
2日より公開、若松孝二監督の映画
「11.25自決の日ー三島由紀夫と若者たち-」を観る。
男子中学校の入学式で「S・E・X」と
大きく書かれた黒板にも意味不明だったウブなボクは、
男子校独特の「性」教育で驚愕の毎日を送った。
授業中に回ってくる「ウラ本」と呼ばれる
淫らな肢体がびっしりこってり詰まった写真集。
それを見ながら自慰にふける級友の男性器の屹立。
通学途中に女子高生にナンパされたとうそぶく美しき男子。
免疫のないボクには、すべてが過剰で濃厚な性の洗礼。
そして極めつけが、帰宅途中に級友が漏らした
三島由紀夫の自決と同性愛の話。
「仮面の告白をまずは読むといいよ」
その級友は青白い顔でささやくように言った。
男が女を求める…という自然の摂理を体得する前に
ムリコジ押し込められた徒花。
教室でしごかれた男性器の、あまりにも大きな逸物が頭をよぎった。
「…同性愛?」
男が男を愛する?
肛門?刀?
腹を切るエクスタシー?
なにそれ?
…三島由紀夫。
三島との出会いは
何よりも増して破廉恥至極なものとして
ボクの記憶に深く刻まれる。
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それからというもの、
三島由紀夫はボクの性癖を象る象徴として
男根の屹立とともに存在している。
特に自決へ至る後半生の
そのなだれ込むような崩壊ぶりには、
「豊饒の海」の長大な幻想小説とともに、
ボクの中核をなしている。
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この映画によって三島由紀夫はますます
そのステレオタイプな偶像を背負い込むことになったが、
「豊饒の海」を読めば、
三島の国粋主義が表面的なものだと
いうことが、すぐわかる。
11/25の自決の日に妻に託した最終稿。
「記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った」
これから自決するような意志をもった人間が、虚ろな眼で世界を見ている。
ニッポンの未来を案じ、己の死をもって訴えようという人が、
遺作となる小説の結末を「虚ろ」で締め括るとは、どういうことか?
だいたいこれだけの国粋論をぶった人の邸宅が、
ギリシャ彫刻や舶来の調度品に彩られているのはどういうことか?
規律を持って武士道を貫き、切腹で果てようという人が、
背徳趣味の好々爺を主人公に据えた物語を書くだろうか?
どこまでも不可思議な人、それが三島由紀夫だ。
結局、「生まれたときの記憶がある」と豪語するような
意思100%で世界と対峙しようとした男の最期は、
己が抱える「自然」をコントロールできずに破滅した。
11/25の切腹は、「どこまでも意思を貫いた作家」というイメージで
己を封印するためのとてつもない代償であり、
仮面でもって世界に対峙してしまった男の、必然の幕引きであった。
この破綻の仕方が、人間至上主義の限界を体現しているし、
「自決」でもっていち早くその破綻ぶりを清算した三島由紀夫という人物は、
いつまでも「原発」に幻想を抱いている旧人類たちに比べれば
よっぽど「人間的だった」というアンチテーゼを示しているとも言える。
とにかく知れば知るほど、我々ニッポン人を取り巻く世界は
ミシマ的「戦後」の呪縛に拘泥しているのだ…とわかってくる。
ミシマを繙くことで、至るべき世界が見えてくる。
面白いなあ…と、噛みしめる。