【Apr_10】シェアをデザインする

「シェアをデザインする」猪熊純・成瀬友梨・門脇耕三編著

いま、私たちの社会は確実にパラダイムシフトを起こしている。
そのことを実感させるのがこの【シェア】という概念である。

【シェア】とは「分ける」「分かち合う」「分担する」という意味であるが、
同じ「分ける」でも「分業」はシェアではない。

「分業」こそは20世紀の高度経済成長期における象徴的なワードだ。
「分業」とは労働の分割による作業の固定化であり断片化のことで、
仕事本来のもつ、全体としての面白さ、楽しさから人を疎外するやり方である。

でも考えてみれば、効率化合理化の名の下に様々な物事を「分業」化してきたのが、20世紀の歴史だった。
増える一方の人材を「適材適所」に留まらせようと固定化するのが「分業」であり、
自ら考え、行動を起こすことの必要を失わせることで、コマのように代替可能な状態を維持する仕組みだった。

拡大社会の都市計画も見事に「分業」化されている。
郊外のベッドタウンから都市のオフィス群へとゾーニングがなされ、鉄道がそのふたつを繋ぐ。
サラリーマンは長い通勤時間を費やし、その間を行き来する。
すべては経済成長の効率化に則って集約され、人々が移動を強いられる。
それでも「成長神話」が信じられていた時代では、疑問の余地はなかったのだろう。

拡大社会から縮小社会へ。

震災以後、成長神話が綻び始め、ゾーニング分けされた都市計画も机上の空論で、
都会の理屈に地方が貶められている…といった本音が噴き出し始め、
地方都市だけでなく東京ですら、賃貸物件が常時12%空きの状態である…といった事実が、
開発ばかりを推し進める政府・企業のやり方に疑念を与える結果となった。

思考がシフトできているか、否か。

シフト出来ていない人間は、いまだに「成長神話」に郷愁を覚え、
【ニッポンを取り戻せ!】とばかりに東京五輪、リニアモーターカー、原発再稼働の
カネ、カネ、カネが踊った高度経済成長期の夢を描こうとしている。
64年の五輪よ再び…と「今、ニッポンにはこの夢の力が必要だ!」と焚きつける姿勢などは、まさに。

【シェア】とは、固定化から流動化へのパラダイムシフトである。

インターネットの発達から端を発して、震災で決定的なものとなった感がある。
非常事態におけるネットの情報共有は、固定化した役割分担から、
フレキシブルに対応する「役割が変えられる社会」を意識させた。
ボランティアによる急場の大胆な対応は、まさに生きるためのクリエイティブ力だった。
余剰の賃貸物件を共同でシェアする…という【シェアハウス】の発想も、
言ってみれば「役割が変えられる人間関係」というベースがなければ生まれ得ないもの。

【シェア】とは、コチコチに固まって形骸化した20世紀の枠組みを、
ひとつひとつの固有な要件に対してひとりひとりが意見を出し合い、価値観を共有し、
場所性や地域性を鑑み、持続可能なものへと変容させていくための、
その都度都度で「自ら考え、自ら解決させる社会」の方法論である。

