【HumanError_02】犠牲になってきた人たちの上に電気っていう暮らしがあるんだよ


HumanError/FRYING DUTCHMAN

四次元の科学や哲学の話しで、ファンタジーに興味のない人達には面倒くさがられるけど
まぁ、要するにお金を儲けるためにメディアを駆使し、人々をコントロールし、騙して、自然を破壊し
無責任に危ないものをいっぱい作ってきた奴らが

自然を愛し、自然をはぐくんで、自然と共に生活してきた人たちに
長年に渡ってものすごい苦痛を与えてきた事実が明らかになってくると

犠牲になってきた人たちの上に電気っていう暮らしがあるんだよ

そして、パンドラの箱の底を覗くと、
太陽光発電だとか、無限エネルギーだとか、自然を壊さなくても自然を利用した技術が発達してて

いまは原発がなくても十分電気が賄える時代なんだよ。しかも低コストで。
今ある原発を全て止めても水力火力フル稼働をするだけで賄えるんだよ
それを隠して騙す理由はものすごい利権がからんでいるのさ

金だよ金

【HumanError_01】僕たちは記憶喪失なのだ


HumanError/FRYING DUTCHMAN

人類ははるか昔本当の時を奪われたせいで五感が低下し、テレパシーだとか想念の力とか
今とは想像を遥かに超えた別の次元のクリエイティブなテクノロジーを失ってしまったんだよ

いつの時代も毒を持った悪い奴らがいて、その能力を独占するために偽物の時間を作りだし
物質に頼る文明を発達させるために破壊という科学を生み出して

戸惑う人々に対して自分たちの身勝手な屁理屈を定義付けるために宗教を操り、その裏でエネルギーを牛耳って 
経済というお金のシステムを構築してきた代わりに偉大な能力を失ってしまった
何千年もかけて遺伝子的に記憶障害が起こり
何度も何度も生まれ変わって完全にその能力を忘れてしまった俺たちは、記憶喪失なのだ。

【jun_21】サン・チャイルド


大飯原発の07/02へ向けた再稼働が
着実に進行している。

再稼働決定に向けた野田総理の言葉

 国民生活を守ることの第一の意味は、次代を担う子どもたちのためにも、
 福島のような事故は決して起こさないということであります。
 福島を襲ったような地震・津波が起こっても事故を防止できる対策と体制は整っています。
 これまでに得られた知見を最大限に生かし、もし万が一すべての電源が失われるような事態においても、
 炉心損傷に至らないことが確認されています。

これって、福島レベルの震災・津波が来ても、
結果として炉心損傷まで行かなかった…という開き直りに聞こえないか?

あれだけの事故を起こし、福島の人々が強制的に県外避難を余儀なくされて
いまだに放射能汚染の対策もままならず、帰宅できるかどうかさえ、明言されていない
…その中途半端な状況の中で、「至らないことが確認されています」…と
よくもまあ、いけしゃあしゃあと口にできたもんだ…と思う。

内田樹氏は、この総理の言葉を受けて、こう述べている。

 原発事故は「長期的な、被害規模が予測できないリスク」である。
 原発停止がもたらす電力不足や電気料金の高騰は「短期的な、被害規模が予測可能なリスク」である。
 再稼働反対の人たちは「長期的なリスク」を重く見る。
 賛成派は「短期的なリスク」を重く見る。
 その射程の違いが賛否をわけているということは、これまでに何度も書いてきた。
 野田首相は「長期的なリスク」を低く見積もり、「短期的なリスク」を高く見積もった。

読み返してみると、確かに【長期的なリスク】に対する論調が回りくどいのに対して
【短期的リスク】へのなんと軽やかな言説だろう。

今日、ビル清掃でいっしょに働くおじさんたちが「脱原発運動」について話していて驚いたのだけど、
「あんな事故、100年以上先まで起こらないよ」とその【長期的リスク】を一蹴していた。

正直、耳を疑った。これが市井の声なのか…って。

 「原発事故が起きた場合に損なわれる(かもしれない)国民生活より、
  電力高騰と電力不足によって(確実に)損なわれる国民生活の方を私は優先的に配慮したい」(野田総理)

