【feb_05】署名活動


2月4日(土)現在の署名状況です。

世田谷区 14,530
渋谷区   2,530
目黒区   3,884
大田区  10,547
港 区   1,725
品川区   6,545
江東区   3,854
江戸川区  8,968
千代田区  333
中央区   419
杉並区  12,555
中野区   5,762
新宿区   3,926
豊島区   3,531
板橋区   8,418
北 区   2,518
練馬区  12,922
足立区   1,579
葛飾区   2,105
荒川区   848
台東区   1,650
墨田区   777
文京区   2,113
区部計  112,035

東京都内で197,456。
必要署名数214,236にあと4万筆あれば、
無効署名が1割あっても超えられます。

2月9日(木)の締め切りまであと4日。
一日1万票ペースでなんとかクリアです。
東京都民のみなさん、よろしくお願いします!

山本太郎氏の訴えも聞いてください!

【feb_05】原発の是非を問う都民投票


東京電力管轄内の原発を止めるのか、続けるのか、
都民自身が決めようという「原発都民投票」の実現に向けての署名活動。

本日も北砂Ario前にて行って来ました。

請求内容は以下の主旨です。

[1]原子力発電所の存在、稼動は、東京都民のみならず立地先の住民や周辺住民など、
夥しい数の人々の暮らしや命を左右します。この「原発」を今後どうするのかという重
大な問題を、これまでのように、国と電力会社と立地先自治体の判断のみで決めてしま
うのは間違っています。
[2]東京電力管内の原子力発電所に関し、私たちは、主権者、ユーザー(電力消費者)、
電力会社の大株主となっている自治体の住民(東京都は東電株を 2.66%保有する大株
主)として、これに関与する責任と権利があります。
[3]その責任を担い権利を行使するために、東京電力管内の原子力発電所の稼働につ
いて、主権者である私たちが、互いに議論し意思表示をする重要な機会として都民投票
の実施を求め、本条例の制定を請求します。

主権者である都民が、その稼働の是非を投票で行おうというものです。
そのためには条例の制定が必要で、その「直接請求」に有権者の1/50の署名が必要となります。
「法定」署名なので、自筆に印鑑、住所と生年月日が必須。有効かどうかの照らし合わせが行われます。

【feb_02】サンタが100人やってきた!

「サンタが100人やってきた!by 遠野まごころネット」

12月23日から25日まで被災地でおこなわれた
「サンタが100人やってきた!」プロジェクトの模様をムービーに仕立てました。

このプロジェクトは、震災が風化しつつある今、
一人でも多くの人(サンタ)に被災地へ足を運んでもらうきっかけとして、
また、被災地の子供たちに「君たちのことを忘れては­いない!」という強い励ましのメッセージを送り、
今一度2011年に起きたこの出来事をニッポン中の人々の心に刻んでもらおう…
といった主旨でおこなわれたものです。­

全国から賛同の声をいただき、企業から具体的なサポートもあり、
最終的には、サンタも「のべ450名」という参加規模で大成功のうちに幕を閉じました。

このムービーは、東京から3日間活動を共にしたカメラマンbozzoが個人的に写真をまとめたものです。
なので、遠野まごころネット全体の活動内容を網羅したものではあり­ません。
現場で陣頭指揮を執った隊長さんの様々な苦労や、
現地スタッフが夜なべでクリスマスプレゼントの袋詰め作業を行った…
などの準備作業には一切触れておりません­。

その点をご理解のうえでご覧ください。

【jan_27】LOST&FOUND PROJECT


この写真たちを前に何を思うべきなのか、答えは出ません。
見つかった写真を喜ぶべきか、もう持ち主の手に戻らない写真を悲しむべきなのか、
それともいなくなってしまった人たちのことか。
何か答えを出そうとするたびに、足りないものが出てくるような気がします。
それでも見つめることからしか何も見えてこないのだと思います。(LOST&FOUND PROJECTから)

