【Jun_17】畏怖は差別ときわめて近似の感情である。


古来、死者をホフル(葬る)のも、
カミや霊をハフル(祝る)のも、
畜獣をホフル(屠る)のも同義である。
これらは異界と現世をつなぐ行為であり、
その接点に立つ者は畏怖の対象だった。
畏怖は差別ときわめて近似の感情である。

(『熊野・被差別ブルース』より和賀正樹)

日本の差別問題、同和の構造が少し見えた。
『同和』とは、1969年の同和立法において指定された行政用語であり、同和地区指定によって差別が顕在化した事実。
屠殺、皮革加工、清掃・ゴミ収集、解体・産廃事業、屎尿処理など、穢れ作業で生計を立ててきた被差別の人々は、
『同和』と名指しされ、ハコモノが立てられ(隣保館)、住宅があてがわれ(同和住宅)、福祉が受けられ、税が免除された。
結果、行政と解放同盟が結託し、同和事業と称して金が配られる。2002年までの33年間で15兆円もの国家予算が費やされた。
被差別を逆手に取ったシャブ漬け状態。「臭いものにはフタをしろ」的隠蔽工作によって、差別構造が複雑化しタブー化してしまった。

これは沖縄における基地問題とも相似形。
日米地位協定の不条理な植民地関係を隠蔽すべく、島嶼県沖縄にすべて押し込め、
利権構造を県内問題として矮小化し、隠蔽してしまう。

さらには、移民問題も然り。
人口減による人手不足を外国人労働者で補う際、『技能実習制度』というフィルターをかけ、
移民という扱いではなく『技能実習』という枠内で国内法の対象外とし、人権無視。
2年、3年というスパンで労働力を使い回す姿勢はナチスの強制収容所と何ら変わらない。
おまけに難民申請は超絶の狭き門で、不法滞在者の法外な長期間収容が常態化している。

明確に線引きをしない曖昧模糊とした日本のやり方は、
核心に触れることを畏れ、アンタッチャブル化で、結果、タブーの域に追いやられる。
そのため利権が固定化し、人々の無関心が助長され、構造だけが一人歩きしてしまう。
『同和』の問題も、『沖縄』の問題も、『移民』の問題も、いつまでも表層化することなく、
差別闇の中で、だらだらと時間ばかりが過ぎてゆくのだ。
【畏怖】とはよく言ったものだ。直視できないエクスキューズでしかないのに。

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1991年、部落差別の現在」(YouTube)

【May_03】田川建三著『イエスという男』より


イエスはキリスト教の先駆者ではない。歴史の先駆者である。
……先駆者はその時代を拒否する。
……現状に対する厳しい拒否の精神が未来を変化させる。
従って、歴史の先駆者は、その同時代の、
またそれに続く歴史によって、まず抹殺されようとする。
……けれども……歴史が先駆者の思い出を抹殺しきれずに残してしまった場合には、
今度は逆に、かかえこもうとする。
キリスト教がイエスを教祖にしたのは、そういうことなのだ。

(田川建三著『イエスという男』より)

これを読んで「聖徳太子」が外来人「曽我入鹿」を抹殺した上で
祭り上げた人物であると確信した。

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【Nov_09】想、ひとりきりで 想、青くなって 想、だからきれい………


藤田陽介/青

泳いだ魚になって 剥がれた ボクは正直者
泣いた産声の方へ 泣く泣くついてきたの
泣く泣く生きてゆくのさ

ボクは変わってゆきたい あいまいな感情に涙して
動いた こうしてる間にも 宇宙は広がって
地球は飛んでゆくのさ

朝のもやけ 沈む夕日 昨日の残像とか
切なくて 揺れていた 笑顔とか

誰もがひとりで生まれて 誰もがひとりで無くなって
ふと振り返ってみたり 話がしたくなったりして
ようやく ひとりなコトに気づく
そこにボクが居た いつでも それだけだった