そして、…この近視眼的思考。

福島の民は、完全に置き去りにされている。
現場を知らない…原発を知らない…無知の恐ろしさである。

      ●

で、サン・チャイルドである。
江東区の第五福竜丸展示館前に設置されている作家ヤノベケンジさんの作品だ。

ヤノベさんは、岡本太郎の太陽の塔近くで幼少を過ごし、多大な影響を受けて育った。
きっと「太郎の太陽」を受胎したのだと思う。
1997年自作の放射能防護服を着て原発事故後のチェルノブイリを訪問。
98年帰国後も、大阪万博跡地を中心に同プロジェクトを展開させ、
2003年には「太陽の塔」黄金の顔の目玉まで登頂していく《太陽の塔、乗っ取り計画》を敢行。
その作家活動は、岡本太郎の「太陽」が乗り移った…と言ってもいい。

そして、その集大成とも言える作品がこの「太陽の子=サン・チャイルド」だ。
   YouTube「太陽の子・太郎の子」

ヤノベさんの言葉。

 「立ち上がる人々」

  震災直後に動揺し、情報を得ようと自宅にいる間は
  テレビに食いつき迂闊にも見続けてしまった。

  しばらくすると横にいた幼い息子がつぶやいた
  「こんな世界で生きているほうが良いの?」

  あわててテレビを消した。 絶望の情報に押し流されている。

  確信した。
 
  今ここに芸術が必要か?の問いにハッキリと答えたい。
  今でこそ必要だ…と。

  絶望の嵐の中に敢然と足を踏ん張り、前を見据えて立ち向かう力を
  芸術は与えてくれる。

  勇気と希望に溢れるクリエイティビティは生きることへの尊厳を意味する。

  私たちは芸術の機能に信頼と誇りを持って「生きつづけよう」と
  思える魂を育てなければならない。

  想像しよう。廃墟の向こうにあるそれぞれの理想郷を。

  そして
 
  災害にあわれても生き抜こうと頑張っている方々

  決死の覚悟で災害を食い止めようとしている方々

  すべての人々に深い敬意を持って応援いたします。

さらに昨日の朝日新聞でのコメント。
「現実がこうなった以上、同じように作っていてもしょうがない。
 恥ずかしいぐらいポジティブなものを作ってもイイ」

防護服に身を包み、傷だらけの顔で空を仰ぐ。
放射線量を測る胸のカウンターはゼロ。

現実をしっかりと受け止め、それでも未来への希望を今、描こう。
廃墟の向こうにあるそれぞれの理想郷を、想像しよう。

近視眼で思考停止な輩は総理を筆頭に、うじゃうじゃいるけれども
この「太陽の子」に希望を託して、ボクもパラダイムシフトに尽力しよう…と思う。

ヤノベケンジ 《サン・チャイルド》 光臨プロジェクト in 福島ビエンナーレ2012 サポーター募集

【jun_08】MementoMoriについて(2)


UNITE!NIPPONにそのような疲弊感を抱いていたボクであったが、
猶予はない…このまま宙づりにしておくわけにはいかない…
ひとりひとりのアクションが社会を動かすのだ!という思いから、
Memento Mori」というワードに辿り着いた。

レヴィナスの「存在するとは別の仕方で」に感銘を受けたのも大きかったのだけど、
経済至上主義の何に違和感を覚えるか…って、前年度00%UP…という近視眼的な視野でもって、
経済活動の右肩上がりが絶対的な正義だと収斂されて、システムが一人歩きしてしまっている点だ。

その視点からは「脱原発」に伴う莫大な廃炉費用(およそ4兆4千億円)は、ありえない支出にしか見えない。
13,520トンにも及ぶ使用済み核燃料(2010年現在)の行く末など、1万年先は生きちゃいねえ…的他人事に終始する。

とにかく「今がサイコー!」だったら、それでいいじゃん。

ポーズとして、エコライフ気取って
適当に二酸化炭素の排出量も減らしておけば、
「輝く未来」に辿り着けるだろ…。

 「安定」は生きる本当の幸福ではなく、見ない・聞かない・考えない…の状態でしかない。 
                 (「魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない」保坂和志)