社会が【シェア】を志向してきた…とは、
ひとりひとりが考え、ひとりひとりが社会を築く世の中へ
シフトしてきたことへの、顕れなのだ。

【Mar_07】puma原宿店


震災から3年目の3月11日、
東京芸術劇場にてパフォーマンス小作品「よころびの歌」を発表するGRINDER-MAN

その動きに賛同されたPUMA.JAPANは、
参加するダンサー22人全員に靴を提供。昨日は、そのフィッティングでpuma原宿店を訪れた。

ダンサーそれぞれが好みの靴を試着。店内は嬉々とした雰囲気で盛り上がった。
本番は03/11の20:45。どんな「よろこびの歌」となるか。今から期待大。

パフォーマンス小作品「よろこびの歌」

Moving Distance:2579枚の写真と11通の手紙」関連プログラム

日時:2014年3月11日(火)20:45~
会場:東京芸術劇場 ロワー広場
入場:無料
協力:プーマ ジャパン株式会社

演出:タグチヒトシ(GRINDER-MAN)
振付・出演:伊豆牧子(GRINDER-MAN)
出演:天野悠二、榎本咲百合、香取直澄、彼ノ矢恵美、
   神林佳美、呉宮百合香、小山柚香、菅原理子、鈴木麗亜、
   ストウミキコ、露木智美、東山佳永、平吹佳奈、深見友理、
   松本大樹、三橋俊平、村田圭介、望月美里、龍福さわこ、渡邊愛祐美

【Mar_11】Moving_Distance

Moving Distance:2579枚の写真と11通の手紙」関連プログラム

GRINDER-MAN
パフォーマンス小作品「よろこびの歌」

日時:2014年3月11日(火)20:45~
会場:東京芸術劇場 ロワー広場
入場:無料
協力:プーマ ジャパン株式会社

演出:タグチヒトシ(GRINDER-MAN)
振付・出演:伊豆牧子(GRINDER-MAN)
出演:天野悠二、榎本咲百合、香取直澄、彼ノ矢恵美、
   神林佳美、呉宮百合香、小山柚香、菅原理子、鈴木麗亜、
   ストウミキコ、露木智美、東山佳永、平吹佳奈、深見友理、
   松本大樹、三橋俊平、村田圭介、望月美里、龍福さわこ、渡邊愛祐美

【Feb_27】GRINDER-MAN


震災から3年目の3月11日、
東京芸術劇場にてパフォーマンス小作品「よころびの歌」を発表するGRINDER-MAN

その稽古場を見学。代表のタグチヒトシさんに話を聞いた。

震災直後、タグチさんは自分の無力さに愕然となった。
その年の4月におこなわれたスパイラルでのイベント「アートのちから」に参加したときも、

 「アートのちからってなんなんでしょう。僕が机上で頭を捻っても、それを人前で踊っても、きれいな水が湧き出るわけではありません。
  恵みの雨がふってくる訳でもない。現社会では、表現(と呼ばれるもの)は間接的なものだとされています。
  ただし、「観る」「感じる」関係には、作り手と受け手の両者に明確な主体性が不可欠です。
  みんなが面白いといったから、僕も面白い、なんていう道理はない。それはとても閉じた直接的なやり取りですが、
  人の数ほどあるのだ。僕はそこにアートのちからがあると今は思います。」
GRINDER-MANブログより)
 
…という一縷の望みを託している。

あれから3年。ふたたび東日本大震災を主題とするプログラムに参加。その意義は?

  人間には『忘れる』という能力が備わっている。だから、嫌なことは忘れたって、いい。
  苦々しい悔恨の傷跡を引き摺り、『忘れる』ことへの強迫観念に怯えて日々を過ごすぐらいなら、
  『忘れる』ことで前向きに生きるほうが、よっぽど良いのではないか?
  ダンスはその一助になる
…たしか、そのようなニュアンスを語ってくれた。

今回の「よろこびの歌」は、無音の小作品だ。
参加するダンサーは、22人。みなタグチさんの思いに賛同して駆けつけた。

  それぞれが心に「よろこびの歌」を響かせて、踊って欲しい。
  その共鳴が、「いま・ここ」を共有する会場に居合わせた人たちにも必ず伝わるはず。

タグチさん率いるGRINDER-MANは、「いま・ここ」の一回性を志向するグループだ。
身体を動かし、心を表現するダンスを通じて、0311という3年前の過去に通じる今が、大きく昇華する。
タグチさんが込める「よろこびの歌」とは、そのような跳躍なのだ。

