力として機能しさえすれば、
資本家階級は、商品経済的な価値法則を通じて階級搾取を自動的に実現することができるからであり、
したがって、それが資本家諸君の階級抑圧のための組織された暴力にかわりはないからである。

このことは、逆に言えば、ある国家権力がブルジョア権力であるか、否かは、
その直接の人格的担い手がブルジョアジーであるか、否かによって定まるのではなく、
それが私有財産的法秩序の維持執行権力として機能しているか、否かによって定まるということを意味する。

【未完のレーニン】トラウマの普遍化と死の欲動の反転

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

それでは、レーニンにおいて何が「偶像崇拝の禁止」をもたらす
「死の欲動」の内面化の機能を担っているのだろうか。

もちろん、レーニンは「死の欲動」などという概念を用いて志向していたわけではない。
その代わりに彼が依拠したものは、資本主義の発展運動そのものだった。

言うまでもなく、資本主義はある意味で破壊的である。

それは農村共同体を破壊し、搾取される労働者を生み出す。
だから、資本主義が発達するということは、これらの破壊的作用が昂進することである。
しかし、レーニンはこのことをまったく怖れず、資本主義の発展を否定的なものとは見なさなかった。

その理由はもちろん、マルクスの根本的展望、すなわち資本主義の発展は既存の社会構造を破壊するのと同時に、
その墓堀人を不可避的に生み出し、それによって社会主義革命が導かれる、という展望にある。

つまり、マルクス・レーニンにとって、資本主義の発展はフロイトの想定する「死の欲動」と同じ形で両義的なものである。
それは、破壊的な力であるのと同時に、その攻撃性が内へと向けられるならば、もっとも「文化」的なものとなる。

してみれば、レーニンにとって、社会主義革命とは、
資本主義の発展運動という「死の欲動」の破壊性が反転され、
資本主義の発展それ自体に向け変えられる瞬間を指すことになるだろう。

レーニンが初期の著作においてナロードニキ主義批判を展開したとき、
彼は批判対象を単に否定したのではなかった。
正確に言えば、ナロードニキ主義がロシアの近代思想・革命運動の形成において
果たした重大な役割を積極的に評価しつつも、
その根本教義が現に資本主義発展の途に入ったロシアの現状にはもはやそぐわないものとなった、
という主張をしたのであった。

つまりそれは、資本主義発展の不可逆的な開始と同時に、「悔悟する知識人」に限定された
思想・運動は無効なものとなったということを意味する。

それがいまや無効なのは、資本主義の浸透がトラウマの克服を全人民的問題とするからである。

してみれば、レーニンにとって、社会が資本主義的発展の軌道に入ることの進歩性の究極的な根拠とは、
それによって知識人に限定されていたトラウマが全人民へと普遍化され、したがって歴史的主体性を獲得するべき主体が知識人に留まらず、
全人民へと拡大されたということに存ずる、といえよう。

このようにして、資本主義の発展によって全人民が歴史の形成に参与することになってはじめて、
客観的必然性を持った現実的なものとしての革命が世界の有り様を規定するようになる。

すなわち「革命の現実性」が世界に充満しはじめる。

ゆえにこそ、レーニンの『何をなすべきか?』が提起する「新しいタイプの党」は、
「暴露」「顫動」によって大衆の「革命的積極性の培養」をめざし、
また労働者階級から「職業革命家」を多数引き入れるべきものとして提起された。

それは実に、大衆をして資本主義の発展という「死の欲動」の反転へと向かわしめることを、企図したものであった。

【未完のレーニン】死の欲動による革命


写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

フロイトが描くユダヤ教において、
徹底的な欲動断念が偶像崇拝を禁じる一神教として現れざるを得なかった理由は何なのか。
この問に答えるためにわれわれが見出した手がかりは、それが「死の欲動」の内面化という機制に関わるということであった。

