【Dec_16】金箱淳一

金箱淳一さん。
石巻ドローイングプロジェクトの主宰。
今回はClap_Lightを工作→実践するのが目的。
【aug_08】紀美野町立小川小学校

多摩美校友会の「出前アート大学」撮影同行で
和歌山県紀美野町へ。
山と川と、大きい空と。
頭を垂れた稲穂の田園風景が広がる。
先週行った南相馬小高区の情景が思い起こされる。
田んぼという田んぼに繁茂するセイタカアワダチソウ…。
里山。自然と人間が共生するニッポンならではの自然信仰。
ああ、なんということか。
和歌山も福島も、足を踏み入れれば、
ニッポンの原風景が広がっているのだ。
ここに今、戻らずして、ニッポンは
どこに進もうとしているのだろう。
●
出前アート大学の講師は近藤晃子さん。
perchというインスタレーションの作品では、ボタンのついたゴムが空間に張り巡らされ、
観客もいっしょになって、そのボタンに切り刻んだフェルトをつけることで完成する。
作業を共有する、空間を共有することで、その媒介となった作品がさまざまな変化を遂げ、
観る者、参加した者の心になにかを残してくれる…そんな共有体験を大事にする作家だ。
今回の小川小学校全校生徒16人との授業でも子どもたちは、
ひとつの空間を先生といっしょになって試行錯誤することで、創ることの悦びを体感することが出来た。
なにより、一日どんなことをしても許される時間…というのが、
解放的でたまらなかったことだろう。
里山に囲まれた子どもたちであっても、
無意識に大人社会のルールに縛られている。
アートは、そういった社会的束縛が「かりそめ」のものであることを
創る行為を通じて体感することができる、格好の題材なのだ。
全校生徒2年生から6年生まで16人。
当然下級生も上級生もなく、お互いが相手の存在を敬って
それぞれの持ち味を尊重しながら、作業が進む。
時にはお兄ちゃんが弟を庇うように、
上級生が下級生の作業を手伝うこともあるが、
基本的にはそれぞれが思い思いに出来ることをしていた。
それは家族のような様態だった。
言わずとも相手の欲していること、求めていることを把握し、
やりやすいように先回りする…といった具合。
その「あうん」の呼吸がすばらしい。
思い思いにフェルトを刻み、空間を彩り、自分たちのお気に入りの場所に仕立てていく。
その作業の中で、創ることの新しさ、創造することの素晴らしさを心に刻む。
●
ニッポンの教育方針で大きく欠けているのが、この懐の深さだと思った。
なにをやっても許されるはずの子供の時代から、
大人たちは教育のあるべき姿、将来のあるべき姿を提示し、
そのベクトルへ向かっての授業を推し進める。
習得の度合いを5段階評価で与え、低評価はとどのつまり劣等であるとのレッテル。
一方向の明示されたベクトルから外れたことが、即人間未満、成熟未満につながるから、
本来は伸び伸び生を謳歌するはずの子供の時代から、
大人の顔色をうかがうような振る舞いが生まれてしまうのだ。
だから、教育現場はアートを扱うことができない。
何をやっても許される…じゃ、どう評価をつけていいか、わからない。
そんな曖昧模糊な分野は取扱が不便だから、割愛しちゃいましょ…と、
受験科目を必修、その他をオプションと線引きすることで、
子供の領域から、アート、音楽、家庭科といったものを低く見積もった。
その結果が、いまの世の中だと、ボクは痛感する。
ことのはじめに「何をやっても許される」前提がまずあれば、
ニッポン社会はもっともっと多様性を重んじ、それぞれの価値を敬う、
成熟した社会へと進むことができたのだと、悔やまれる。
いま、ホントに必要なのは、このアートの領域である。
社会人の大半が芸術へのルサンチマンに満ち、
自分が理解できないもの、理屈が通らないものへの不寛容に溢れているのは、
そもそもこのアート「何をやっても許される」領域を低く見積もったゆえの結果である。
芸術は元々、自然と人間とをとりもつ鎹(かすがい)の役割を果たしていた
…というその太古の事実を軽視したがゆえの、不寛容さ、受入なさは、結局人間至上主義の偏った社会を生む。
特にニッポンの風土は自然との共生なしにはありえない島国だ。
堅牢な岩に囲まれ、自然を拒絶することで生きらえた欧米とは訳が違う。
太古から自然を取り込み、霊を取り込み、現世だけでなく異次元までも取り込むことで
バランスを取っていた社会の成り立ちがあったのだ。
芸能芸術あっての人間社会であることを肝に銘じなければ、今後はならないと思う。
里山で快活に振る舞う紀美野町の子どもたちと触れあって、
その事実を再び心に刻んだ次第。
いま必要なのは、アートだ…と。
【jul_28】出前あーと大学

