【Jul_30】JAZZ喫茶MEGはHumphrey Bogartのマッチ

「いーぐる連続講演第593回 これからのジャズ喫茶を考えるシンポジウム」@四谷いーぐる
主催→東京・四谷三丁目の「喫茶茶会記」店主福地史人氏。
パネリスト→東京・新井薬師「ロンパーチッチ」店主齊藤外志雄氏、
東京・渋谷「渋谷SWING」店主鈴木興氏
東京・祐天寺「Kissa BossaUmineko 」店主中村大祐氏
以上4名の「新興JAZZ喫茶」店主をメインパネリストに、
会場に駆けつけたJAZZ喫茶関係者の声なども交えながら、
午後3時30分から午後6時30分までの3時間にわたって
「JAZZ喫茶とは?」の熱いトークが繰り広げられました。
ボクも89年から91年にかけて吉祥寺MEGという老舗ジャズ喫茶で3年間、
【レコード係】兼【店番】という業務を「時給500円」で毎週土日、
昼12時から夜12時までの12時間、
弁当持ち込みでぶっとおしJAZZ三昧という日常を送っていたので、
JAZZおよびJAZZ喫茶にはホームのような愛着とともに、
甘酸っぱい思い出や仰天な思い出も沢山あるのです。
今でもJAZZには音楽としての要素以上に、
中上健次や村上龍の斜に構えた文学や、
BlueNoteのジャケデザイン、
黒人たちの醸し出す求心的雰囲気…などなど、
ボクの精神や思考や感性に特大の影響を与えています。
そんな拠り所たるJAZZ喫茶についてのシンポジウム、
経営としての側面など存続するためのシビアな話もあり、
ボクが憧れとして浸かっていたJAZZ喫茶とは違う一面もあって、
神妙な気持ちになりましたが、
なによりJBLのスピーカーから流れる大音量のJAZZを久しぶりに体感して、
50年代のミュージシャンたちの音楽への息遣いがびんびん伝わってきて、
「おおお、JAZZだ〜」と心底奮えました。
やはり、この音楽にはINSIST=明らかな主張があり、
それが聴く者を揺さぶるのです。
こういう音楽体験があったからこそ、
3年間も入り浸ることが出来たのだ…と、ひとり納得するのでした。
JAZZ喫茶、あの背徳な装いはだいぶ薄れてしまいましたが、
こういう秘めた場所ってのは、しっかり残しておきたいっすね。
【Jul_30】ジャズ喫茶というのは宗教施設である(場内笑)

「いーぐる連続講演第593回 これからのジャズ喫茶を考えるシンポジウム」@四谷いーぐる
主催→東京・四谷三丁目の「喫茶茶会記」店主福地史人氏。
パネリスト→東京・新井薬師「ロンパーチッチ」店主齊藤外志雄氏、
東京・渋谷「渋谷SWING」店主鈴木興氏
東京・祐天寺「Kissa BossaUmineko 」店主中村大祐氏の4名
「新興ジャズ喫茶」店主をメインパネリストに、
会場に駆けつけたジャズ喫茶関係者の声なども交えながら、
午後3時30分から午後6時30分までの3時間にわたって意見発表が行なわれた。
私たちは、お客さんに奉仕するだけじゃなくてそれと同時にジャズの神にも奉仕しているんだ、
ジャズの神への奉仕ということを考えたら、ジャズ喫茶というのは宗教施設である(場内笑)、
そんな空間で神を冒瀆するような行為はいかんではないか、
私たちはレコードをかけるという宗教的儀式をしている、お店に来る以上は、信者である必要はないけど、
私たちの宗教行為に対してリスペクトを払ってほしい、というような思いがあります。
【Jul_30】ああいうものを聴くと「銭の取れる音やな」という気がします

「いーぐる連続講演第593回 これからのジャズ喫茶を考えるシンポジウム」@四谷いーぐる
主催→東京・四谷三丁目の「喫茶茶会記」店主福地史人氏。
パネリスト→東京・新井薬師「ロンパーチッチ」店主齊藤外志雄氏、
東京・渋谷「渋谷SWING」店主鈴木興氏
東京・祐天寺「Kissa BossaUmineko 」店主中村大祐氏の4名
「新興ジャズ喫茶」店主をメインパネリストに、
会場に駆けつけたジャズ喫茶関係者の声なども交えながら、
午後3時30分から午後6時30分までの3時間にわたって意見発表が行なわれた。
ああいうものを聴くと「銭の取れる音やな」という気がします。
音で銭をとるというのは、ジャズ喫茶の王道としてあると思います。
寺島の言うことは半分以上はウソなので気をつけたほうがいいですよ。
まともに受け止めると人生ムダになりますから(場内笑)。
ジャズ喫茶のおやじが言うことってそういうものなので。
半分はほんとうなんだけど、半分はウソですから(場内笑)。
【Jul_30】やっぱり貼り紙というのはものすごくお客さんは引くんですね

「いーぐる連続講演第593回 これからのジャズ喫茶を考えるシンポジウム」@四谷いーぐる
主催→東京・四谷三丁目の「喫茶茶会記」店主福地史人氏。
パネリスト→東京・新井薬師「ロンパーチッチ」店主齊藤外志雄氏、
東京・渋谷「渋谷SWING」店主鈴木興氏
東京・祐天寺「Kissa BossaUmineko 」店主中村大祐氏の4名
「新興ジャズ喫茶」店主をメインパネリストに、
会場に駆けつけたジャズ喫茶関係者の声なども交えながら、
午後3時30分から午後6時30分までの3時間にわたって意見発表が行なわれた。
「ジャズ喫茶」という名前に奉仕しようと思うと
生きていけなくなるようなところもあるとか私は言ってますけど、
実際はなんだかんだいって
私たちは「ちょっとお静かにしてください」って言っちゃうんですよね。
【Jul_30】私にとっていいお客さんというのはは〝ジャズ侍〟