ところで、フロイトは罪責感の源泉を成す「不安」の感情について、二つの源泉を措定している。
すなわち、「優位に立つ他者に対する不安」と「超自我(=良心)に対する不安」とである。
前者はその起源を、幼児の親に対する感情、つまり親からの保護を失うことに対して幼児が感じる「寄る辺のなさ」に持っているとされる。
そして後者は、前者から促された「欲動断念」がなし終えられる
(つまり、幼児の成長によって他者への依存が軽減され「寄る辺のなさ」が解消される)ことによって
一旦は解消された前者の感情を受け継ぐものである。
だがなぜ、本来外発的なものとされる前者が解消された後に、罪責感は「超自我」という形で内面化されうるのか。
この問に対してはフロイトはかなり思弁的な回答を試みているが、その要点は
「超自我の峻厳さは本来、(中略)超自我に対する自我自身の攻撃欲動の代理」であるということだ。
つまり、後者の「不安」感情の厳選には「死の欲動」が横たわっているということになる。

そして、フロイトの「不安」の二つの源泉についての論理を敷衍して「神的なるもの」の起源を措定するとすれば、
前者の「不安」は多神教的心性へとつながり、後者のそれはユダヤ教的なそれにつながっているに違いない。
それはなぜか。
まず、前者の「不安」は「(人が生きていくうえで依存せざるをえない他者からの)愛を失うコトへの不安、
つまり一種の『社会的』不安」を背景にしている。このような罪の意識は真正のものではない。というのも、
この「不安」の背景にあるのは超越的な善悪の基準ではなく、
自分が生きていく上で必要不可欠な他者からの「愛を失う」わけにはいかないという功利計算にほかならないからだ。
ゆえに先に引用したフロイトの「未開人」の行動は次のように解釈できる。
すなわち、彼らの呪物が役に立たなかったとき、呪物の方は彼らを愛していなかったことが明らかになったのであり、
それゆえにもはやその呪物は無用の長物であり、むしろ空しい期待を抱かせた憎むべきものとして打ち毀されるのだ、と。
先述したように、これらの呪物は、それがいかに高い敬意を払われていようとも、
いわゆる「御利益」をもたらしてくれるものとして崇拝・強制されているにすぎない。
そして、このような世界においては、さまざまな呪物が立ち代わり崇められ、そして貶められるだろう。
言うまでもなく、これは先に述べた多神教的、偶像崇拝的世界の姿にほかならない。

してみれば、偶像崇拝の禁止が呪物を持つことに対する禁止であるならば、それが意味するところは、
功利を超えた善悪の基準を持つべしという当為であるはずだ。
そして、功利計算というものがおこなわれる目的が自己の生命・身体などの維持にあり、
したがってそれが自己愛の命ずるものだとすれば、功利計算を棄てることとはその逆を思考すること、
すなわち「死」を志向すること、そして『文化への不満』における主要テーマのひとつであった
「隣人愛」の実現への志向を意味することになるだろう。
偶像崇拝の禁止という教えが「死の欲動」に基づく、もっと言えば、それのみにも基づくものだというのは、このような意味においてである。
偶像化しえない神、それは内面化された「死の欲動」が外に投射されたものだ。
してみれば、フロイトの主張する「精神性における進歩」とは、「死の欲動」を内面化することをやり遂げることにほかなるまい。

【未完のレーニン】攻撃欲動を馴化する可能性


写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、
皇居東御苑にある桃華楽堂。

【on_Flickr】DANCER_07

  『ロシアにおいて新しい共産主義文化を建設しようという試みが
   ブルジョアジー迫害によって心理的に支えられていることも、充分理解できる現象だ。
   ただちょっと心配なのは、ソヴィエトでブルジョアジーが根こそぎにされたあと
   果たして何が起こるだろうかという点である』(S.フロイト「文化への不満」(1930)より)

いわゆる大テロルを約5年後に控えた1930年の段階で、このように不気味・までに正確な予言をなしえたことについては、
まさに慧眼と言うほかない。要するに、フロイトからすれば、レーニンのやろうとしたことは「文化」的にすぎるのだ。
人間はこのような「文化」に到底耐えられず、結局のところ攻撃欲動の方が勝利するであろう、というのがフロイトの見立てである。
しかし、精神分析の始祖があくまで慎重に革命(無意識による、あるいは社会主義による)の両義性を見つめ、
進歩にいたる途を発見することの徹底的な困難性を自覚していたのに対し、ボリシェヴィキ革命の指導者はその進歩性を
いささか無邪気に信じていたということを確認するだけで、問題は結着するのだろうか?

今日まで再三再四語り尽くされてきた事柄、すなわち
「人間性に関する見方の根底においてフロイトはペシミストであり、レーニンはオプティミストであった」
ということに問題は尽きるのだろうか?

