IROSEPTET / イロセプテット
大柴拓 (ギター)
鈴木広志 (サックス)
羽鳥美紗紀 (フルート)
青山英里香 (ヴァイオリン)
吉田篤貴 (ヴィオラ)
島津由美 (チェロ)
相川瞳 (パーカッション)
【May_27】IROSEPTET_羽鳥美紗紀
【May_27】IROSEPTET_大柴拓
【May_06】ガンジー西垣

CINEMAdubMONKS@TRAUMARIS
【May_06】曽我大穂

CINEMAdubMONKS@TRAUMARIS
【Apr_23】大柴拓×茨木智博
【Apr_23】足立区_昭和の家
【Apr_23】オカリーナ
【Apr_18】坂田明
【Apr_18】音は“たましひ”だった。

「音」とは森羅万象に共有され、それゆえ、森羅万象を一つに結び合わせることができる「魂」のことだった。
「魂」のなかには過去の時間と過去の空間が重層的に折り畳まれている。
その「音」、ライフ=インデキスとしての「音」に導かれるようにして「歌」が発生してくる。
「音」は、あるいは「歌」は、過去を現在に接続し、さらには現在を未来にひらく。
折口信夫にとって「音」とは、古代と現代、野生と近代を一つに結び合わせるものだった。
(中略)
歌とはまず聞こえてくるものだった。そしてその「音」は、現実の「物」から遊離してしまう場合もあった。
つまり、「音」にとって、現実と虚構の分割、客観と主観の分割、外部と内部の分割は、なんの意味ももたないものだった。
「音」は、現実的であるとともに虚構的でもあり、客観的であるとともに主観的でもある「像(イメージ)」を呼び起こす。
「像」が先にあって「音」が当てはめられるのではなく、「音」に導かれて「像」が生起するのだ。
そのとき生起した「像」と現実の「物」とは直接の関係をもたない。
折口信夫=釈迢空にとって、「自然・自己一元」とは現実でも虚構でもない地平で、外部にも内部にもない「音」の進展、
つまり「音」による外部と内部のリズムの同調として果たされる。
(安藤礼二著「折口信夫」より)