完全に思考停止なのだ。

何が欠けているって、そこには「己の死」が完全に抜け落ちている…と、思った。

己はいつか死ぬ、しかし、システムは、世界は、そのまま存続するだろう。
近視眼的にシステム存続に荷担するか。
己の終末を鑑みて、残り時間を有効に生きるか。

1年単位の繰り越しでは、5年10年はあっという間である。
しかし、「残り10年」と定めれば、1年1年を噛みしめて生きられるだろう。
いま必要なのは、ひとりひとりが、己の持ち時間を大切に思うこと。
その思いがあれば、未来はきっと開ける。

さらには人と人との交流の起源には、「祝福を贈るもの」という定義があるのだから。

 交換のもっとも原初的なカタチはキャッチボールだと思うんです。
 キャッチボールというのは、ボールのやりとりをしているだけで、何一つ価値を生み出さない。
 でも、僕たちは飽きずにこのやりとりを繰り返すことが出来る。
 いったい何がそうさせているのか。
 このゲームを成り立たせている本質は、ギリギリまで削ぎ落としてみると、
 「わたしはあなたがいないとゲームができない」というメッセージの贈り合いなんです。
 もっと強く言えば、「I can’t live without you(わたしはあなたがいないと生きられない)」
 という言葉を一球投げるごとに相手に贈っている。
 交換が目指している最終的な言葉というのもそれと同じだと思うんです。
 「わたしはあなたに存在してほしいと願っている」
 交換の場において、交換する人々はたがいに「あなたにはいつまでも生きていてほしい」
 (あなたがいないと、わたしは交換を続けることができないから)
 という言葉を贈り合っているわけです。経済活動の起源にあるのは、この祝福の言葉だとボクは思っています。
                               (「日本の文脈」内田樹氏談 )
 
UNITE!NIPPONを始めてから、いろいろな人たちとカメラを介して向き合ったけれど、
向き合ったふたりの間には「わたしには、あなたがいないと写真が残せない」という究極のやりとり、
そう、「わたしはあなたに存在してほしいと願っている」というメッセージの贈り合いがあったのだ…と
今にしてみれば、思うことが出来る。

同時代を生きるからこそ、共鳴しあえるものがある。

長い説明になったけれど、そんな経緯があって、オキナワから「Memento Mori」を始めることとした。

 「あと何年生きられると思いますか?」「それまでにやり遂げておきたいことはなんですか?」

2つの質問に対してボードに答えを書いてもらう。
「己の死」を見つめることで、「今、此処」が掛け替えのないモノに思えてくる。
ボクのボードにある「未来に借りをつくらない」とは、
問題を先送りしない…というニュアンス。お金(利子)の問題しかり、原発(廃棄物)の問題しかり。
己の「残り時間」に意識的になれば、物事の締めくくりにも責任もって対処できる。

ゴミの問題もそう。今はいろんな材質が可燃ゴミで一緒くたになっているけど、
あらゆるゴミを燃焼させるのに、どれだけ無駄なエネルギーが投資されているか。
毎日ゴミ収集をしていて思うのだけど、生産する企業もちゃんと廃棄のことまで意識しているのだろうか…と勘ぐってしまう。

とにかく、今の世の中、尻ぬぐいを人に任せ過ぎなのだ。

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【jun_08】Memento Moriについて(1)


Memento Mori【沖縄篇】をYouTubeにUP。

震災後、UNITE!NIPPONというカタチで
「自分たちの未来を今、引き受けよう!」というキャッチフレーズのもと、
被災地や友人知人などふくめて600人以上の人々と対峙し、笑顔を撮影してきた。

今ニッポンを変えなくて、どうする?