空のすき間 風の匂い いつかの恋人とか
寂しくて 触れた肌 気持ちとか

想、ひとりきりで 想、青くなって 想、
だからきれい………


空のすき間 風の匂い いつかの恋人とか
寂しくて 触れた肌 気持ちとか

泳いだ魚になって 剥がれた ボクは正直者
泣いた産声の方へ 泣く泣くついてきたの
泣く泣く 生きてゆくのさ

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【Nov_07】森達也氏講演


死刑廃止を訴える埼玉弁護士会主催の森達也氏の講演に足を運ぶ。
オウム真理教13人の集団処刑から浮き彫りになるこの社会の病巣は何か?
非常に分かりやすく明確なヒントを頂いた。

1995年のオウム事件から始まった“恐怖と不安”を端緒とする【集団化】が
23年経ってより先鋭化しているのが現代社会だと。

【集団化】とはつまり、ポピュリズムであり、
少数排除=『みんな一緒でみんなイイ』の指向で、
そこからはみ出す奴は「敵」であり、
「敵」を設けることで「安心」を得る状態。

鰯のように群れることで己の弱さを隠蔽する行為である。

その同調圧力は外れることを忌み、
結果「こちらとあちら」の二分化を際立たせる。

雑駁としたものを排斥し、理解出来ないモノ、意味不明なモノを全否定する。
大衆がそのように身の回りから潔癖的に異物を排除するから、
メディアはその源である“恐怖と不安”をどんどんつまみ出し、
社会はより先鋭化していくのだと。

そこには「相手を慮る」という行為が徹底的に損なわれている。
元凶は【弱さ】。そこに尽きる。
血のつながりや家族に重心を置く傾向が日に日に顕著なのも、
異物へ思いを馳せることが出来ない顕れだろう。

想像力と創造力が決定的に損なわれた世の中。

免疫不全で、ますます無菌室状態。

その背景には「考える力」の衰退があるわぁ。
“恐怖と不安”におののき、排除していれば、考えなくて良いものねぇ。島国根性。

講演最後に森さんがウランバートルで見た羊の遊牧の話をして、
それがホントに言い得て感服したのだけど、
『羊の遊牧には必ず山羊を一頭混ぜる』って話。

山羊から「山」を取った羊は徹底的に家畜化された生き物なので、
集団を好み自発的な行動をしないそう。
反対に山羊は野性的なので、自由奔放に動き、野草を食むのだと。
山羊が動けば、羊が動く。だから羊の遊牧に山羊は欠かせない。

ああ、これって今の日本であり、世界だわなぁ。
野性の勘を失った島の民は、野性的思考を失ってるので、
羊のように付和雷同で、山羊のような強い者に惹かれてるの。

何事もひとりで引き受け、ひとりで思考し、ひとりで行動しないと、
ますます生きるのしんどくなるわ…と、暗澹とした講演でした。

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【Jul_17】沈思しなくなった、と思う。


沈思しなくなった、と思う。

井戸の中に沈んで、じっくり考える。
そんな行動ができない世の中になった。
常に電波が介入する。常に情報に脅かされる。

自分たちの意思の外で、流通が侵入してくる。
「買え、買え」と直截的でなくとも、
金銭の出入をうながす流れが、常に生活に介入してくる。

沈思しなくなった、と思う。

それはなぜか。
戦争に負けて政府は、国体の保持に躍起になった。
国体とはなにか?現体制の維持…明治維新から連なる
長州体制・財閥&世襲・既得権の維持のこと。
天皇を冠に配し、天皇の名の下に政治を自由に動かしてきた体制の維持。
その保持のために、政権は日本の魂をアメリカに売ったのだった。