8月におこなわれる出前あーと大学の打ち合わせで多摩美上野毛校舎へ。
今回はなんと、和歌山県紀美野町。
初の出張撮影である。
講師をつとめるのは近藤晃子さん。
去年大学を卒業したばかりの超若手作家。
作品は「観客参加型インスタレーション_parch」
空間にボタンをつけたゴム紐を巡らし、
さまざまな大きさに切ったフェルトを観客が思い思いに取り付けることで、
その「営み」がそのまま作品になる。
今回は子どもたちが空間を彩る。
試行錯誤の結果見えてくるモノが、楽しみ。
紀美野町は青い空と緑の、ニッポンの原風景みたいなところ。
きっと天然コケッコーな展開が生まれることだろう。
【jul_22】紅型展

日曜日までとなった「紅型展」に滑り込みで鑑賞。
あらためて「紅型」の奥の深さ…というか、
気の遠くなるような工程を追体験して、
琉球王国の文化水準の高さに、脱帽。
時間の流れが、久遠。
あの空と海だからこそ、
ゆったりとした贅沢な時間にひたれるのだろうか。
ニッポンはどこに向かっているのだろう。
【jul_06】base_cafe

ひとつ、抜け落ちてました。
吉祥寺のbase_cafeにて行われていた
藤川孝之さんの個展。
時代がどんな状況に陥ろうとも、
このひとは決して絵筆を手放さないだろう。
そんな一徹でマイペースな藤川さん。
今回の個展では、
ライブスケッチの催しを。
およそ30分の時間で、
お客さんをスケッチする。
「初見で特長をどこまで捉えられるかが、ポイント」
…とは、藤川画伯の弁。
実際、その場に居合わすことが出来たのだけど、
画伯の集中力はすばらしかった。
無音の中での30分、鉛筆の先が紙にこすれる…その音しか聞こえない。
モデルとなったお客さんも相当緊張されていた…ことだろう。
しかし、画伯も妥協を許さない。
スケッチ終了後も、その30分を反芻するかのように、
モデルなしでふたたび白紙にペンを走らせる。
「もっと相手の核を捉えなきゃダメだなあ。フォルムに気を取られちゃったなあ」
いつまでも集中力の途切れることはなかった。
感服しました。
【on_Flickr】尾花藍子_soiree
【jun_27】高円寺amp_cafe
高円寺の南の外れ。決して中心部じゃないところに、
さまざまなイベントを行う空間がある。
アートパフォーマンス、音楽ライブ、ギャラリー。
白い箱をアーティストが染め上げる。
近くには公園もあり、なんとも長閑だ。
高円寺というオリジンな場所だからこそ、
こういった独立独歩の空間が、気持ち良い。
【on_Flickr】尾花藍子_matinee
【jun_27】尾花藍子新作公演

アーティスト尾花藍子さんの新作公演。
高円寺ampにて。
リハから立ち会い、
マチネ、ソワレをそれぞれ撮影。
アーティストの創作現場に密着するカタチとなった。
本人の意図と観客の反応のギャップ、
空気感のズレ、音響の受け止め方の違い…など、
自然光のマチネ、人口光のソワレで作品が変化する。
それでもクリエイティブで
人は何かを伝えようともがく。
その姿がうつくしいと思った。