その思いを伺い、ボクはユダヤの哲学者レヴィナスの言葉を思い出した。

  「無意味に死んだ」同胞たちの死に責務を負い、彼らの分の未来に向けて「最善」を尽くす。

  …それはつまり、死者の存在が,自身の存在を相補完していると考える。
   無意味に死んだ六百万人の魂は「死者」としてレヴィナスの存在を支えている。
   死者が生きたであろう未来に向けて「最善」を尽くす…とは、
   今生きている「隣人(他者)」の未来に向けて「最善」を尽くすということである。

無意味に死んだ約2万人の死者たちの未来に向けて、
彼らが生きたであろう「時間」のために
今「生き残った」私たちが、「最善」を尽くす。

3年目の今年、そのような跳躍を見出したい。

 

【白井聡】「未完のレーニン」が教える社会構造

  国家は、階級対立が客観的に和解せられ得ないところに、またそのときに、その限りで、発生する。
  逆にまた、国家の存在は、階級対立が和解できないものであることを証明している。

資本主義という社会構造がこれほど明快に解説された書物を、ボクは知らない。
1917年のロシア革命時に、レーニンは「国家と革命」によって資本主義の限界を明快に提示していた。

今から100年ほど前に、今の社会システムには限界があることを警告し、
抑圧される側であるわれわれプロレタリアートの意識改革を促していたのである。

  怖ろしき慧眼!

その思考の背景には、ユダヤ教という一神教の思想構造が横たわっている。
ユダヤ人が往々にして優れているのは、なによりもこの一神教の思想体系があるからだと、
この本を読んで、深く合点した。

何よりも「目からウロコ」なのは、この図式である。

国家とは、支配する側であるブルジョアジーと抑圧される側であるプロレタリアートの階級対立を
永続的に保持するための巧妙なシステムとして存在している…と。

資本家階級であるブルジョアジーは、資本蓄積を至上目的とし、
労働者階級であるプロレタリアートの労働力商品を巧みに操り、無際限に資本を蓄える。
抑圧・搾取される側のプロレタリアートは、支配する側であるブルジョアジーに楯突くが、
その対立を国家権力が「法的な暴力」によって押さえつける構図なのだ。

具体的には、
たとえば工場労働者が待遇の改善を求めて労働を拒否し、工場に立てこもるストライキを起こしたとして、
工場の支配者である資本家が、労働者を弾圧するために自ら武装して工場に乗り込むということは、あり得ない。
代わりに乗り込んでくるのは、警察官・憲兵・軍隊…といった「公的な暴力」なのである。

  それは、なぜか?

これはひとえに「労働力の商品化」にある。

プロレタリアートが労働力を商品として差し出したがために、
雇い主は経済活動を通してプロレタリアートを支配することとなる。

それは、一昔前の武力による一元支配の社会を「政治」「経済」で切り分けることで
巧妙にその対立を隠蔽した構造となったのだ。
ブルジョアジーとプロレタリアートの対立軸を、国家とプロレタリアートに変換することで、
経済支配をブルジョアジーが、政治支配を国家が、それぞれ担う。
ブルジョアジーと国家は結託し、プロレタリアートの労働を極限まで搾取する。

バブル崩壊以後、国家の至上命題が経済活動に集約されているのも、そのような図式からである。
経団連と政府組織が相塗れ、上納金やらパーティ券が行き交うのも、そのような理由からだ。

グローバル社会と称して、経済活動が国外へと進出し、プロレタリアートの確保と、資本獲得に血眼なのも、
際限ない資本蓄積と、有限な労働力商品とのアンバランスが生む、資本主義の歪みゆえ。

帝国主義とは、この構造を肥大化させ、民族を飛び越えて
「帝国」という国家の名の下に自国の経済活動を邁進させる行為であり、

第一次、第二次の世界大戦は、「領土獲得」を表向きにした「経済活動」の拡大行為だということ。

つまり、資本主義とは構造的に国家間の対立が避けられない設計となっている。

いま、安倍政権を筆頭に国粋主義的な指向が表立ってきているのも、
裏を返すと、ブルジョアジーとプロレタリアートを国家が取りもつ構造体が、脆弱になりつつある顕れだと言えるのだ。