そんな気概が震災直後は街に溢れていた。
しかし、1年という月日がながれ、人々の目線は自然と
今の自分を取り巻く状況へと向き出し、
ボードへのコメントもありふれた美辞麗句へと変貌しつつあった。

 民主主義が効果的に機能するのは、血を流してこのシステムを作った人が現にいるのだという切迫感、
 その人たちから贈与されたものであるという被贈与の感覚があってこそだと思うんです。
 アメリカの民主主義も、建国の父たちの血で購った独立国家民主制なわけで、
 身銭を切ってわれわれにこのシステムを寄贈してくれた先人がいるんだという被贈与の感覚があるときには、
 民主主義が健全に機能する。でもその「感謝の気持ち」が時間とともに希薄化していって、
 デモクラシーというシステムがまるで昔から自然物のようにずっとあったものだと思い出すと、うまく機能しなくなる。
 民主主義というシステムは、たえず誰かが身銭を切って下支えしないと保たないんです。
 支え手がいなくなってしまうと、プラスティックの構造体が宙に浮いているようなものになってしまう。
 生身の人間が分泌する情念とか名誉心とか理想とか、そういう生き生きとしたものが民主主義のシステムを下支えしている。
 そのような生命的なモノの備給が絶たれると、それはカタチだけは民主主義だけれど、劣化した民主主義になってしまう。
 みんなが民主主義というシステムから自分はどういう利益を引き出せるのか、
 どういう権利を行使できるのかだけを考えるようになって、民主主義を支えるためにどんな仕事があるのかを
 問わなくなってしまう。それはアメリカでもヨーロッパでもニッポンでも同じですね。
                          (「日本の文脈」220p 内田樹氏談)

やはり日常に埋没することで、いま現在の生活が、
恒常的に営まれるのだ…と錯覚してしまうのだろう。

67年前は国家に盲従して、自決すら余儀なくされていた…というのに。

内田氏が語るように現在は民主主義に馴れすぎて、
「自分はどういう利益を引き出せるのか、どういう権利を行使できるのか」
全国民が常に消費者マインドの立ち位置で、社会と対峙している…と思う。

経済至上主義の毒牙に思考がやられてしまっている。

この社会は決して強固なモノではなく、まして与えられたモノでもなく、
国民ひとりひとりの意識の総和として存在しているのだ…という
その当たり前な視点が欠如してしまったのだ。

UNITE!NIPPONは、「未来を引き受ける」つまり、
自分たちの手で未来を構築することを意識すべくアクションしたもの。

残念ながら、1年の月日は、
人々からその思いを摩耗させてしまった。

つづく。

【jun_09】今泉希一


YouTubeに「Memento Mori 【沖縄篇】」をUP。

楽曲は「うたかた/ちみん

  混ざるのさ 深いところで
  青々と うねる波の中で
 
  夢から醒めないで
  夢から醒めないで

  陽射しが うずまいて 
  緑色に 染まるとき

  ざぶざぶと 音立てて
  面影は 甦る

  混ざるのさ 深いところで
  青々と うねる波の中で

「死を想え」というイメージを
 ちみんさんに投げかけたとき
 送ってもらった楽曲が「うたかた」でした。

鎮魂の旋律の中に、生命の迸りが怒濤のように蠢いています。
詞を辿りながら、曲の中に身を横たえていると、はじける色彩にハッとさせられます。
そのぐらい「今、此処」と「冥福」の時をつなぐ楽曲だと思います。

ちみんさん、ありがとう。

【jun_04】11.25自決の日


2日より公開、若松孝二監督の映画
11.25自決の日ー三島由紀夫と若者たち-」を観る。

男子中学校の入学式で「S・E・X」と
大きく書かれた黒板にも意味不明だったウブなボクは、
男子校独特の「性」教育で驚愕の毎日を送った。

授業中に回ってくる「ウラ本」と呼ばれる
淫らな肢体がびっしりこってり詰まった写真集。
それを見ながら自慰にふける級友の男性器の屹立。
通学途中に女子高生にナンパされたとうそぶく美しき男子。

免疫のないボクには、すべてが過剰で濃厚な性の洗礼。

そして極めつけが、帰宅途中に級友が漏らした
三島由紀夫の自決と同性愛の話。

「仮面の告白をまずは読むといいよ」
その級友は青白い顔でささやくように言った。

男が女を求める…という自然の摂理を体得する前に
ムリコジ押し込められた徒花。
教室でしごかれた男性器の、あまりにも大きな逸物が頭をよぎった。

「…同性愛?」

男が男を愛する?
肛門?刀?
腹を切るエクスタシー?
なにそれ?

