【Feb_20】一神教とは?


芸術や宗教が「こころ」を形成する。
だからおざなりにしてはいけない…と語ったのは平田オリザだったが、

ニッポンは戦後から今まで、
芸術や宗教はある特定の人間が関わる事物として、
辺境に追いやってきたように思う。

それはすべて「敗戦」時の身の処し方がトラウマとなって
現代にまで尾を引いているからなのだと、ボクは思うのだけど。
著作権期限を戦勝国には10年延長の謙り方にもそれは出ている)

アルベール・カミュの「異邦人」を舞台で観て、
カミュが伝えようとした「’不条理」が表現されていなかったこと。
それに加え映画「最初の人間」で、
カミュが、キリスト教における「贖罪」の在り方そのものを否定していたこと。
カミュが、アルジェから眺める地中海の水面と降り注ぐ太陽を愛したこと。

そして最近、「ふしぎなキリスト教」を読んだこと。

そういった点から、カミュの置かれていた背景をもっと見極めるべきではないか…と思い、
この一週間、考えを巡らせていた。

レヴィナスの「存在するとは別の仕方で」における「隣人」の捉え方、
カミュ「異邦人」でマルソーが司祭に吐く「逆説的な生への謳歌」、
そのどちらにも西洋の基盤となる「一神教」が大きく影を落としている。

一神教とはそもそもなんなのか?

ユダヤ教における「ヤハウェ」の神が一神教のはじまりだ。
ユダヤの民は古代から己の土地を失い、寄留者で在り続けた。
いつも虐げられ争いが絶えず、神に祈りを捧げるも状況は好転しない。

納得がいかない。自分たちにどんな非があるというのだ。

そこでユダヤの民は神の視点になって考えた。
神がこの世界を創造し、人間をつくった。
数ある人間の中からユダヤの民を選び、神はわたしたちに「試練」を与えた。
「試練」に耐え、神の創造物たらんとすることで、
やがて来る「裁きの日」においてユダヤの民は救われるのだ。

逆転の発想。

どのような悪況に置かれようとも、全知全能の神を崇め、
神のメッセージを受け取るべく、不断の信仰を送れば「救われる」。

しかし、「裁きの日」まで「救われる」ことは、ないのだ。
しかも、「救われる者」もあらかじめ、決まっている。

これが一神教の非常にややこしいところで、
日本人の「御利益を求める信仰心」では、到底理解が及ばない。

「救う」「救われない」の枠組みでは常に「神の目」が存在してしまう。

「神は常に見ている」という戒律の中では、行為すべてが神の裁きに依存する。
「依存する」とはつまり、「裁き」に身を捧げることと同義。

全知全能である神は、全てを知っている(全知)。全てを分かっている(全能)。
だから「依存」しようがしまいが、答えはあらかじめ「出ている」のだ。
信仰とは、つまり神に依存せず己の行為すべてに責任をもつことで、
来るべき「神の裁きの日」から逃れること…神の支配の外に立つことに他ならない。

これが本来の一神教の考え方。(レヴィナスやカミュはこちら)

しかし、そうは言っても人間は弱い存在。
現世に救いを求めたい。生きる意味を見出したい。
そこで出てきたのが「原罪」と「贖罪」という考え方。

これは次回。

【Dec_24】けものみち


今 喪ったモノを取り返す時なのか
新しいマッチに火をつける時なのか 時なのか
あぁ 敏感になり過ぎた子供達が笑う
罪のないハズのあの人が傷ついて祈ってる

目を そらす ストーブの火
かげ ほこり 黙ってる時

今 喪ったモノを取り返す時なのか
新しいマッチに火を付ける時なのか 時なのか
あぁ 敏感になり過ぎた子供達が笑う
罪のないハズのあの人が傷ついて祈ってる

木の におい ジャンベの音
うずくまる ペットの目

けもの道がずっと続くその先は
行き止まりなのか
ぬかるんだ地面 遠ざかる光 渡しそびれたプレゼント

ヒーローはいない 教師もいない
ただあるのは けもの道が一本
ヒーローはいない 教師もいない
ただあるのは けもの道が一本

  (Theatre_brook “けものみち” by 佐藤タイジ

   ●

1年ぶりの陸前高田。
呑み込まれた市街地は、今もまだその海鳴りを地底に蓄えているかのように
表向きは更地として、そこに在った。

市役所も、市民会館も、津波に洗われた状態のまま、じっと硬直していた。

1年と9ヶ月という月日。
GWに見た光景がそのまま、風雨にさらされながらも、耐えている。
1500人の御霊を讃え、自然を畏怖することの尊さを伝えるかのように。

   ●

1997年に発表されたシアターブルックのこの楽曲は、
震災のあとのこの「耐える風景」を想起させる。

出口のない八方塞がりな中でも
光をもとめ、活路をもとめ、さまよう獣。

己の勘だけを頼りに、己の道を行く。
その道が、“けものみち”だ。

陸前高田では13mの防波堤を建てる計画が決議されたと、聞いた。

南三陸の語り部さんが語った言葉がよみがえる。
「自然に抗うのではなく、自然と共に生きることに決めたんです」
南三陸は震災前、防災の町として他県からも見学が来るほどのところだった。

