
私たちは「存在しないもの」に囲繞されている。
「存在しないもの」は「存在するとは別の仕方で」 私たちに「触れてくる」。
「存在しないもの」は秩序の周縁に、
理性の統御が弱まるところに出現する。
そこをある種の「受信能力」を備えたものが通りかかると、
それを手がかりにして、「それ」は境界線の向こうから「漏出」してくる。
「存在しないもの」たちと
「交渉する」ためにはどのような能力が要るのか、
どのような技法がありうるのか。
能におけるワキの多くは「旅の僧」である。
彼は秩序の周縁である土地に、
日のくれる頃に、疲れきってたどり着く。
彼はそこに何らかの「メッセージ」を
もたらすためにやってきたわけではない。
むしろ、何かを「聴く」ためにやってきたのである。
彼はその土地について断片的なことしか知らない。
だから、その空白を埋める情報を土地のものに尋ねる。
そして、その話を聴いているうちに眠りに落ち、夢を見る。
これが「存在しないもの」との伝統的な「交渉」の仕方なのである。
(そのような能における「旅の僧」のような、所謂)
「ゲートキーパー」は境界線を超えて
「漏出」してくる「もの」たちを
防ぎ止めることを主務としている。
ただし、「防ぎ止める」というのは「追い出す」ということではない。
そうではなくて、「お引き取り願う」ということである。
むりやり境界線の向こうに押し戻すのではなく、
できることなら、自主的に「帰る」ように仕向けることである。
でも、「じゃあ、帰る」と言わせるためには、
その前にひとしきり、
彼らが「じたばた」するのに耐えなければならない。
デリケートな仕事である。
そして、その一場の劇が終わったとき、「それ」は立ち去り、
私たちの世界と「存在しないもの」の世界のあいだの
「壁」の穴は修復され、「ゲート」は閉じられる。
そのような仕事を私は「インターフェイスのメンテナンス」と呼んでいる。
それは積極的に何か目に見える
「価値」や「意味」をもたらすわけではない。
「災厄が起こらなかった」というのが、
彼らの仕事が順調に推移している証拠なのだが、
「起こらなかった災厄」をカウントする計数能力が私たちにはない。
だから、彼らはふつう誰からも感謝されず、
誰からも敬意を示されない。
かつて「遊行の民」と呼ばれた人々は、
この社会的な責務を担っていた。
その「呪鎮」儀礼は古代から、
もっぱら音楽と舞踊と詩歌の朗唱を通じて行われた。
だから、私たちはせいぜいこの芸能を享受したり、
巧拙を論じたり、それについての美学を構築するような
迂回的な作業を通じてしか、
この働き人に報いる方法を知らないのである。
Texts by 内田樹『「存在しないもの」との折り合いのつけ方について』
マタイ受難曲_第47番
『憐れみ給え、わが神よ』
” Erbarme dich, mein Gott ” by Bach