…三島由紀夫。

三島との出会いは
何よりも増して破廉恥至極なものとして
ボクの記憶に深く刻まれる。

   ●

それからというもの、
三島由紀夫はボクの性癖を象る象徴として
男根の屹立とともに存在している。

特に自決へ至る後半生の
そのなだれ込むような崩壊ぶりには、
「豊饒の海」の長大な幻想小説とともに、
ボクの中核をなしている。

   ●

この映画によって三島由紀夫はますます
そのステレオタイプな偶像を背負い込むことになったが、

「豊饒の海」を読めば、
三島の国粋主義が表面的なものだと
いうことが、すぐわかる。

11/25の自決の日に妻に託した最終稿。
「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った」
これから自決するような意志をもった人間が、虚ろな眼で世界を見ている。

ニッポンの未来を案じ、己の死をもって訴えようという人が、
遺作となる小説の結末を「虚ろ」で締め括るとは、どういうことか?

だいたいこれだけの国粋論をぶった人の邸宅が、
ギリシャ彫刻や舶来の調度品に彩られているのはどういうことか?

規律を持って武士道を貫き、切腹で果てようという人が、
背徳趣味の好々爺を主人公に据えた物語を書くだろうか?

どこまでも不可思議な人、それが三島由紀夫だ。

結局、「生まれたときの記憶がある」と豪語するような
意思100%で世界と対峙しようとした男の最期は、
己が抱える「自然」をコントロールできずに破滅した。

11/25の切腹は、「どこまでも意思を貫いた作家」というイメージで
己を封印するためのとてつもない代償であり、
仮面でもって世界に対峙してしまった男の、必然の幕引きであった。

この破綻の仕方が、人間至上主義の限界を体現しているし、
「自決」でもっていち早くその破綻ぶりを清算した三島由紀夫という人物は、
いつまでも「原発」に幻想を抱いている旧人類たちに比べれば
よっぽど「人間的だった」というアンチテーゼを示しているとも言える。

とにかく知れば知るほど、我々ニッポン人を取り巻く世界は
ミシマ的「戦後」の呪縛に拘泥しているのだ…とわかってくる。

ミシマを繙くことで、至るべき世界が見えてくる。

面白いなあ…と、噛みしめる。

【may_21】annular eclipse


本日、金環日蝕。
日蝕」と書くと、なんだか厭世的な印象が伴う。
「日食」のあっけらかんとした表層的な捉え方より、
日蝕」の含みを持った字面が、本来はふさわしいのではないか。

2009年7月22日の「日蝕」のときは沖縄だったので(写真はその時のモノ)
字の如く太陽が蝕まれ、晴天なのに雨雲に覆われたような光の喪われ方で、
体感温度も2度ほど下がったような感じになり、「おお、天誅なり!」と
思わず太陽神に祈りを捧げたものだけど、

今日の朝、ビル清掃の合間を縫って見上げた東の空は、
3年前同様、減光フィルターをかけたような色気のない情景となり、
東京のグレイッシュな街並とあいまって、その天誅度は増したように思えた。

それはやはり東日本の震災の情景を思い出させた。

人間の営みなんてものは、自然の猛威に比べれば露程のものでもなく、
太陽がこうして一瞬たりといえど暗黒に転化するだけで、決定的となる。
「天体ショーだ、日食だぁ」と、ひとつのイベントとして捉えれば、
それは過ぎ去っていくものでしかないのだけれど、
その背景にある宇宙のスケールと、摂理の不可思議さに思いを巡らせれば、
人間なんてものは、己の運命すら天任せな存在なのだ…と、
謙虚な気持ちに立ち返られるというもの。

まさに震災で思い知らされた人間の営みの「うたかた」さ加減は、
身の丈を弁えて日々を積み重ねることに尽きるのだ…と受け止めることでしか、
体得しえないたぐいの、現実であった。