防災に自信があった町だった。
だからこそ、今回の震災は堪えた。
町が見事に根こそぎ持って行かれた。
自慢の防災が、何の効力も示さなかった。
だからこそ、この言葉が活きる。
「自然と共に生きることに決めたんです」と。

木村さんのりんごも、岩渕さんのふゆみず田んぼも、
自然に抗うのではなく、寄り添うことで、活路を見出した。

過去の慣例に従うのではなく、己の勘を頼りに、共生を得た。
そこには多大な苦労があった。思い過ごしからひとつも実のならない年さえあった。
それでも辛抱を重ね、なんとか活路を導いた。

ニッポン全体もそうだ。

自民党政権になり、過去の活況を取り戻そうと、
公共事業に金をつぎ込み、紙幣を市場にばらまく「アベノミクス」で
原発新規建設さえ視野に入れた動きを活性化している。

これだけの綻びが目に見えているにもかかわらず、
人間は過去の栄華にしがみつくのだ。
もう足下はガタガタ言っている…というのに、
「自然に抗う」道で、滅びを促進している。

まるで、「ソドムとゴモラ」の伝説のようだ。

   ●

タイジは歌う。

ヒーローはいない、教師もいない
ただあるのは“けものみち”が一本…と。

そうなのだ。
なにかにすがるのではなく、
なにかに教えを乞うのではなく、
己の勘、感性を信じて、己の道を行けと。

いま必要なのは、「けもの」としての人間の感性だと思う。

   ●

それが証拠に、タイジは今も先頭に立って、
その上の太陽はありったけの愛で出来てる」を地で行く
ソーラーライブを実現した。

この感性が、いま必要なのだ。

【Dec_20】政治を語れないヤツとは今後付き合わない


政治を語れないヤツとは今後付き合わない。

これが、今回の総選挙でボクが得た結論だ。
政治を語れる者どうしが、威勢よくツィートを繰り返しても、このザマである。

     自公320議席。

得票率43%の自民党が294議席も獲得できてしまう不思議な選挙制度。
憲法改正や原発再稼働の後ろ盾を得た…と考える安倍政権。

おいおい、民意はそんなはずねいぞ…と言ったところで、
この結果がすべてなのだ。

…だから、今後一切、政治を語れないヤツとは付き合わないことに決めたのだ。

政治に無頓着で、投票日にだけ
気分で投票してもらっちゃ困るのだ。

まして、棄権なんてされちゃ、目も当てられない。
それぐらいの危機状況にいま国は落ち込んでいる。

その事実を正面から受け止めず、
己の興味だけで世の中を見ているカタワな人間とは、
金輪際付き合わない。

そのぐらいの気概で、今後は対峙していかないと、
ホントに危機なのだから。

内田樹氏が見事に予知している。
内田樹の研究室「国民国家とグローバル資本主義について」

この選挙結果は必然であったと、内田氏は書く。
資本主義は転がりだしたら、留まることを知らずどこまでも、
落ちるところまで落ちるシステムであることを、内田氏は認識している。

国内だけで成立していた資本経済が、
経費節減の余波を受け、どんどん海外へと目を向け始め、
工場を海外に移したり、労働力を海外に頼ったり、
税金のかからない国に本社機能を移転したり…と、
大きくなればなるほど、帰属意識が薄まることは必然だと、氏は説く。

そこがツボなのだ。
以下転載。

  グローバル企業は単一の国籍を持っていないし、
  経営者や株主たちも特定の国家への帰属意識を持っていない。

  だから企業の収益は原理的には「私物」である。

  グローバル企業は特定の国の国民経済の健全な維持や、
  領域内での雇用の創出や、国庫への法人税の納税を「自分の義務だ」と考えない。

  そんなことに無駄な金を使っていては国際競争に勝ち残ることができないからだ。

  これからのち、政府は人件費を切り下げ、
  巨額の公共事業を起こしてインフラを整備し、
  原発を稼働して安価な電力を提供し、
  法人税率を引き下げ、公害規制を緩和し、
  障壁を撤廃して市場開放することを
  グローバル企業から求められることになるだろう。