1917年のレーニンは、その先を行く。

階級対立の均衡がどんどん歪みを生み、その圧力を公的な「特殊な力」でもって制圧しようという動きが
ますます高まっていくと、どうなるか。

安倍政権の動きに見えるように、「特殊な力=公的暴力」が強大化し、警察・軍隊の権限が肥大化する。
【力】でもって国内外を制圧していくことで、脆弱した経済活動を補完しようという動きが今後活発化するだろう。

しかし、警察・軍隊という「特殊な力」も資本主義の構造に含まれているので、
その末端である警官・兵卒はプロレタリアートである。雇い雇われの図式はここでもしっかり働いている。

プロレタリアートひとりひとりが、この「抑圧された構造体」を意識化することで、
「特殊な力」である公的暴力を内に向かわせること、それがすなわち【革命】である…と、説く。

それが、1932年の「五一五事件」であり、1936年の「二二六事件」であった。

帝国軍隊の兵卒のそのほとんどが、貧に窮した農民の息子たちであり、
貧しさゆえの志願兵であったことを、その上司である下士官や将校たちが汲み取り、
社会構造の歪みを糺すべく一大クーデターを興したのが、日本における【革命】であった…と。

日本の開戦は、二二六事件から一年半後の1938年12月8日である。

クーデターの不祥事を覆い隠すように、陸軍が率先して開戦の途を拓いていく。
「革命よりも開戦がまし」であり、「革命よりも敗戦がまし」である日本の国家支配層の発想は、
この二二六事件のトラウマから来ているのである。

そして、いまだにこのトラウマが「戦後レジーム」として日本の政治家に巣喰っているのは、なぜか。
安倍晋三を筆頭として、日本の政治を牛耳っている面々が、二二六事件における支配層と、なんら変わるところがないからなのだ。

つまり、日本の社会構造は、いまだにプロレタリアートが目覚めていない…ということ。
この自覚が、大いなる構造改革へと進展する。その示唆を、この本は与えてくれるのである。

【未完のレーニン】意識と無意識の交錯

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

レーニンは「『自然発生的要素』とは、本質上、意識性の萌芽形態に他ならない」と言っている。
そして、社会民主主義者は、この無意識的なもののなかにある意識的なものを高めるということに他ならない。

しかし、この一方で、この意識の高まりとは「革命的な意識の高まり」であって、
そのようなものは先述したように、労働者階級の即自的な意識の外部にしか存在しえないものである。

つまるところ、それは労働者階級の自然発生的な意識にとって
「無意識」の領域に属するものが高まるということである。

無意識が意識であり、意識が無意識である。

こう言うと、レーニンの議論は救い難い混乱と錯綜に陥っているかのように一見思われる。
しかし、経済的領域政治的領域の峻別という視角から議論を整理すれば、混乱した外皮は取り除かれる。

すなわち、自然発生的な意識とは経済闘争において自然に労働者階級において発生する意識であり、
闘争が経済闘争にとどまるならば、革命を目的とする政治的領域に進入することはなく
革命政治から見れば、それは無意識的な闘争のままである。

一方で、革命的意識は労働者階級には自然には意識されえない、つまり無意識的なものである。
このままでは二つの意識、すなわち「経済闘争から発生する意識」と「革命的な意識性」は永遠に出会うことはできない。

しかし、レーニンにおいて事態はそうならない。

すなわち、資本制社会における搾取・抑圧が生じる場所が、
当然のことながら経済的領域においてである以上、葛藤は経済過程において現れる。
そして、経済闘争はこの搾取・抑圧を緩和することしかできない