…太陽が蝕まれる。

天体ショーではなく、現実として、そこに在る。

…午前7時30分からほんの数分の出来事…と予定調和に感ずるのではなく、
マウンダー極小期」として来年から70年間は、気温が2度下がるのだ…という氷河期のイメージも膨らませて、
自分がいまここに存在するのは、希有なことなのだ、とその僥倖を噛みしめる。

そのような視野で世界を見渡せば、
世の中の歪みの根本はすべて、人間のその傲慢さに依るものだ…と、わかるはずなのに。

読売新聞主筆の渡邉恒雄は語る。
 「そもそも日本が脱原発をしたところで、隣の中国は今後、
  黄海から東シナ海沿岸にかけて二百基もの原発をつくるという。
  中国高速鉄道の事故の例を引くまでもなく、中国の技術力の限界というのは想像がつく。
  もし、中国の原発が事故を起こせば、その放射能は偏西風に乗って黄砂とともにニッポンにやってくる。
  その事実に眼をつぶって、脱原発を叫んだところで意味はあるまい。
  それよりは、日本が開発したより安全な原発を中国に輸出するほうが、
  日本の安全保障上はるかに有効ではないだろうか」(文藝春秋4月号101pより)

ナベツネは今日の「日蝕」を楽しんだのだろうか?

【may_13】防人の詩


防人の詩/さだまさし

おしえてください

この世に生きとし生けるものの
すべての生命に限りがあるのならば

海は死にますか?
山は死にますか?
風はどうですか?
空もそうですか?

おしえてください

わたしは時折 苦しみについて考えます
誰もが等しく 抱いた哀しみについて

生きる苦しみと 老いてゆく哀しみと
病いの苦しみと 死に逝く哀しみと
今の自分と

こたえてください

この世のありとあらゆるものの
すべての命に 約束があるのなら

春は死にますか?
秋は死にますか?
夏が去るように
冬が来るように
みんな逝くのですか?

わずかな生命の きらめきを信じていいですか?
言葉で見えない 望みといったものを

去る人があれば 
来る人もあって
欠けてゆく月も
やがて満ちてくる
なりわいの中で

おしえてください

この世に生きとし生けるものの
すべての生命に 限りがあるのならば

海は死にますか?
山は死にますか?
春は死にますか?
秋は死にますか?
愛は死にますか?
心は死にますか?

わたしの大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか?

海は死にますか?
山は死にますか?
春は死にますか?
秋は死にますか?
愛は死にますか?
心は死にますか?
わたしの大切な故郷もみんな
逝ってしまいますか?

    ●

いつのころからか、死が隠蔽されているように思う。
死を無きものとして、今を生きる風潮。

1974年には、こういった歌が
ふつうにラジオから流れていたのだろう。

それだけ死は身近なものだったし、
生きることにも精一杯な時代だった。

2012年。

この歌から38年。
死は忌むべきものとして避けられ、
思考からも外された結果、
人間の営みの振幅もさもしいモノとなってしまったように思う。

今こそ、死を復権させるべき時。
死についての思いを巡らすことで、
生命のきらめきが甦るのだ。

MEMENTO MORI
死を想え

己の死から今をみつめる。
いずれ来る死から今を照射する。
そうすれば為すべきことも
見えてくるというもの。

歌にもあるように
欠けてゆく月も
やがて満ちてくる。
生と死はコインの表と裏。
死から生のエッジが際立つ。

大切なのは、漠然と死を考えるのではなく、
己の死を見つめることだと、思う。

     ●

05/13はChet Bakerと日野元彦さんの命日。

【may_04】存在するとは別の仕方で


あと数時間後に、日本の原子力発電所54基すべてが停止する。
あれだけの人災(もはや取り返しのつかない)を起こしてしまったのだから、当然である。

…それなのに、いまだ日本政府は「脱原発」を将来の指針として明言していない。
 さらに電力各社は、夏の電力供給が追いつかないことばかり声高にするだけだ。

なぜ、ニッポンはここまでコトの重大さを棚上げしているのだろう。

内田樹の「他者と死者」を熟読する。
フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスを
同じく哲学者のジャック・ラカンの文献から繙いたものである。

