【Jul_21】ALBERTO_GIACOMETTI


国立新美術館開館10周年
ジャコメッティ展

ぼくにはもう自分は誰なのか、どこにいるのか、わからない。
自分がもう見えない。ボクの顔は白っぽい、力の無い曖昧模糊とした塊のように見えるだろうと思う。
カタチのないぼろ切れで、かろうじて全体が支えられている塊、だがそのぼろ切れは床に落ちていく。
曖昧な幻影。
顔や人物は、内部の、外部の、絶え間ない動き以外のものではない。
絶えず作り直されている。そこにはほんとうの堅固さがなく、側面は透けている。

                ALBERTO_GIACOMETTI(1901-1966)

ジャコメッティの大規模な回顧展。初めて間近にした彫刻群。
なるほど、この作家は生来、精神分裂的な状態だったのではないか。

この執拗なほどに両目と鼻の位置の確認をくり返すデッサンや、
「目に見えるまま捉えようとするとスケールが小さくなってしまう」とした初期の逸話や、
晩年NYから公共彫刻の依頼を受けても成就できずに終わってしまったことなど、

アーティストとしてアトリエに籠もり、
ミニマルな生活から逸脱しないよう生きてきた人間の、
閉じられた世界が胸に響いた。

生涯『耳』だけを作って早世した三木富雄に通じる偏狭さである。

しかし、その「水滴石を穿つ」偏狭さゆえに、見えていたものがあるように思った。

「自己が主体となって自己の生命を生きるということは、
一方では生命一般の根拠である「おのずから」の動きに関わると同時に、
他方では間主体的な世界へと向けて、自己と非自己から区別しながら
自己と非自己の「あいだ」で「みずから」の交換不能な存在を維持することである(木村敏)」


西田幾太郎の系譜を汲む木村敏さんのこのコトバを体現するようなジャコメッティの生きる行為。

この作家が今注目されているのも、
結局は自己と非自己のバランスを欠いた現代社会での、
混沌とした所在なさに答えを求めるわたしたちがそこに投影されているからだ…と思う。

【Feb_14】ネリヤカナヤ by 久原鉄秀


EGGORE『ネリヤカナヤ』@両国BEAR

【on_Flickr】0214_NeriyaKanaya

[振付・演出]鉄秀
[舞描]鉄秀
[音楽]築山建一郎、Aki-ra Sunrise、ヨシダダイキチ
[音響]八木翔太郎
[舞台設営]松原東洋
[照明] ラング・クレイグヒル
[衣裳]富永美夏
[演出助手・援護射撃]向雲太郎
[音源提供]文化人類学者 Harry Walker & Iza Kavedzija
[制作]ハイウッド
[制作進行]井尻有美
[宣伝写真]伊藤俊介
[宣伝美術]東學
[主催]EGGORE(久原鉄秀)

【May_18】秘境の東京、そこで生えている。


山川冬樹『世界内部空間』@アーツ千代田3331

佐藤直樹個展『秘境の東京、そこで生えている
2017.4.30sun-6.11sun

ゲスト/太田美帆(Cantus)
プロデュース/金上みはる

写真UPしました〜!
【on_Flickr】0518_FUYUKI

アジールの佐藤直樹さんとは、ボクがフリーランス成り立てだった2009年に
事務所まで作品を見せに行ったことがあり、
そのときは自分自身なにを核として写真を撮っていくのか、
その確信が持てていなかったので、激励されて終わった記憶がある。

こうやって8年ぶりに正攻法ではないにせよ再会できたことは、とても感慨深かった。

なにより奔出するイメージに追いつかん…と木炭をベニヤに走らせ、
取り憑かれたように100mもの長絵巻を描き切り、
会期中も無目的に描き足す行為を続けている、
というそのさまが「生きる=描く」と直結していて、
この他動的な様態が、まさに生命なのではないか…と、打ち震えた。

その直樹さんのピュシスに反応するかとごとく、
冬樹さんのパフォーマンスはすざまじかった。

この人は、その下から突き上げてくるピュシスを表出するために、
喜んで自身のすべてを捧げようというスタンスでいるのではないか。

それほどまでの他律的な空間…会場が呑み込まれ
自身の体内へと変容したのでは?と思わせるまでの求心力。

何度体感しても剥き出しとなるイノチ。

ふたりのピュシスに共振した太田美帆さんの劈く高音もたまらかった。

この領界こそ、人間が生き物をして目指すところだと了解した夜。