一方で、資本主義的な搾取・抑圧の本当の原因は、
原理的に言えば、「労働力の商品化」というトラウマ的な出来事にある。

そしてマルクス主義とは、
この出来事によって創始された世界を覆すための思想と実践に他ならない。

だがしかし、この原初の視角が見失われ、
労働運動が労働運動にとどまることをよしとするならば、
搾取・抑圧の原因に遡行するための道は絶たれ、それらは永続される

してみれば、フロイト的に言えば、レーニンが為そうとしたことは、
かつて搾取・抑圧の原因を作り出したがそのことが忘却され、無意識的領域へと追いやられた「心的外傷」を、
全面的な「暴露」「煽動」を通じて労働者階級に認識させるということに他ならなかった。

そして、経済闘争が資本主義的経済闘争でしかありえない以上、
この無意識を労働者が自覚するためのイデオロギーは、
当然労働者の現存状態にとって外部から注入されるものとしてしか現れえない
同じく、労働者という範疇が経済的なものである以上、このイデオロギーは政治的なものでなければならない

こうしてレーニンの語るイデオロギーは、労働者階級に対して「抑圧されたものの回帰」として現れる。

労働者階級が、日々の搾取によってすでに病的状態(=神経症)に置かれているとすれば、
それを治そうとするレーニンが語りかける言葉は、その原因に労働者階級が突き当たることを促すものであり、
その原因の記憶が労働者階級にとって「抑圧されたもの」である以上、レーニンの言説は精神分析家のそれと同じ位相にある。

ゆえに、それは外部からの言葉として現れ、別の形を取った一種の神経症的なものをもたらすのである。

この神経症の交替が、レーニンにとって「進歩」を一義的に表すものであったことは言うまでもない。
なぜなら、それによって実現されるのは革命に他ならないからだ。
そして、それはフロイトの言う「精神性における進歩」とも合致する。
社会主義革命は前代未聞の出来事であり、表象不可能である以上、それへの信仰はまさに高度な「精神性」を要するのだ。

 ※フロイトにおける「精神性における進歩」とは…
 
 多神教であるトーテミズムは、「欲動断念」である一方で、性的支配者として息子たちの嫉妬・羨望を一身に集めた原父の殺害、
 そしてそれへの和解という「性的な」出来事ににこだわりつづけるのに対し、
 ユダヤ教にみられる一神教においては、タブーが神を造形することへの禁止へと集中することによって、
 「欲動断念」は欲動の起源(=性的なもの)から離れ、感官によってとらえることができない神を信じる…という、
 精神性のみによる信仰へと「昇華」されていることを、定義づけたもの。

 
 

【未完のレーニン】民主主義とは?

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

  
  民主制は、少数者が多数者に服従することと同じではない。
  民主制は、少数者の多数者への服従を認める国家、すなわち、
  ある階級が他の階級に対して、住民の一部分が他の住民に対して、
  系統的に暴力を行使するための組織なのである。

ここでレーニンはデモクラシー・民主制を定義しようとしているわけだが、
この言い換えは大変興味深いものである。

一番目の文章では、民主制は「服従」ではないと言われている。
つまり、言い換えれば、民主制とは少数者が多数者に対して服従するという
決まりごと」、あるいはそのような「原則」や「主義」ではない…ということだ。

二番目の文章で言われているのは、民主制とはそのようなものではなく、
制度」や「機構」であり、もっと端的に言えば、「国家」や暴力行使のための「組織」である…ということである。

要するに、民主制とは「観念」ではなく「物質」である。

民主制は、「原則・主義」たることを欲しているにもかかわらず、
実際には「物質」的な「機構」ないし「装置」であるにすぎない、
ということをレーニンはここで言っている。

そして、この一節が置かれている場所にもまた注目せねばならない。

それは共産主義社会への移行が語られる第五章に入る直前であり、
すなわちそれは旧社会に関する記述の最後の部分であるということだ。

つまり、階級が存在する旧社会においては、
その最良の原則=民主制は、ついに原則であることを僭称するのみであり、
原則として通用しているものの実在態は物理的強制に他ならない
という洞察をここに見て取ることが出来る。