レヴィナスによる人生の請け負い方…といったら良いだろうか。

ユダヤ人であったレヴィナスは、ナチスによるホロコーストを目の辺りにする。
しかし彼は軍事通訳として従軍、フランス軍兵士として捕虜となったために
強制収容所行きをまぬかれ、「ホロコーストの生き残り」として戦後を迎えてしまう。

比較的過ごしやすい収容所生活を送っていたその同じ時期に、
沢山の同胞たちが無惨な死を強いられた…という事実。

「生き残ってしまった…なぜに?」という自問を繰り返すレヴィナス。

その問いかけの徹底が、ドイツの潔さにつながっている…と言い切っても良いと思う。
(「潔さ」とは、ナチスの過ちについての引き受け方としても、原発への指針としても)
デカルトの「コギト(我思う故に我在り)」的存在論を通り越した「存在するとは別の仕方で」という命題。
国家社会主義者たちによって虐殺された六百万人の「死者」への責任を己に問い糾すことで、
自身がいまこの世に存在することの意味を確認する。究極のカタチで。

「無意味に死んだ」同胞たちの死に責務を負い、彼らの分の未来に向けて「最善」を尽くす。

…それはつまり、死者の存在が,自身の存在を相補完していると考える。
 無意味に死んだ六百万人の魂は「死者」としてレヴィナスの存在を支えている。
 死者が生きたであろう未来に向けて「最善」を尽くす…とは、
 今生きている「隣人(他者)」の未来に向けて「最善」を尽くすということである。

ではなにをもって「最善」だと言えるのか?

…そこでレヴィナスは未来から過去への時間軸でもって、その答えを見出す。

「隣人(他者)」に向けて「最善」とはどういうことか?
「死者」の未来に向けて「最善」とはどのように推し量ることなのか?

「死者」がその「最善」の是非によって、自身を罰するのか?
「他者」がその「最善」によって、自身を恨むのか?
しかし、その「最善」を実行しないうちには、その選択が「最善」であったかどうかは伺い知れない。
それでも「最善」を尽くすことが可能なのか?

こうなるともはや「神の御名において」最善を尽くす…としか言えなくなるのではないか…。
結局のところ「死者」や「他者」は「神」と同義なのだけれど、
「神の御名において」最善を…となると、己自身がどう裁かれるか…という
ある種、「神はみている」的戒律への盲従に帰する。
それでは、「死者」や「他者」の未来への責任というのは、懲罰への恐れから来ることになり、
己自身も「死者」に収斂され、その未来への責任を全うすることができない。

だから「存在とは別の仕方で」コトに当たらなければならないのだ。

非常にややこしい話だけれど、存在する存在しないの文脈で
未来への責務を負ってはならない…というのがレヴィナスの人生の請け負い方なのだ。

  驚くべきことだが、レヴィナスにおいて、倫理を最終的に基礎づけるのは、
  私に命令を下す神ではなく、神の命令を「外傷的(トラウマ)な仕方」で聴き取ってしまった私自身なのである。
                         (内田樹「死者と他者」)

これだけの内容を1時間やそこらで噛み砕こうとするのが間違いだけれど、
「ホロコースト」も「東日本大震災」も無意味な死を迎えてしまった「死者」に対して
「生き残った」私たちは、その未来を引き受けて「最善」を尽くさなければならないわけで、

思うに、私たちが「生き残った(存在している)」状態とは
常に「死者」の存在が相補的な振る舞いでもって支えていることを肝に銘じなければならない。
それはつまり「他者」たち…浮浪者・政治家・猟奇殺人者をも含めた…とも相補的な関係である…ということ。
この世に存在するとは…アインシュタインの相対性理論と同様、相対的なものなのだ。

この「相対的」という感覚が掴めただけでも、ボクは進歩だと思った。
ボクの存在は「死者」や「他者」と「相対的」である。
「相対的」な視点で物事を眺めてみると、「最善」の理屈も…見えてくるから、不思議だ。

とにかく、これから先の未来は、四次元的思考で捉える。
それが「存在するとは別の仕方」なのだと思う。