  そして、私たちの国の政府はそのすべての要求を呑むはずである。

  むろん、そのせいで雇用は失われ、
  地域経済は崩壊し、歳入は減り、
  国民国家の解体は加速することになる。

  対策としては、ベタなやり方だが、
  愛国主義教育や隣国との軍事的緊張関係を
  政府が意図的に仕掛けるくらいしか手がない。
  気の滅入る見通しだが、たぶんこの通りになるはずである。

戦後復興が急務だった我が国ニッポンは所得倍増計画を掲げ、
国の中心を経済に持って行った。いわば悪魔に魂を売り渡した。

金を稼ぐこと…それが、正義だった。

サラリーマンであれば、
無責任でも一目置かれる存在になった。
それが戦後50年代60年代のニッポンの姿だった。
その時代の中心にいた人間が、石原慎太郎を象徴とする
自民党55年体制の政治家たちだ。経団連の米倉もその口だろう。

内田氏は説く。

グローバル資本主義が国民国家を解体する…と。
企業を念頭においた政策を推し進めると、どんどん国家が脆弱になる。
帰属意識など端から持ち合わせていない企業にしてみれば、
国家存続など、「どうでもいいね」。

その亡国を憂う輩は、国粋原理主義に走り、
隣国に牙をむく軍国政権へと傾かざるを得ない。

結局、中心不在のまま、その辺境となる企業と、
勘違いのナショナリズムだけがふわふわと浮いた状態になる。

しかし、それは必然なのだ…と氏は説く。

  「とりあえず国際競争力のある企業に国民国家の資源を集中させるために、
   国民は増税負担を受け容れ、賃下げを受け容れ、
   社会福祉や医療の切り下げを受け容れなければならないが、
   我慢してもらえば、いずれ『おこぼれ』が回ってくるだろう」という話で、ことが進んでいる。

  「トリクルダウン」※はグローバル資本主義と国民国家のあいだの
   本質的な矛盾を糊塗するための「詐欺的理論」であるが、
   現在のわが国の政治家は全員がこれを信じているふりをしている。

   ※「富める者が富めば、貧しい者にも自然に富が浸透(トリクルダウン)する」とする政治思想

   ほかに経済システムと政治単位の本質的な両立不能性を「ごまかす」手立てがないからである。

   本気で「トリクルダウン」を信じている人たちは愚鈍である。
   ほんとうは信じてないが、そういって国民をごまかして
   時間稼ぎをしている人たちは知的に不誠実である。
 
   私たちが今なすべきなのは、
  「国民国家は賞味期限が切れかけているが、
   他に何か生き延びる知恵はないのか」ということを
   まじめに考えることなのだが、それだけは誰もしようとしない。

そう、誰もしようとしないのだ。
トリクルダウンに疑いをかけることすらも、自公320議席となった今は、むずかしい状況である。

なにゆえにニッポンはこのような状況に陥ってしまったか。
答えは簡単だ。経済に魂を売ってしまったからである。

 経済活動に忙しいから政治も政策も考える余裕がない。
 餅は餅屋で政治は政治の専門家に任せて、バシバシと決めてくれればいい。
 こちらは生活するので手一杯なんだ。

そんなふうにして自らを政治の領域から外してしまった。
その結果が、お任せ主義となって、ドブ板活動で自民党に票が集まった。

だれもが自分は富める側だと思っている。
だれもが自分は勝者の側だと思っている。

それも戦後教育の浅はかさから来ている…とボクは思ってる。

選挙前に性悪説を説いて、瓦解するニッポンを嘆いていたけれども、
内田氏の言説を読むと、それが必然だと知って、今愕然としているのだ。

だから、いま政治を語れない人間…てのは、
自分が置かれている状況を理解していないってこと。

そんなバカは相手にしない。
それぐらい今の世界は赤信号なのだから。

【Dec_16】石巻_02


旧北上川沿い。

河口から1.2キロほどのこのあたりは
津波対策として新たに3.5mほどの土手を盛る予定だとか。

当然川沿いの家はそのために移動を強いられる。
景観も土手に上がらなければ川面が見えない状態に。

それが果たして、住む環境として適切な措置なのか。
ただ単に、行政として後で文句を言われないための施策なのではないか。

そんな気がして仕方ない。

【Dec_16】石巻_01

震災から1年9ヶ月。
隣家が津波で迫ったままの状態。

被災地はまだまだ、現実はこんなもの。
しかし決して震災前の状況に後戻りするのではなく、
新たなビジョンをもって、ステップしていきたいものだ。