西麻布AKAAKAで2月11日まで開かれている写真展「LOST&FOUND PROJECT」。

震災の津波によって濁流に呑み込まれ、大きく損傷した写真たち。
その修復作業を陣頭指揮した写真家の高橋宗正さんが、
修復しきれなかった写真をあつめ、ひとりでも多くの方に、
傷ついたこれらの写真たちの声を聞いてほしいと開催された写真展なのだけど、

自然の猛威にもみくちゃにされ、写真の痕跡を残すに留めたかつての写真たちは、
ただただ無言でその痛まれた姿をこちらに提示しているようで、正直、声がつまった。

冒頭の引用にあるように、
これらの写真を前にして、
行儀良く言葉を紡ごうと思うことが間違っていると、
ボクは受け取った。

空と緑と地面と、赤い帽子と笑顔と黄色いTシャツが、
混淆を究めマーブル状に融け合った状態そのままを記憶に止める。

しっかりと見つめることが、まずは求められている。

【jan_21】岩淵成紀


01/21武蔵小金井にある「雨デモ風デモハウス」で行われた
++(たすたす)セッション」。
4回目の今回は、NPO田んぼ理事長、岩淵成紀さん。

 私たちは大地の子であり、それ以外ではありません。
 たかだか昭和30年台から始まった高度経済期の近代文明によって、
 数千年来私たちに伝承されてきた風土が破壊されつつあることに心が痛みます。

NPO田んぼの概要にもあるように、岩淵さんの語りは、
多様な生態系の一部として人間が在ることを真摯に受け止める有り難いお話だった。

何よりも「目からウロコ」だったのは、
お米の等級問題

1000粒ある米のうち1粒が虫食い米(斑点米)であれば、1等。2粒なら、2等。
カメムシも食すほどの美味しいお米を、見た目が悪いからと劣等に扱う。
農家は自然の恵みで得た米を、工業製品のように扱わなければならない。
そのような農薬推進の陰で、「冬水田んぼ」は喪われていったという。

「むかしの人は、腹が下ったら自分の土地の土を食って胃を整えた。
 地産地消で多様な生物を畑の作物から摂取して、いわば共存して生きていたから、
 体内の微生物も土に繁殖する微生物と同じだったんだね」

この話こそまさに、人間は多様な生態系の一部として在った証拠。

 近代科学と技術は、伝統の知恵を理解できるカに達していなかった。
 だからこそ、伝統に対してかくも破壊的だった。

どこまでも耳が痛い話だ。

 あのとき印象的だったのは、村のなかを歩いていて、何度か風向きが変わってくるんです。
 さっきまでは山から吹き下ろしていたと思ったら、こんどは山のほうへ向かって吹き上がったり、
 家の方から渦を巻くような空気がぼくのほうへ襲いかかってきたり。人間が自然と触れ合ったり、
 向き合ったりするときは、そういう予測のつかなさとか、しょっちゅう変化しているものに肌身で触れている。
 ところが人間同士の世界というのはそうじゃなくて、いろいろな媒介を間に入れていくことなんですよね。
 自分の心の中に風のように湧き上がってくる感情を直接相手の存在に吹きかけたり、
 相手から感情の風や雨が自分に吹きかかってこないように、言葉とか、いろんな媒介をはさむ。それを文化と読んでいるわけです。
                               (踊る農業、踊る東北/中沢新一)

近代化という名の下に「文化的」な生き方を推奨し、土着的なものを劣等に扱った戦後ニッポン。
しかし「文化」とは結局のところ、さまざまな媒介を自然との間に挟んで、湧き上がる感情を忌避することだった。
何を勘違いして生きてきたのだろう、人間は。