「いーぐる連続講演第593回 これからのジャズ喫茶を考えるシンポジウム」@四谷いーぐる
主催→東京・四谷三丁目の「喫茶茶会記」店主福地史人氏。
パネリスト→東京・新井薬師「ロンパーチッチ」店主齊藤外志雄氏、
東京・渋谷「渋谷SWING」店主鈴木興氏
東京・祐天寺「Kissa BossaUmineko 」店主中村大祐氏の4名
「新興ジャズ喫茶」店主をメインパネリストに、
会場に駆けつけたジャズ喫茶関係者の声なども交えながら、
午後3時30分から午後6時30分までの3時間にわたって意見発表が行なわれた。
CDばっかりかけてると、「この店はCDだけなんだなあ」と大きな声で…ほんとはよくないお客さんなんですね(場内笑)。
そのとき私はちょっとレコードで音を出して、お客さんの耳元へいって、
目を合わさずに「枚数は少ないですけど、近い傾向のものあればなんかかけますから」って言ったら、
その怖そうなお客さんが一転笑顔になって、「いやあ、店主のおすすめでいいから」と、
そこで一気に友情が(場内笑)。
後日その人がわきあいあいと女性を連れてきたり、ライブをやったりして関係が深まったり。
【Jul_30】これからのジャズ喫茶を考えるシンポジウム@四谷いーぐる

「いーぐる連続講演第593回 これからのジャズ喫茶を考えるシンポジウム」@四谷いーぐる
主催→東京・四谷三丁目の「喫茶茶会記」店主福地史人氏。
パネリスト→東京・新井薬師「ロンパーチッチ」店主齊藤外志雄氏、
東京・渋谷「渋谷SWING」店主鈴木興氏
東京・祐天寺「Kissa BossaUmineko 」店主中村大祐氏の4名
「新興ジャズ喫茶」店主をメインパネリストに、
会場に駆けつけたジャズ喫茶関係者の声なども交えながら、
午後3時30分から午後6時30分までの3時間にわたって意見発表が行なわれた。
珈琲の楽しみ方には、たとえばお酒を飲んだあとのほろ酔いの状態で
ジャズを聴きながら飲むとか、いろいろあると思うんですね。
お金を使うことは浪費ではなくて、
2杯飲むことで見えてくる世界というものも私はあると思うんです(場内笑)。
【Jul_30】西日によって浮かび上がる「無の影」

【Jul_30】益井美由紀@東松山市

【Jul_30】「痛恨の碑」@丸木美術館

西田が短歌の中で、我が喜びも憂いも届かない心の底があると云ったのも、このようなことでしょう。
心の底とは「無の場所」です。
そこには、喜びも憂いもない。と同時に、喜びも憂いもどちらもある。
鈴木大拙が云ったように、皆と一緒に悲しみ、慟哭しつつも、しかも慟哭せずじっと見ている何かがある。
どこかに慟哭している自己を意識している自己があるのなら、その自己は慟哭していないのです。
しかし高次の自己は認識の対象とはならず、
その意味では常に慟哭している自己を映し出す「無の場所」というほかない。
ですから、この場所は実体としての「私」を離れて、どこかにあるものではない。
私から見れば常に私の背後に影としてついてまわるものなのです。
しかし、この影の方から見れば、実は「私」こそが影像に過ぎないのです。
こうして「生」は常に「死」と表裏一体となっている。
「生」の背中には常に「死」が張り付いている。
もちろん、この「死」は見えません。
見えているのは、活動し動いている「生きた私」だけです。
しかしその「私」はあくまでも
いずれくる絶対的なものである「死」に於いて
その上に乗って在るのです。
こうして生きて在る「私」は、いわば二重構造になっている。
オモテにあって見えている「私」と。
ウラにあって見えていない「死」の二重性によって存在しているのです。
だから「私は私である」ということではないのです。
「私は私でなくして、私である」ということになる。
「生」の中に「死」を取り込む。とはそういうことなのです。
だから、「生」が「死」によって支えられている…
ということも少し変形すれば「生者」は常に
「死者」によって支えられているという意識になるでしょう。
生在る者は死者という目に見えない何かによって生かされている、という感覚を我々は持つ。
「生者」のこの世界の背後には「死者たち」の世界が広がっているという風に考える。
だから折口信夫が述べたように「もの」にはもうひとつ重要な意味があって、
それは「もの=霊」だというのです。
「ものの気」や「ものの気配」などというように「もの」には時には
どこか霊妙な、すなわち、この世とあの世の橋渡し的なニュアンスが付加されている。
かくて人にせよ、物にせよ、我々は「もの」は常に「無」と一体だと考える。
このように日本語の「もの」というコトバは、多様という以前に、独特の深みをもっています。
物的な存在としての具体性を集合したモノ性の背後に、「無」へ向かう宿命をどこか暗示し、いわば
「無の影」を宿している。そういう「もの」の有り様を、本居宣長は「もののあはれ」と言ったのでした。
「もの」は、ただそこにある物体ではなく、
それが「消滅」という生在るものの不可避の宿命を暗示するがゆえに、
我々はそれを愛おしく思い、そこにそのもの独自の美を美、感興を引き起こされるのです。
そこに日本的精神の真髄を見たのでした。
(佐伯啓思著『西田幾多郎〜無私の思想と日本人』)
