
下野新聞_元旦朝刊_新春対談:大澤真幸VS鷲田清一より
昨年の大澤さんの見立ても素晴らしかったが、2015に邂逅した下野新聞の鷲田清一さんとの対話も核心を突いている。
なので、要所を抜き出してシェアします。
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大澤:このままではいずれ破局するという無意識の予感が社会に広がった。
資源も環境も財政も、未知の先の方が崖になっていて、落ちずに済む未来を想像できない。
鷲田:震災後、それまでの価値が失効したところで止まっている。
気分としては、敗戦後の焼け野原に近い。
大澤:敗戦の時はどのように立ち直ったかと言えば、どういうわけか、敵国だった「米国」を
価値基準に据えたわけです。米国にとって良いモノが日本にとって良いモノだと。
つまり日本は戦後、自分たちは米国の大事なパートナーで相思相愛の関係にあるというファンタジーを前提にした。
それが冷戦終結と中国の台頭によって、今、揺らいでいる。
TPPやオキナワの基地、集団的自衛権の問題で米国に協力を惜しまない日本の姿は、
冷たくなった恋人にすがりつくストーカーに見える。
その背景には「米国がそう言えば決まり」と思っている大多数の国民がいる。
普天間の県外移設を掲げた当時の鳩山由紀夫首相が米国に屈した際も、
バッシングの矛先は米国ではなく首相に。
鷲田:誰も責任を負わない「押しつけ」「お任せ」の構造は、根深い。
九州川内原発の再稼働問題も、規制委が「基準には適合しているが安全と断言しない」とし、
首相は「規制委の判断を尊重して再稼働を進める」県知事は「国が安全を確認した。再稼働はやむを得ない」と言う。
戦前から続く責任転嫁の構造です。
大澤:ボクの戦後論では95年以降を「不可能性の時代」と呼んでいます。
目の前の現実以外に選択肢のない状況を「不可能」と表現した。でも今は、
その日常すら破綻しそうな気配がある。
鷲田:日常生活の基盤が圧倒的に制御不能になっていると言い換えてもいい。
大企業は経世済民どころか、投機筋のマネーゲームに巻き込まれ、トップですら自体を制御できない。
コスト削減を迫られて、雇用を圧迫し、家計を圧迫し、食の安全まで危うくしている。
押し寄せる濁流に打つ手がない現実を見せつけるかのように、リーマンショックや原発事故が起きた。
大澤:リスクが人間的スケールをはるかに超えている今ほど
専門的な知や技術が求められる時代はないのに、
科学的不信も同時に広がってしまった。
鷲田:信頼の過剰から不信の過剰への大きなぶれ。
大澤:問題は、どうするか…です。たとえば原発を続けるべきか、金融緩和をどうするべきか。
誰も正解を知らない中で、自分で考えることが大事になる。
失敗するにしても、自分で判断したのと、他人に丸投げしたのでは、
まったく意味が違ってくる。
鷲田:納得がいけば、失敗も役に立つ。
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大澤:その一番のレッスンが憲法論議だと思うんです。
憲法はその国がどんな理念を掲げ、何を国益と考えるかを対外的に示す最重要の外交文書。
混沌とした世界でどのようなスタンスをとるのか。積極的な議論が必要です。
鷲田:憲法の原語、コンスティチューションの語源は「成り立ち」です。
最高位の法ではなく、こういう成り立ちの国にしたいという人民の宣言とみるべきでしょう。
大澤:だからわれわれ主権者が語らなきゃいけない。
その結果、今の憲法を維持するなら、今度こそ自分たちの積極的な選択以外の何物でもない。
変えるにしても、押しつけられた…とはもう言えない。
鷲田:憲法に関連して、ヘイトスピーチや靖国の問題を、右翼思想や国粋主義と結びつける人もいるけど、ボクは違うと思う。
グローバル経済が席巻して、国家が揺らいでいることを知りながら、必死に日本にしがみついている感じがする。
根底にグローバル化の中で冷遇、差別されていることへのルサンチマン(怨念)があると思う。
大澤:つまりヘイトスピーチは思想の問題ではなくて、かなりの数の脱落者を生んでしまっている社会の仕組みの問題です。
鷲田:端的に言えば、格差の拡大ということ。
資本主義が発展の最終段階を迎える中で、再び貧困が問題化した。
大澤:格差に納得出来ず、強い不満を抱いている人が大勢いるんです。
人間は不平等に弱いので、極めて不快な思いをしているはずです。
鷲田:特に危ういのは、地域共同体を担ってきた中間層がすっかりやせ細ってしまったこと。
近代以前の日本では、出産や育児から調理、排泄物処理、治療と介護、治安まで、命に関わる営みはすべて
共同体でまかなってきた。
ところが明治期より、超スピードの近代化の一環として国が公共機関を整え、プロを養成した結果、
市民は公共サービスを消費する「顧客」になってしまった。
大澤:目の前に問題があるときに自分たちで解決しようとせず、
どこに外注しようかと考える発想。これをなんとかしなければいけない。
鷲田:共同体のチカラって、生きるために一日たりとも免除できない営みを、
みんなで助け合ってやることで強くなり、鍛えられていく。
ところが日本の郊外住宅地は、職住分離で労働と切り離され、消費しかなくなってしまった。
「押しつけ」「お任せ」の根っこにあるのも、市民の「顧客化」です。