【Feb_19】いまや大衆が権力者なのだ。彼らが「判断し、判決し、決定する時代」なのだ。


20世紀の倫理-ニーチェ、オルテガ、カミュ by 内田樹

自己肯定と自己充足ゆえに、彼らは「外界」を必要としない。
ニーチェの「貴族」は「距離のパトス」をかき立ててもらうために「劣等者」という名の「他者」を必要としたが、
「大衆」はそれさえも必要としない。彼らは「外部」には関心がないのだ。

「今日の、平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことに関して、ずっと断定的な《思想》をもっている。
このことから、聞くという習慣を失ってしまった。もし必要なものをすべて自分がもっているなら、聞いてなにになるのだ?」

いまや大衆が権力者なのだ。彼らが「判断し、判決し、決定する時代」なのだ。

 大衆社会とは、自己満足、自己閉塞というふるまいの結果、個人が原子化し集団が砂粒化した状態である。
この「分解への傾向」をオルテガは「野蛮」と呼ぶ。

「あらゆる野蛮な時代とは、人間が分散する時代であり、
たがいに分離し、敵意をもつ小集団がはびこる時代である。」 

そこには、自分とは異質な者と対話を試み、
ある種の公共性の水準を構築し、
コミュニケーションを成り立たせようとする指向が欠如している。

「共同生活への意志」をもつもの、それが市民であり、オルテガのいう「貴族」である。
オルテガによれば、「貴族」の条件は身分でも資産でも教養でも特権でもなく、
この「自分と異質な他者と共同体を構成することのできる」能力、対話する力のことである。

つまり、「貴族」とはその言葉のもっとも素朴な意味における「社会人」のことなのである。
社会とはほんらい貴族たちだけによって構成されるべきものなのである。

【on_Flickr】0220_LA→PETALUMA