
Empty-Kubrick「とある部屋」@日暮里d倉庫
構成・演出・振付/山口将太朗
出演/歌川翔太・内田斗希央・香取依里・久保田舞・中村駿・山口将太朗
舞台監督/相川貴
照明/片山通子(ASG)
音響/大石和洋
舞台映像/椙田佳生
竹野に住まう舞台写真家の地域自治。

Empty-Kubrick「とある部屋」@日暮里d倉庫
構成・演出・振付/山口将太朗
出演/歌川翔太・内田斗希央・香取依里・久保田舞・中村駿・山口将太朗
舞台監督/相川貴
照明/片山通子(ASG)
音響/大石和洋
舞台映像/椙田佳生

尾花藍子ダンスカンパニーときかたち旗揚げ単独公演『線を重ねて水が輝くなら』@STspot
●振付・演出/尾花藍子●出演/安藤暁子、KEKE、白井愛咲 (以上、ときかたち)、丹哲郎
●照明/加藤泉●音響/牛川紀政●ドラマトゥルク/辻豊史、メル(ときかたち)●宣伝美術/泉美菜子●記録写真/bozzo
●舞台監督/井草佑一(COMBO×COMBO)●当日制作/木川美由紀●スペシャルサンクス/北澤香、小塚麻優子、住中浩史
なんとか無事に3公演を終え、安堵の尾花藍子さんとダンサーで記念の1枚。
●
尾花藍子さんとは震災直前に知り合い、公演発表の度に記録を撮ってきましたが、
ついには自身のカンパニーを旗揚げするような存在となり、
年明けには「新人シリーズ」「ダンコレ」と一段と高みへ登り詰める勢いを増しています。
今回の客演の丹さんが言うように彼女は「天才」なのかもしれません。
実際、今回の旗揚げ作品は、今までの尾花作品を違った角度から照射する先鋭的なすばらしいものでした。
しっかり観客として対峙しなければ見えてこない要素が多々あり、
自分がどこまでその要素を直観で捉えられているか、不安になるような出色の出来映えでした。
●
開演と同時に暗転するのですが、その暗転がこの作品の「みそ」とも言えるところで、
およそあり得ないほどの時間(おそらく5分か)場内は漆黒の闇にどっぷり包まれます。
これが、気持ち良いほどの昏みで、
視覚が完全に奪われると眼球のあたりが窪んだような感覚に囚われるのですが、
まさにそのようなクラインの壺のごとく闇がひっくり返った恰好で、とても心地よい。
視覚が奪われた分、聴覚や触覚が敏感に【世界】を捉えようとカラダ全体の感覚器官が総立ちになる…。
じつはコレが尾花藍子作品への臨戦態勢ともいえる状態。
作品のさまざまなシグナルを受け取れる態勢になります。
この、感性が起き上がった状態でないと、この作品は十全に鑑賞できるものとはならない。
これを「5分間の闇」で指し示しているところが、物凄い!とボクは思います。そこにすべてが凝縮されている。
今、夢中になって読んでいる演出家「竹内敏晴」を語った本があるのですが、
その中で【体験】について竹内さんが語った一節が今回の尾花作品と呼応する内容なので引用しますと、
「体験とは、たとえば一つのオブジェのようなものです。それが自分の意識にくっきりと現れる。
そうか、こういうことだったのか、と気づく。そのイメージは胸に焼き付きます。
しかし時が経って、ふとその体験を思い起こすと、ちょうどオブジェが横から見たように、
以前はまったく気がつかなかったカタチが見えてくる。
逆にいえば、自分がそのことについて、どのような側面においてまったく盲目であったかということに気づくわけです。
そして、また時が経ったあるとき、それにまったく違った光が当てられ、
見たことのない翳がうしろに伸びていることに驚く…といったようなことが起こる。
体験とはそのように、無自覚の領域にまで広がって根付いているものです。
それを、「…」のためにやります、と限定したら、体験は視点を固定した写真のようなものと化して、
行為の意味を説明ないし証明はするが、もはや生きた体験ではなくなる。(「生きることのレッスン」より)」
今じゃ時代は「クルマの自動運転」まで便利さを追求しようとしています。
便利というのは、結局のところ、人間の不感症促進です。
どんどんそうやって鋭利な感性を啄んでいってる。
本来の身体性が根底から損なわれようとしています。
「憑依」という現象がありますが、あれはなにも特別な才能ではなく、
感覚を研ぎ澄ませれば他者に成り仰せるという極意なのです。
尾花藍子は人間の感性を研ぎ澄ますことで「見えてくる世界」を開帳しようとしています。
便利さによって風化した人間の「カラダ」の鋭敏な感性を、
先入観や他者の意見やら経験則やらを省いたところ=ゼロから再出発させようという意欲的な試み。
旗揚げ作品としてこれだけ明確な指針はない…と言えるものに仕上がっていました。
脱帽です。ますます目が離せなくなった尾花藍子でした。