それでも未だに科学への盲信がまかり通っている現代の病の根深さに、ボクは驚いている。

 農業にはひとつの哲学がある。それは、自然が作り出す「具体的なもの」のもつ価値を、
 守り育てようとする姿勢である。自然の活動の背後にある見えない力(それを昔のニッポン人は神と言った)が、
 目に見えて、人の身体を養う「具体的なもの」となって、この世に出現してくる。
 その出現の過程を繊細にいきとどいた心遣いをもって見守り、それをすぐに「お金」や「知識」のような
 抽象物に変えてしまわないようにするのが、農民という存在なのである。農業とは「具体性」に固着しようとする人間の営為なのだ。
 とうぜんそれは、あらゆるものを抽象化して、情報化してしまおうとする、現代の支配的な傾向には抵抗をしめす。
 ニッポン人が農業民ではない、という主張がいまのニッポンで受け入れやすいのは、
 この社会が抽象化の方向になだれをうって、進んでいるからに過ぎない。
 ニッポンは農業国であると主張することのほうが、よっぽど未来的ではないか。
                               (リアルであること/中沢新一)

だからセッションの後半、マーケティングという文脈の中で、
岩淵さんのお話が消化されてしまう流れになったのは、ちょっと残念だった。
アウトプットの組み立ても、根本から考えるべきではなかったか。

とにかく、いろんな意味で脳味噌が耕された「たすたすセッション」だった。

【佐野眞一】津波と原発と第五福竜丸


2011年は己の「無知」を思い知らされた1年だった。
特に原発開発に至る経緯は、気恥ずかしくなるような人間のエゴ、国のエゴが暗躍し、
戦後のしがらみは65年経った今でも蔓草のように絡まり、社会の根源を支えているという事実を
この震災で突きつけられた恰好となった。

その影の権力闘争にペン1本で果敢に闘ってきた佐野眞一さんの近著「津波と原発」は、
佐野さんの姿勢がそのままカタチになったような凄味のある内容なのだけど、なによりその真骨頂は、
プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力発電の父と云われた正力松太郎とその影武者柴田秀利に対する論説。

佐野さんはこのふたりを「謀略説」の安易なカタチにつるし上げるのではなく、
時代背景を鑑みた冷徹な視点で「時代の申し子」と位置づける。

 正力は大衆が望むものしか興味がなかった。プロ野球もテレビも、そして原子力も
 大衆が望んだからこそ、この天才的プロモーターは力ずくで日本に導入して、根付かせた。
 正力松太郎が残した巨大な事業から、いま生きる私たちニッポン人が、一番学ばなければならないことは何か。
 それは、私たちがいまも正力の巨大な掌の上で安穏と暮らし、そこから抜け出す手がかりさえ持っていないことである。
 私たちは、正力が導入したテレビの中で展開される、正力がつくったプロ野球の試合を日々観戦し、
 正力がマンモス的メディアに仕立て上げた新聞でその結果を確認する毎日を送っている。
 それ以上に指摘しておきたいのは、私たちのその暮らしぶりが、正力が導入した原発から送られる電気によってまかなわれていることである。
 福島第一原発が今回引き起こした重大事故は、私たちがそうした巨大な正力の掌から脱することが出来るかどうかの試金石となっている。

                                         「津波と原発/佐野眞一著」 

写真は、江東区夢の島に展示されている「第五福竜丸」の焼津帰港の1954(昭和29)年3月14日の日捲りカレンダー。被爆により、周縁部が黒焦げている。
この被爆事実の大スクープを3月16日の紙面で行ったのが、正力率いる読売新聞なのであるのだけど、ここいらの時系列についても「津波と原発」では事細かに解説されている。

何より驚いたのが、翌年11月に日比谷公園で催された「原子力平和利用博覧会」なるものに「第五福竜丸」が展示された…という事実。
ビキニ環礁での水爆実験被爆からわずか7ヶ月。放射線量も落ち着かない船体をそのまま公衆の面前にさらし「毒をもって毒を制す」恰好で、
翌年にはイギリスから原子炉購入までコマを進めている。

そのスピードにも勿論驚いたのだけど、佐野さん曰く「大衆がそれを望んでいた」のだと思わせるような「第五福竜丸」平和利用博覧会展示の事実と、
その後、江東区夢の島に安置されるに至った経緯との、その扱われ方の違いに「大衆」の恐ろしさを思い知らされたからである。

