【mar_01】ピナ・バウシュとイ・チャンドン


毎月1日は映画の日。

なんとか時間を割いて2本の映画を観る。

「Pina_踊り続けるいのち」

ドイツの舞踊家pina_bauschへのオマージュを
「ビエナビスタ」のヴィム・ヴェンダースが3Dで昇華した作品。

 Dance,Dance,otherwise you are lost.
 踊り続けろ、さもなくば己を見失う。

圧倒的な「生命賛歌」。ここまでの踊りを、ボクは知らない。
3Dならではの空間の拡がりもすごいのだが、
ダンサーたちの「生きる」歓喜にはじける肉体に驚いた。
ダンスはここまでイノセントに生きることを全肯定できるのか。
人間の強さ、儚さ、悦びと哀しみ、愛し愛されたい願いと不安、
「やり過ごされる」日常の中で、置いてかれたまま放置される「純潔」。

ドイツの様々な都市や自然の中で表現されるダンスが、またイイ。

日頃アタマの片隅に追いやられていた「生きることへの純粋な悦び」を
呼び覚ますかのようにダンサーは己の「血の通った肉体」で表現する。

関節が動くことへの悦び、筋肉が収縮することへの悦び、
血が巡り熱が生まれ、汗腺から吹き出る汗が肉体を潤す悦び。

「生」そのものへのイノセントなまなざし。

ピナ・バウシュはその愉悦を伝えたくて、生きた。
ヴィムはその遺言を忠実に映像化した。
これは人間が生きることの「答え」そのものだ。
このようにカタチになったことは奇跡であり、人類の遺産だ…と思う。

おそらく「pina」を観た大半の人たちは、
「芸術は素晴らしい。私もそう生きたい…だけど日常はね」
と言って「やり過ごそう」としたかもしれない。

しかしイノセントな生きるまなざしは
日常にこそ育まれるのだ…と愚直に語る監督がいる。

イ・チャンドン_Lee Changdong。

たった5作しか撮り終えていないのに、
これだけの衝撃を与え続ける監督もいない。

夫を喪い、息子を喪いながらも、神に帰依して救われようとして果たされなかった
女主人公の壮絶な存在を描いた「シークレットサンシャイン」から3年。

今度は、詩を生むことで日常から脱皮する老女の姿を
「ポエトリー/アグネスの詩」としてカタチにした。

些末な日常に事件や病気やセックスが絡み、
それでも近視眼的にやり過ごされてしまう社会の中で
老女は突然「詩を書きたい」と詩作教室に通う。

自然をみつめ、言葉を紡ぐ努力をしながらも
一篇の詩すらカタチにすることができない日々が続くが、
身辺を凝視する作業の中で、はたと日常を「やり過ごす」コトができなくなる。

ここでもイノセントなまなざしが「生」に光を与える。

生きるコトの尊さとは、一刻一刻をどう過ごすか…にかかっている。
ピナの肉体による生命讃歌も、老女の言葉を紡ぐ行為も、
生きていることの不可思議に注ぐイノセントなまなざしが、在る。

今、必要なのはその純潔な、無垢な、まなざしじゃないだろうか?