【jun_08】MementoMoriについて(2)


UNITE!NIPPONにそのような疲弊感を抱いていたボクであったが、
猶予はない…このまま宙づりにしておくわけにはいかない…
ひとりひとりのアクションが社会を動かすのだ!という思いから、
Memento Mori」というワードに辿り着いた。

レヴィナスの「存在するとは別の仕方で」に感銘を受けたのも大きかったのだけど、
経済至上主義の何に違和感を覚えるか…って、前年度00%UP…という近視眼的な視野でもって、
経済活動の右肩上がりが絶対的な正義だと収斂されて、システムが一人歩きしてしまっている点だ。

その視点からは「脱原発」に伴う莫大な廃炉費用(およそ4兆4千億円)は、ありえない支出にしか見えない。
13,520トンにも及ぶ使用済み核燃料(2010年現在)の行く末など、1万年先は生きちゃいねえ…的他人事に終始する。

とにかく「今がサイコー!」だったら、それでいいじゃん。

ポーズとして、エコライフ気取って
適当に二酸化炭素の排出量も減らしておけば、
「輝く未来」に辿り着けるだろ…。

 「安定」は生きる本当の幸福ではなく、見ない・聞かない・考えない…の状態でしかない。 
                 (「魚は海の中で眠れるが鳥は空の中では眠れない」保坂和志)

完全に思考停止なのだ。

何が欠けているって、そこには「己の死」が完全に抜け落ちている…と、思った。

己はいつか死ぬ、しかし、システムは、世界は、そのまま存続するだろう。
近視眼的にシステム存続に荷担するか。
己の終末を鑑みて、残り時間を有効に生きるか。

1年単位の繰り越しでは、5年10年はあっという間である。
しかし、「残り10年」と定めれば、1年1年を噛みしめて生きられるだろう。
いま必要なのは、ひとりひとりが、己の持ち時間を大切に思うこと。
その思いがあれば、未来はきっと開ける。

さらには人と人との交流の起源には、「祝福を贈るもの」という定義があるのだから。

 交換のもっとも原初的なカタチはキャッチボールだと思うんです。
 キャッチボールというのは、ボールのやりとりをしているだけで、何一つ価値を生み出さない。
 でも、僕たちは飽きずにこのやりとりを繰り返すことが出来る。
 いったい何がそうさせているのか。
 このゲームを成り立たせている本質は、ギリギリまで削ぎ落としてみると、
 「わたしはあなたがいないとゲームができない」というメッセージの贈り合いなんです。
 もっと強く言えば、「I can’t live without you(わたしはあなたがいないと生きられない)」
 という言葉を一球投げるごとに相手に贈っている。
 交換が目指している最終的な言葉というのもそれと同じだと思うんです。
 「わたしはあなたに存在してほしいと願っている」
 交換の場において、交換する人々はたがいに「あなたにはいつまでも生きていてほしい」
 (あなたがいないと、わたしは交換を続けることができないから)
 という言葉を贈り合っているわけです。経済活動の起源にあるのは、この祝福の言葉だとボクは思っています。
                               (「日本の文脈」内田樹氏談 )
 
UNITE!NIPPONを始めてから、いろいろな人たちとカメラを介して向き合ったけれど、
向き合ったふたりの間には「わたしには、あなたがいないと写真が残せない」という究極のやりとり、
そう、「わたしはあなたに存在してほしいと願っている」というメッセージの贈り合いがあったのだ…と
今にしてみれば、思うことが出来る。

同時代を生きるからこそ、共鳴しあえるものがある。

長い説明になったけれど、そんな経緯があって、オキナワから「Memento Mori」を始めることとした。

 「あと何年生きられると思いますか?」「それまでにやり遂げておきたいことはなんですか?」

2つの質問に対してボードに答えを書いてもらう。
「己の死」を見つめることで、「今、此処」が掛け替えのないモノに思えてくる。
ボクのボードにある「未来に借りをつくらない」とは、
問題を先送りしない…というニュアンス。お金(利子)の問題しかり、原発(廃棄物)の問題しかり。
己の「残り時間」に意識的になれば、物事の締めくくりにも責任もって対処できる。

ゴミの問題もそう。今はいろんな材質が可燃ゴミで一緒くたになっているけど、
あらゆるゴミを燃焼させるのに、どれだけ無駄なエネルギーが投資されているか。
毎日ゴミ収集をしていて思うのだけど、生産する企業もちゃんと廃棄のことまで意識しているのだろうか…と勘ぐってしまう。

とにかく、今の世の中、尻ぬぐいを人に任せ過ぎなのだ。

i