  

【未完のレーニン】帝国主義による解決とその矛盾

写真はダンサー高原伸子とのPhoto_Session より、

【on_Flickr】DANCER_07

帝国主義とは、国民国家が原則として民族共同体であり、
したがって基本的には地縁的な結合にもとづいているにもかかわらず、
それを無際限に空間的に拡張しようとするという、
そもそも途轍もない矛盾を孕んだ運動であった。

それゆえ、国民国家の帝国主義化という現象には、
国民国家の概念的否定が含まれていると言わねばならない。

このような矛盾を犯してまでそれが追求されたのは、
端的に言えば、一国内ではもはや有効に継続することのできなくなった資本蓄積を
国民国家を空間的に膨張させることによって継続させようとする要求のためである。

ハンナ・アレントはこのことを鋭く指摘している。

  帝国主義が成立したのは、
  ヨーロッパ資本主義諸国の工業化が自国の国境ぎりぎりまで拡大し、
  国境がそれ以上の膨張の障害となるばかりか、
  工業化過程全体にとって最も深刻な脅威となり得ることが明らかになったときだった。
  経済自体に強いられてブルジョアジーは政治化した。
  もし、不断の経済成長をその内在的な法則とする資本主義制度を存続させたいのならば、
  ブルジョアジーはこの法則を自国の政府にも押し付け、
  膨張が外交政策の究極の目的であると主張するほかなかったのであった。

この「ブルジョアジーの政治化」とは、われわれの図式で言えば、
ブルジョアジーから国家への力の備給の最たるものであり、
ブルジョアジーは自ら支配しない階級である以上、
それはブルジョアジー自身によるブルジョア的原則の否定であると言えよう。

ブルジョアジーによる国家への力の備給の量が高まれば高まるほど
国家の正統性が失われるということをわれわれは見てきたわけだが、
それが帝国主義国家の段階に達すると、国民国家(=ブルジョア法治国家)は
概念的にも実質的にも否定され、その正統性はゼロへと達することとなる。

それでもなお、資本蓄積が継続される限りこの構図自体は再生産可能であり、
再生産可能である限りは維持されうる。
しかし、言うまでもなく、この解決方法は矛盾をより一層爆発的なものへ
先鋭化させるものに他ならない。

つまり、この為の解決は、帝国主義諸国家は無際限の膨張を欲するが
一方で地表の面積は一定であるという矛盾に逢着し、
世界の再分割のための戦争を噴出させたのであった。

付け加えて言えば、今日かつてのような帝国主義国家が姿を消したからといって、
ここに語られた矛盾の本質は解決済みの問題となったわけではない。

資本主義を根本原理とし、資本蓄積が至上命題である社会において、
この矛盾が根本的に解決される道理はない。
そして、資本主義が純粋なものになればなるほど、
この矛盾は深化せざるを得ない。

本書で分析された資本主義と権力とが織り成す相互依存的な構造は、
たとえばマイケル・ハート=アントニオ・ネグリが「帝国」と名づけたような新しい形への再編成を受けつつ、
現在の世界をも強力に規定していると考えられるべきであろう。

すなわち、レーニンにおいていままさに問題となっているのは、
この構造からの不可避的な展開として現れる他なる社会の構図を導き出すことなのだ、ということである。
そこでは「特殊な力」を質的に凌駕するより普遍的な、したがって強力でありうる【力】の生成が問題となるであろう。

   ●

国家は「抑圧のための特殊な力」である。
そして、この定義から出てくることは、ブルジョアジーがプロレタリアートを、
すなわち一握りの金持ちが数百万の勤労者を「抑圧するための特殊な力」は、
プロレタリアートがブルジョアジーを「抑圧するための特殊な力」と交替しなければならない、ということである。