【Nov_07】Prisoner


【on_Flickr】1107_prisoner

「見ること」は常に「見るもの」の姿を白日のもととし、
「見られるもの」はいつでも相手を「見かえす」ことができる。
その意味で「見ること」と「見られること」はちょうど一対の関係として在り、
「見る」ことで、なにより最初に相手との関係を始動させる。

写真とはそういう行為である。

「見る」ことと「見られる」ことは相対化する。
だから記録としての写真は相補的なものとなる。
「写っている」のか「写されている」のか。
…被写体そのものと、…被写体の内奥と、…撮影者の思惑と。

そこに触媒として「空間」があり、「光」がある。

その三位一体が絶妙なポリフォニーを奏でるとき、
切り取られた【リアル】は、その背後に膨大な位相を表出する。

そもそも、わたしたちの【リアル】は、「豊か」なのだ。
あとは読み込む能力次第…ということになる。

その【リアル】を数値に置き換えて手中に収めようとするから、
ボロボロとこぼれ落ちるものが出てくるのだ。

人間至上主義の破綻。科学の限界。

無尽蔵なリテラシーは素晴らしいが、
手放しで【リアル】をまんま体感すること、の方が間違いなく【真実】だ。

Prisoner…囚われの身。

「束縛と解放」とは、もしかしたら、【リアル】そのもののことかもしれない。
有限として「全うする生」と、そこに内在する「膨大な位相に覚醒する生」と。
一面を見て「束縛」と取るか、多面に捉えて「解放」と取るか。

ダンサー羽太結子とのフォトセッションは
そんな「クラインの壺」が垣間見られるものとなった。