国を守る…という大命題をすべてアメリカに預け、
オカネの巡る流通のシステム=消費社会の構築に邁進した。

もはや魂はなくなったのだ。

沈思して考えることなぞ何もない。
浮き世の流れに身を任せ、自由闊達にカネの亡者となるが良い。

そうやって生きてきた71年。

魂がないから、魂にまつわる思考が育たない。
宗教や信仰に疎く、思想や思惟を積み上げる力が育たない。
時間をかけて「思考を熟成」させる忍耐がない。

取り返しのつかない所まで来てしまった…と思う。

流通=合理化とは、科学的視座に根ざした「私欲」の正当化であり、
合理化への思考に基づいて編成されるすべての組織は、
何よりもまず欲望(私欲)の実現を希求する。

魂を売ってしまったこの国に残されているのは、
ひたすら欲望をカネに変換するシステムのみ。

政治も理念を喪い、ひたすら欲望の正当化に走る。

魂は、個に宿る。
「個」を起点とし、「個」の救済が「他」へ伝播する。
明治以前に偏在していた「土俗の魂」は、
「個」の苦悩を解放すべく、「他」の苦悩を請け負っていた。
他者救済が、自己救済へとつながる「平等社会」であった。
それが、あまねく日本の信仰として、在った。

「サンフランシスコ・システム」

魂を売ったあとに残されたこの国のシステムの名だ。
1951年に締結された「サンフランシスコ講和条約」で主権を回復したとされる日本。
その裏で結ばれた「日米安全保障条約」から1960年に更新された「新日米安全保障条約」。
その条約とセットになっている「日米行政協定」のちの「日米地位協定」と、
さらにその密約とも言える「吉田アチソン交換公文」と「国連軍地位協定」。
敗戦後71年経っても効力を保つこれらの条約から導かれるこの国の態様は、「占領下の戦時体制」である。

敗戦国ニッポンは、いまも継続している。

この国を牛耳る政権は、この国の主権をすべて差し出すことで、
自己保身を成就し、国民を煙に巻くことで、そのポジションを正当化していたのだ。

「基地権」と「指揮権」の全面移譲。

国連軍=在日米軍のトリックで、朝鮮半島で平和条約が締結されない限り、
米軍は自由に日本国土を使う権利と、自衛隊を指揮する権利を持つ。

そもそも9条が存在する中で「警察予備隊=自衛隊」が1950年に創設された背景は、
このトリック=指揮権を持たない軍隊だから違憲ではない…という理屈。
たとえ自衛隊が核兵器を保持しようが、海外へ派兵しようが、指揮権が米軍にある限り、違憲ではない…という理屈なのだから。

「安保法案」の成立はその法化であり、「緊急事態条項」とは米軍指揮の体制を整えるためのもの。

安倍政権が目指している「憲法改悪」の根幹は、このサンフランシスコ・システムの固定化なのである。
GHQによる制定だから自国の憲法を…とのたまうのなら、まずは「占領下の戦時体制」を覆すことが先決であるのに、
その言明は避け、対米属国の事実に向き合わず、対国民に対して威厳を固持する。

トルコ軍がクーデターを興したニュースが、先日紙面を騒がしていたが、
そのニュースに対しての日本国民の、マスコミの鈍感なこと。
自衛隊の将校がどのように制定されているか、少しでも疑念は浮かばなかったか?
この国の軍隊とも言える自衛隊が、蜂起しないとも限らない…とは思わなかったのか?

国の軍隊であれば、このようなクーデターを想定した将校選定の法が存在する。
アメリカでは国会による審査が行われ、国民の耳目を集めた上で将校の選定となる。他国も同様。
この国では、自衛隊に対しての客観的視点が失われたままだ。何故か?
それは「指揮権」を持たない軍隊だからである。
政府は傀儡であり、内実はすべて米軍に移譲されている。
だから、将校への審査も存在しない。クーデターもあり得ない。飼い慣らされた犬で在り続ける。

中上健次の「路地」であり、
高橋和巳の「邪宗門」であり、
三島由紀夫の「豊饒の海」であるところの、魂の消滅は1970年から警鐘されていた。

個の救済が信仰を産み、「慈愛」を行き渡らせるのだ…という、作家の訴えも潰えた。

残された道は、ひとりひとりがこの状況を真摯に受け止め、沈思することのみ。
「国家」こそ妄想である…という事実に早く向き合い、魂の救済へ一丸となって進むべし。

【Feb_08】燭と薪


まづ一つの火あらむに、其を分け取て、燭と薪とに着れば、
燭にも薪にも移りて燃れども、本の火も亦滅ることなく、
減ることもなくして、有しままなるが如く、
全体の御霊は本の火にして、
和御魂、荒御魂は燭と薪とに移したる火の如し。

              (「古史伝_六」by平田篤胤)

蝋燭の火も、薪の火も、火であることに変わりなし。
その顕れが異なるだけである。
本のひとつの火であると考えよ…という篤胤の戒め。

頭ごなしの諫めは、己自身を棚上げにする。

山本太郎はテロリスト?