仮にフロイトが『モーゼと一神教』という謎に満ちたテクストを書かなかったとしたら、
われわれはこのような結論に満足すべきであるのかもしれない。
だが、すでに論じたように「精神性における進歩」をフロイトは他の彼のテクストにおいては見られないような口調で
そこでは強調したのであり、しかもそれがなされたのは、まさに攻撃欲動の圧倒的勝利の確証であるかのごとき
ナチズムが猖獗を極める最中においてのことであった。
そして、『モーゼと一神教』によってやがて打ち出されることになる観点から遡及的に見てみるならば、
『文化への不満』においてすでに、攻撃欲動をいかに昇華しうるかについての道筋は語られていたことがわかる。
それは「罪責感」をめぐる議論においてである。もっと言えば、攻撃欲動を馴化する可能性、
「文化発展」の可能性が賭けられうる唯一の途として、それは論じられていた。

   『われわれの攻撃欲動を無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。
    それはちょっと想像もつかぬほど奇抜だが、考えてみるとごく当たり前の方法である。
    すなわち、われわれの攻撃欲動を取り込み、内面化する方法である。しかし実のところこれは、
    攻撃欲動をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。
    このようにして字がの内部に戻った攻撃欲動は、超自我の形で自我の他の部分と対立している自我の一部に取り入れられ、
    こんどは「良心」になって、本当なら自我自身が自分とは縁のない他人に対して
    示したかったであろうのと同じ厳格さでもって、自分自身の自我に対するのである』(S.フロイト「文化への不満」(1930)より)

   『イスラエルの人々は、自分たちは神の寵児だと考えていた。
    ところが、この偉大なる父が自分の寵児の上へつぎからつぎへと不幸を注ぎかけた時、
    イスラエルの人々は、神と自分たちのこの特殊な関係に疑いを差し挟むとか、
    神の力と正義を疑いの目で見るとか言うことはせず、預言者たちを生んで、
    これに自分の罪深さを責めさせ、この罪の意識を基にして、司祭宗教の厳格きわまる戒律を作り出したのだった』(S.フロイト「文化への不満」(1930)より)

ここでフロイトが言っていることは、ユダヤ教は攻撃欲動をもっとも徹底的に内面化した宗教であるということにほかなるまい。
それを信奉する者たちは、攻撃欲動を他者へと振り向ける代わりに、つねに罪責感のなかにとどまろうとするのだ。
しかし問題なのは、なぜ、また、いかようにしてこのような精神的態度が可能になるのか、ということだ。

【白井聡】未完のレーニン(2)


何らかの主体が『革命を起こす』ことではなく、
革命からその主体を剥奪し、『世界そのものを革命化する』と言う戦術、
言い換えれば『世界そのものを革命の主体とする』という、
レーニンを他の社会主義者・革命家から際立った存在たらしめる独自の戦略。

         ◎

資本制の枠内での労働運動は、その枠内での利益の拡張(=労働組合主義)を意味する。
つまり、労働者階級が労働者階級として運動する限りは、
それは労働者の条件を相対的に向上させることを目指すということを意味するにすぎず、
労働者が労働者であることになんらの変更を加えられることがない以上、
それは資本制社会が実質的に肯定されているということに他ならないのである。

してみれば、レーニンの主張の要点は、真正の社会主義イデオロギーは資本制社会における
階級関係を反映してはならない、という定式に約言されうるだろう。

レーニンのイデオロギーは労働者階級の外側に立つこととなる。

そしてそれは、労働者階級がさまざまな神々(=短絡的な実質的利益)に
心を奪われることを禁止せずにはおかないであろう。

【白井聡】未完のレーニン(1)


近代資本制にもとづいて成り立っている社会
(それは歴史的に「ブルジョア社会」と呼ばれ、今我々が生きている社会でもある)
の特徴は、階級闘争が隠蔽されるところに存する。
マルクス主義が主張するところによれば、
政治的なものの本質は階級闘争に存するが、それが真実ならば、
ブルジョア社会とは、この基本的真実を忘れたふりをすることによって、
あるいはそのようなものは存在しないと言い募ることによって、
言い換えれば、政治的なものの隠蔽によって、
社会に内在する敵対性を隠蔽することによって成り立っている。

