
Memento Mori【沖縄篇】をYouTubeにUP。
震災後、UNITE!NIPPONというカタチで
「自分たちの未来を今、引き受けよう!」というキャッチフレーズのもと、
被災地や友人知人などふくめて600人以上の人々と対峙し、笑顔を撮影してきた。
今ニッポンを変えなくて、どうする?
そんな気概が震災直後は街に溢れていた。
しかし、1年という月日がながれ、人々の目線は自然と
今の自分を取り巻く状況へと向き出し、
ボードへのコメントもありふれた美辞麗句へと変貌しつつあった。
民主主義が効果的に機能するのは、血を流してこのシステムを作った人が現にいるのだという切迫感、
その人たちから贈与されたものであるという被贈与の感覚があってこそだと思うんです。
アメリカの民主主義も、建国の父たちの血で購った独立国家民主制なわけで、
身銭を切ってわれわれにこのシステムを寄贈してくれた先人がいるんだという被贈与の感覚があるときには、
民主主義が健全に機能する。でもその「感謝の気持ち」が時間とともに希薄化していって、
デモクラシーというシステムがまるで昔から自然物のようにずっとあったものだと思い出すと、うまく機能しなくなる。
民主主義というシステムは、たえず誰かが身銭を切って下支えしないと保たないんです。
支え手がいなくなってしまうと、プラスティックの構造体が宙に浮いているようなものになってしまう。
生身の人間が分泌する情念とか名誉心とか理想とか、そういう生き生きとしたものが民主主義のシステムを下支えしている。
そのような生命的なモノの備給が絶たれると、それはカタチだけは民主主義だけれど、劣化した民主主義になってしまう。
みんなが民主主義というシステムから自分はどういう利益を引き出せるのか、
どういう権利を行使できるのかだけを考えるようになって、民主主義を支えるためにどんな仕事があるのかを
問わなくなってしまう。それはアメリカでもヨーロッパでもニッポンでも同じですね。
(「日本の文脈」220p 内田樹氏談)
やはり日常に埋没することで、いま現在の生活が、
恒常的に営まれるのだ…と錯覚してしまうのだろう。
67年前は国家に盲従して、自決すら余儀なくされていた…というのに。
内田氏が語るように現在は民主主義に馴れすぎて、
「自分はどういう利益を引き出せるのか、どういう権利を行使できるのか」
全国民が常に消費者マインドの立ち位置で、社会と対峙している…と思う。
経済至上主義の毒牙に思考がやられてしまっている。
この社会は決して強固なモノではなく、まして与えられたモノでもなく、
国民ひとりひとりの意識の総和として存在しているのだ…という
その当たり前な視点が欠如してしまったのだ。
UNITE!NIPPONは、「未来を引き受ける」つまり、
自分たちの手で未来を構築することを意識すべくアクションしたもの。
残念ながら、1年の月日は、
人々からその思いを摩耗させてしまった。
つづく。