【Jan_01】New_Sunrise

下野新聞_元旦朝刊_新春対談:大澤真幸VS鷲田清一より

昨年の大澤さんの見立ても素晴らしかったが、2015に邂逅した下野新聞の鷲田清一さんとの対話も核心を突いている。
なので、要所を抜き出してシェアします。

      ●

大澤:このままではいずれ破局するという無意識の予感が社会に広がった。
   資源も環境も財政も、未知の先の方が崖になっていて、落ちずに済む未来を想像できない。

鷲田:震災後、それまでの価値が失効したところで止まっている。
   気分としては、敗戦後の焼け野原に近い。

大澤:敗戦の時はどのように立ち直ったかと言えば、どういうわけか、敵国だった「米国」を
   価値基準に据えたわけです。
米国にとって良いモノが日本にとって良いモノだと。
   つまり日本は戦後、自分たちは米国の大事なパートナーで相思相愛の関係にあるというファンタジーを前提にした。
   それが冷戦終結と中国の台頭によって、今、揺らいでいる。
   TPPやオキナワの基地、集団的自衛権の問題で米国に協力を惜しまない日本の姿は、
   冷たくなった恋人にすがりつくストーカーに見える。
   その背景には「米国がそう言えば決まり」と思っている大多数の国民がいる。
   普天間の県外移設を掲げた当時の鳩山由紀夫首相が米国に屈した際も、
   バッシングの矛先は米国ではなく首相に。

鷲田:誰も責任を負わない「押しつけ」「お任せ」の構造は、根深い。
   九州川内原発の再稼働問題も、規制委が「基準には適合しているが安全と断言しない」とし、
   首相は「規制委の判断を尊重して再稼働を進める」県知事は「国が安全を確認した。再稼働はやむを得ない」と言う。
   戦前から続く責任転嫁の構造です。

大澤:ボクの戦後論では95年以降を「不可能性の時代」と呼んでいます。
   目の前の現実以外に選択肢のない状況を「不可能」と表現した。でも今は、
   その日常すら破綻しそうな気配がある。

鷲田:日常生活の基盤が圧倒的に制御不能になっていると言い換えてもいい。
   大企業は経世済民どころか、投機筋のマネーゲームに巻き込まれ、トップですら自体を制御できない。
   コスト削減を迫られて、雇用を圧迫し、家計を圧迫し、食の安全まで危うくしている。
   押し寄せる濁流に打つ手がない現実を見せつけるかのように、リーマンショックや原発事故が起きた。

大澤:リスクが人間的スケールをはるかに超えている今ほど
   専門的な知や技術が求められる時代はないのに、
   科学的不信も同時に広がってしまった

鷲田:信頼の過剰から不信の過剰への大きなぶれ

大澤:問題は、どうするか…です。たとえば原発を続けるべきか、金融緩和をどうするべきか。
   誰も正解を知らない中で、自分で考えることが大事になる。
   失敗するにしても、自分で判断したのと、他人に丸投げしたのでは、
   まったく意味が違ってくる。

鷲田:納得がいけば、失敗も役に立つ。

      ●

大澤:その一番のレッスンが憲法論議だと思うんです。
   憲法はその国がどんな理念を掲げ、何を国益と考えるかを対外的に示す最重要の外交文書。
   混沌とした世界でどのようなスタンスをとるのか。積極的な議論が必要です。