まさにこのことが、通常の政治が抱えている巨大な『秘密』であり、
社会に根源的敵対性が内在的に存在していることを告白することとは、
共同体の不可能性を告白することに他ならない。
この『秘密』が秘しておかれざるをえないところから、
あらゆる政治的欺瞞、さまざまなイデオロギーが発生する。

【大澤真幸】不可能性の時代を生きる。


大晦日の朝日新聞朝刊に掲載された
社会学者_大澤真幸(おおさわまさち)さんのオピニオン。
見事に言い得ているので、そのままシェア。

     ◎

私たちはいま、理想や希望を持つことが不可能な、『不可能性の時代』を生きてます。
戦後、1970年頃まで続いた『理想の時代』は、人や社会にとって何が理想か明確で、
底に向かって歩むことが『良き人生』『良き社会』なのだと信じるコトができました。
ところがいまは、何を信じて進めば良いのかわからない。
自分が何のために生きているのか、自らの生を意味づける物語を描けない。
これがいま、私たちが感じている閉塞感の源です。

     ◎

『半沢直樹』は細部にわたるリアリズムに支えられた上質なドラマでしたが、
唯一、半沢直樹という主人公だけがリアリティーを欠いています。
彼は確固たる理想を持ち、その理想に向かって突き進む。
それが家族のためにも銀行のためにも、ひいては日本経済のためにもなる。
彼は絶対的な善の体現者で、だからこそ『倍返しだ!』が許されるわけですが、
この『不可能性の時代』に半沢のような人は存在不可能です。
絶対的な善なるものがもはやあり得ないからです。
要するに彼は、『理想の時代』から連れてこられた極めて時代錯誤な人物なのですが、
視聴者は彼に賞賛を贈り、連続ドラマとしては今世紀最高の視聴率をたたき出した。
理想を取り戻したいという強い欲求が、私たちの中にあるからでしょう。

     ◎
『あまちゃん』は『ここではないどこか』に私たちは行ける、その扉は必ずある、
ということを暗示し続け、この時代の閉塞感を打ち破ろうとした意欲的なドラマです。
東京に行く、地元に帰る、そのどちらもゴールとして設定されているわけではなく、
そこにたどり着いたら必ず、その『先』が提示されるという話の構造になっています。
そして、『先』に行くために重要な役割を果たすのが、
主人公アキの母である春子と、祖母の夏という、異なる時代のエナジーです。
夏と春子に背中を押され、地味で暗くてこの時代の閉塞感を一身に背負っていたアキが、
新しい世界の扉を開けていく。視聴者は自分の背中も押されたように感じたのだと思います。

慰撫されたいという欲求があるのだから、
それをうまく利用すれば『先』に行ける可能性もあるということです。
いま、手持ちのブロックをいくら組み合わせても仕方がない、
決定的に違う『何か』が必要なんだという漠然とした感じをみんな持っている。
ただ、じゃあその『何か』とは何なのだと問われても、私たちはまだ言葉を持ち合わせておらず、
古い時代からブロックを借りてきて表現するしかありません。

     ◎

私たちはなぜ、次の言葉を見いだせないか…原因は大きく言って二つあります。
一つは、いつか確実に沈むとわかっていながら、資本主義という船を下りることができないからです。
『民主主義は最悪の制度だが、これ以上の制度はない』という趣旨の、
チャーチル元英国首相の発言がありますが、これは資本主義にこそ当てはまります。
資本主義はとてつもない格差を生み、善でも美でもないことを人間に要求する。
この船は必ず沈む。だけど他に船はない。社会主義という船はもっと危なそうだし、
外は嵐だから下船したら即死だと、だからみんな必死にしがみついていて、
一見すると、資本主義が信奉されているかのようにしか見えない。
笑えない喜劇のような現状です。

     ◎

もう一つは日本固有の問題で、『ここではないどこか』を目指すと必ず、
アメリカという壁が立ちはだかる。
アメリカは日本人にとって絶対に取り換えられない、
そして絶対に失ってはならない壁としてイメージされています。
日本は冷戦期、たまたま戦略的に重要な位置にあったからアメリカに守ってもらった。
しかし冷戦終結で国際情勢が大きく変わり、
アメリカには日本を守らなければならない内在的な理由が実はないことがハッキリしてきました。
愛されなくなったらおしまいだという焦りや不安が、
アメリカに愛されるためなら何でもやるという思考停止を生んでいる。
特定秘密保護法もその文脈で理解されるべきです。

