【jan_20】畠山美由紀×奥原しんこ


 私自身は宗教性ということをこんなふうに考えています。

 自分を無限に広がる時間と空間の中のわずか1点にすぎないという、
 自分自身の「小ささ」の自覚、そしてそれにもかかわらず宇宙開闢以来営々と続いてきた
 ある連鎖の中の一つの環として自分がここにいるという「宿命性」の自覚。
 この二つだろうと思います。
 
 吹けば飛ぶような粒子のようなものにすぎないのだけれど、
 にもかかわらず私には遠く理解の及ばないある連鎖の結果として、
 他ならぬこの時間にこの場所にいる。

 私はとりあえずある種の生命の運動の繋がりの末端におり、
 私を起点にして、さらにそれが続いてゆく。
 自分自身の存在の不確かさと確かさを同時に感じるということ、
 あるいは自分が存在することの偶然性と必然性を同時に感じるということ、
 それが宗教的体験ではないかと思います。

                 (宗教教育とはなにか/内田樹)

03/11の東北大震災は、自分が存在することの「偶然性」と「必然性」を
まざまざと見せつけた出来事だった。

昨日までの「わが美しき故郷」が、
文字通り根こそぎ剥ぎ取られ、瓦礫の山と化した。

気仙沼出身の畠山美由紀さんと奥原しんこさんも、
生まれ育った故郷の心象風景を震災で大きく損なった。

ふたりは云う。
「目のあたりにしてしまうと言葉を喪ってしまうだろうから、
 気仙沼を訪れる前に、書き留めたいと思った」

   わが美しき故郷よ
   受難の民よ
   寡黙で哀しき魂よ
 
   願う_この世は壮絶な苦しみでいっぱいだ ずっとずっとそうだったんだ
   祈る_今ここに自分がいるのはたまたまだ たまたま助かっているだけだ
   叫ぶ_でも どこに? どこに叫んでいいのか分からない

   すべての希望を断たれた人々
   全身全霊で助け合わなくてはいけないのだ
   そのために生かされてる
   この世はずっとそうだったんだ
   遅い 遅い いつでも遅すぎる
   こんなことになるまでそれをわからなかったわたしの愚かさを
   どうかお許しください
  
           (わが美しき故郷よ/畠山美由紀

昨日青山スパイラルで行われた畠山美由紀×奥原しんこトークイベント。
故郷を大事に思う、その深さでもって刻み込まれた「歌」と「絵」

自分がいるのはたまたまだ…という「偶然性」と
この記憶を語り継がなければ…という「必然性」のはざまで
大きく揺れ動き、根本から折れてしまうような苦悩の中で生まれた、珠玉の作品たち。

震災から10ヶ月を経て、昇華されたふたりの創造物は、
きっと永代まで語り継がれるだろう輝きでもって、そこに存った。

決して忘れない。忘れてはならない。
5年後、10年後も、この顫えをカラダに刻む。
それはつまり、自分の存在の「不確かさ」と「確かさ」を
この世に刻むことでも、あるのだから。

【jan_13】多摩美術大学_04


多摩美図書館。
こんなに立派になっちゃって。

欧州の建物のような、
威厳在る佇まい。

こんな美大じゃ、
「勘違い」も多いだろうなあ。

【dec_14】尾花藍子


12/14高円寺ampにておこなわれた尾花藍子新作公演。

約1時間にもおよぶ無音の状況下で極めて集中力の高い演舞となった今回、
ボクの勝手な想像ではあるが、少なからず被災地体感の要素が多分に含まれているのではないか…と踏んだ。

ファントム空間…「もののけはい」や「あわい」など不可視な存在が
観る者と演者の「いま、ここに」存るがごとく、空気がゆらぐ。

鎮魂を思わせる凝視、つながりを暗示させる手の交叉など、
無音下の張りつめた空気は、魂の着床をうながす。

未曾有の2011だから生まれ得た作品。

その全貌はFlickrをご覧あれ。