鷲田:憲法の原語、コンスティチューションの語源は「成り立ち」です。
   最高位の法ではなく、こういう成り立ちの国にしたいという人民の宣言とみるべきでしょう。

大澤:だからわれわれ主権者が語らなきゃいけない。
   その結果、今の憲法を維持するなら、今度こそ自分たちの積極的な選択以外の何物でもない。
   変えるにしても、押しつけられた…とはもう言えない。

鷲田:憲法に関連して、ヘイトスピーチや靖国の問題を、右翼思想や国粋主義と結びつける人もいるけど、ボクは違うと思う。
   グローバル経済が席巻して、国家が揺らいでいることを知りながら、必死に日本にしがみついている感じがする。
   根底にグローバル化の中で冷遇、差別されていることへのルサンチマン(怨念)があると思う。

大澤:つまりヘイトスピーチは思想の問題ではなくて、かなりの数の脱落者を生んでしまっている社会の仕組みの問題です。

鷲田:端的に言えば、格差の拡大ということ。
   資本主義が発展の最終段階を迎える中で、再び貧困が問題化した。

大澤:格差に納得出来ず、強い不満を抱いている人が大勢いるんです。
   人間は不平等に弱いので、極めて不快な思いをしているはずです。

鷲田:特に危ういのは、地域共同体を担ってきた中間層がすっかりやせ細ってしまったこと。
   近代以前の日本では、出産や育児から調理、排泄物処理、治療と介護、治安まで、命に関わる営みはすべて
   共同体でまかなってきた。
   ところが明治期より、超スピードの近代化の一環として国が公共機関を整え、プロを養成した結果、
   市民は公共サービスを消費する「顧客」になってしまった。

大澤:目の前に問題があるときに自分たちで解決しようとせず、
   どこに外注しようかと考える発想。これをなんとかしなければいけない。

鷲田:共同体のチカラって、生きるために一日たりとも免除できない営みを、
   みんなで助け合ってやることで強くなり、鍛えられていく。
   ところが日本の郊外住宅地は、職住分離で労働と切り離され、消費しかなくなってしまった。
   「押しつけ」「お任せ」の根っこにあるのも、市民の「顧客化」です。

  

   

【Sep_21】黒田育世×中沢新一


Dance New Air_関連企画「黒田育世×中沢新一」対談@青山ブックセンター

このふたりの組み合わせを聞いただけですぐさま応募したのだけど、
期待どおり様々な示唆に富んだ対談だった。

まず驚いたのは、育世さんはまったく本が読めない…ということ。
中沢さんの著作を対談前にトライしてみたのだけど、前書きまでが精一杯だった…と。

やはり言語化できないモノを抱え込むからこそ、あれだけのエネルギーで作品が成就するのだと、合点。

言葉にできる&できない…の境界線によって多くのモノが実は抜け落ちていて、
その「できない」部分に意識的であるか否かが、生きることの本質と深く関わっている…という事実が、浮き彫りに。
近代以後、いかに言葉偏重で多くのモノを見喪ってきたか…考えされられた。

政治や立法、司法など、この世を動かしている物事がすべて
言葉によるジャッジで成立している不均衡さに、もう少し意識的であるべきだと。

その後、大脳辺縁系から松果体へと話は進み、
インドヨーガやシュタイナーのオイリュトミーが舞踊の核心に触れていること、
育世さんにとってのダンスは、声帯の筋肉の細かい揺らぎが松果体を刺激し、カラダを動かしているのだ…といったこと、
だから「落ち合っている」での怪我をした海鳥の言葉にならない声は発せられているといった肉体的な話から作品の中核へと話題は遷り、
弱者に寄り添うとは、実は加害者にもなり得るという視点をもつこと…
おのれ自身が残酷なモノを秘めているのだ…という事実を描くことだと語っていたのが、印象的だった。

宗教的観点から中沢さんが語っていた「原始的な神は無力だった」という切り口にも共鳴。

なにもできない存在を崇め、そこに在ることの尊さが「神」である…と敬った日本人の宗教心が白眉だと。
「居てくれるだけで有り難い」と気付くことで世界の奥行きが広がる…といった話は、
育世さんの世界観と通じるところがあって、顫えるものがあった。