恋人はどうやら自分から離れたがっている。
秘密も打ち明けてくれない。
だから秘密保護法をつくりました。
さあ安心して打ち明けてと。
これは国際社会に向けてのアピールにもなる。
『あいつはどうやらアメリカに秘密を打ち明けられているらしいぜ』と。
それでなんとなく一目おかれたいということでしょう。

とはいえ今後何十年間もこのままの日米関係が続くとは到底考えられません。
どうやったらアメリカに依存せずに我々はやっていけるのか。
それを考えることが、この社会の閉塞感を打ち破る第一歩になるはずです。

     ◎

今年の流行語大賞のひとつは『今でしょ!』でした。
みんな『今でしょ!』って何かを決然と選択し、この閉塞状況から抜け出したいんですよ。
だけど人生や社会にとって何が本当に良いことなのか、判然としない。
3・11を経た昨年の総選挙は当然、原発が争点となるべきだったのに、
みんな考えるのをやめてしまった。
原発を止めたら日本経済は破綻するかも、でも原発を続けたらもっと悲惨なことが起きるかも…
リアルに考えるととても選択できない。
だったら考えても仕方ないね…と、私たちは何も選択しなかった。
選択しなかったが故に選択されたのが安倍政権です。
05年の『郵政選挙』のように、
比較的どうでもいい問題についてならば『今でしょ!』と盛り上がれるが、
本当に重要な問題ほど棚上げされてしまう。非常に逆説的です。

     ◎

もしかしたら、ずっと不可能だと思って来たことが可能になるかも知れない
…という期待が高まったのが、09年の政権交代です。
しかし民主党政権は結果的に、
『不可能なことはやっぱり不可能だった』を証明してみせただけだった。
続く安倍政権は逆に『可能なことは可能だ』をやっていて、
いかにも起こりそうなことだけ起きると。
政権交代が無念な結果に終わったことが、
理想を語ったり語られたりすることへの忌避感につながっていて、
安倍政権がそういう気分に乗じているのは事実でしょう。
ただ一方で、無念な思いを残しているからこそ、
私たちはいつかそれを取り戻しに行かなきゃいけないという気持ちもどこかで持っている。
願望や希望って、未来に落っこちているというよりは、
過去に満たされなかったモノの中で育まれる感じがしませんか。
そう考えると、政権交代への失望があることは、失望すらないよりはある意味いいことだと思います。

     ◎

政治が本来やるべきことは、人に思考停止させないことです。
人間はね、やっぱり『不可能だ』と言っちゃだめなんですよ。
『道はある』という感じを持つと、人の思考は回転し始めるのですから。
特に政治家は、根拠がなくても『不可能は可能になる』と言ってのけるある種の勇気と、
それを人々に信じさせる言葉のチカラを持たなければなりません。

現実主義だリアリズムだと言って、
可能なことだけを追求するというのは単に、
船が沈むのを座して待つということにしかなりません。
みんなが可能なことしか求めなかったら、
可能なことしか起きないじゃないですか。
沈まない別の船を求めるならば、不可能なこと、
現時点ではあり得ないようなことを要求する方がむしろ現実的です。
歴史的には何度も不可能だったはずのことが起きている。
それは不可能なことを求める人がいたからに他なりません。
自分は本当は何を望んでいるのか。
どんな社会を目指したいのか。
まずは口にしてみましょうよ。
あなたが口にすることによって、
不可能は可能になる可能性を孕むのです。

     ◎

     

【Dec_31】おのくん@東松島


奥松島生まれのおのくんストーリー

おのくんは、宮城県東松島市「小野駅前応急仮設住宅」の人々の、
住処であった奥松島の復興を願って生まれたキャラクターです。
これまでのゆったりとした暮らしから一変、被災し先の見えない状況のなかで、
さまざまな困難に立ちむかいながら、「めんどくしぇ」とぼやきつつ、
日々前向きに、あたらしい未来を自分たちの手で築いていこう、という思いが込められています。

元祖は、支援者がおしえてくれた、米国の貧しい労働者階級のおかあさんが、
子どもにプレゼントするために、おとうさんの靴下を改良したソックモンキー

そのかわいさに惚れこんだ小野のおかあさんたちも、
おのくんをひとつひとつ手縫いしています。