【Nov_04】第1回玉川太福木馬亭月例独演会


第1回玉川太福木馬亭月例独演会

10年という節目で太福さん意を決しての月例独演会。
タイトルに木馬亭と刻んでいるのが、浪曲に対する並々ならぬ愛を感じます。

「私は月例独演会で、この小屋のサイズに合う浪曲を磨き抜きたい。」

ブログの御礼コメントからも、もちろん舞台からもその意気込みをひしひしと感じました。
いやぁ、見事な3席でした。
福太郎師匠への思い、武春師匠への思い、までもがしっかり舞台に上がっていて、
色んな意味でこの小屋から浪曲の明日が見えてこないとアカンのやなぁと、
その思い深く受け止めた次第です。

月例なので、来月も来年1月もあります。
次回以降は当日券のみ。
ふらっと木馬亭に足を運んでみてください〜!

木馬亭でしか見られない、
玉川太福さんの活きの良い“今”が堪能できますよ!

【Oct_28】須貝と岡田『富獄百景/きりぎりす』


須貝と岡田『富獄百景/きりぎりす』観劇〜!

2つの太宰作品を交互に読み解き、やがて一つへ昇華される…須貝さんの企ては絶妙に冴えていて、
『きりぎりす』におけるコオロギが『富獄百景』の富士と対峙することで、
自然を畏怖する人間の謙虚さが見えてくるのだった。いよいよ明日楽日2回のみ。

  私は、あの夜、早く休みました。電気を消して、ひとりで仰向に寝ていると、
  背筋の下で、こおろぎが懸命に鳴いていました。
  縁の下で鳴いているのですけれど、それが、ちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているので、
  なんだか私の背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。

  この小さい、幽かすかな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。
  この世では、きっと、あなたが正しくて、私こそ間違っているのだろうとも思いますが、
  私には、どこが、どんなに間違っているのか、どうしても、わかりません。
(『きりぎりす』)

   ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。
   月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。
   私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい。

   あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽かすかに生きてゐる喜びで、
   さうしてまた、そつとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、
   あした、天気だからとて、別段この身には、なんといふこともないのに、
   と思へば、をかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ。

      (中略)
   素朴な、自然のもの、従つて簡潔な鮮明なもの、そいつをさつと一挙動で掴まへて、
   そのままに紙にうつしとること、それより他には無いと思ひ、さう思ふときには、
   眼前の富士の姿も、別な意味をもつて目にうつる。

   この姿は、この表現は、結局、私の考へてゐる「単一表現」の美しさなのかも知れない、
   と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、
   あまりにも棒状の素朴には閉口して居るところもあり、これがいいなら、
   ほていさまの置物だつていい筈だ、ほていさまの置物は、どうにも我慢できない、
   あんなもの、とても、いい表現とは思へない、
   この富士の姿も、やはりどこか間違つてゐる、これは違ふ、と再び思ひまどふのである。
(『富獄百景』)