夢の島を訪れれば分かるのだけれど、もともと粗大ゴミ堆積場であった江東区夢の島になぜ「第五福竜丸」の展示棟があるのか…。
正力松太郎の手によって「毒をもって毒を制す」その目玉となった1955年の博覧会展示後、船体は除染を施され、船名を変え、水産大学の練習船として働いた後、1967年廃船。
2年間「夢の島」第十五号埋立地に放置されているところを当時の東京都職員が見るに見かねて新聞投稿で訴え、保存運動の末に現在の場所に収まることとなったのである。

水爆被爆によって命を落とされた久保山愛吉さんといい、夢の島に放置された第五福竜丸といい、人影が絶えたまま静寂に包まれた福島「浜通り」といい、
私たち大衆が望んできた戦後繁栄の裏には、排斥された負の要素が常に存在してきた…。

この震災によってその不均衡が明るみに出た…というのに、時間と共にまたしても私たち大衆はその事実をなし崩しにしようとしていないか?
どうしてそう回避ばかりを促してしまうのか…。それがつまりは、私たちが望んでいるからに他ならない。

 我々は「無知」であること、常識は「成人までに身につけた偏見の集大成」であることを客観的に受け止めて、
 新たな視点で世の中を捉える努力を怠らないこと。
 情報とネットワークが過剰発達した2012年だからこそ、流されないプリンシプルな思考が試されている…と思う。

 

【dec_25】陸前高田市


車が陸前高田市に入ると、道路を迂回させられることが目立って増えてきた。
地図では市内を流れる川を越えた目と鼻の先が高田病院なのに、橋が落ちているため、
延々と遠回りしなければならなかった。
それでも何とか市の中心部に入ることができた。瓦礫だらけになった無人の市街地に入った瞬間、言葉を失った。
そこはさながら、爆風で何もかも吹き飛んだ広島の爆心地を数百倍に拡大したような死の街だった。
その被害状況は、阪神淡路大震災に直撃された神戸や、同時多発テロに襲われたニューヨークの比ではなかった。
あえていうなら、神戸やニューヨークにはまだ人間の体温のぬくもりがあった。
しかし、千年に一度といわれる三陸大災害を象徴する陸前高田の被災現場には、
熱もなければ声もなかった。津波がすべてを攫っていった後には、
人間の生きる気力を萎えさせ、言葉を無力化させる瓦礫の山しかなかった。
ここには人間が生きたという痕跡さえなかった。
     
                                   「津波と原発/佐野眞一著」

GWに歩いたこの土地は7ヶ月たったクリスマスの日も
瓦礫が堆く積まれたままの「熱もなければ声もな」い、
「人間の生きたという痕跡さえ」喪われたままの状態だった。

佐野眞一さんの「津波と原発」は、目からウロコの視点の逆転があり、ページをめくりながらなんども唸ってしまったのだが、
「竜宮伝説」の浦島太郎の話が、実は津波にあった漁師の話が元になっている…という仮説には大きく頷くほか無かった。

世に知られている浦島太郎の話は、

漁師の浦島太郎は、子供が亀をいじめているところに遭遇する。太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を竜宮城に連れて行く。
竜宮城では乙姫が太郎を歓待する。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。
太郎が亀に連れられ浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。
太郎が玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。
浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日だったが、地上ではずいぶん長い年月が経っていた。…といったものだが、

これを津波の視点から見てみると、

沖合に船を出した漁師は、地震発生後の大津波を船の上で体感するのだけど、海の上では陸地を襲うほどの波の高さを感じない。
しかし海岸線では黒々とした海の壁が村を呑み込み、衣の裾をたぐり寄せるように沿岸の家々を根元から引き寄せ、村全体を消滅させていた。
漁から帰った漁師の目には忽然と消えたかつての村があった。その信じられない光景を見てたちまち白髪になり、発狂するのだった。

人間の体温はおろか声さえ根こそぎ奪い「人間の生きたという痕跡さえ」消失させてしまう「大海嘯」。
その恐ろしさを伝承したのが「竜宮伝説」ではないか…という新たな視点。

街全体が消失したここ陸前高田の被災地に再来して、その漁師が白髪になった感慨を思い知るのだった。

このことは決して忘れない。2012は、ここからはじめるのだ。