
詩人の望みはただ高揚と拡大である。
世界の中にのびのびと身を伸ばすことだけだ。
詩人はただ天空の中に頭を入れようとする。
ところが論理家は自分の頭の中に天空を入れようとする。
張り裂けるのが頭のほうであることは言うまでもない。
(G.K.チェスタトン著『正統とは何か』福田恆存訳)
天は地を蓋ひ、
そして、地には偶々池がある。
その池で今夜一と夜さ蛙は鳴く……
ーーあれは、何を鳴いてるのであらう?
その声は、空より来り、
空へと去るのであらう?
天は地を蓋ひ、
そして蛙声は水面に走る。
よし此の地方が湿潤に過ぎるとしても、
疲れたる我等が心のためには、
柱は猶、余りに乾いたものと感はれ、
頭は重く、肩は凝るのだ。
さて、それなのに夜が来れば蛙は鳴き、
その声は水面に走つて暗雲に迫る。
(『四季』中原中也)
これは何も詩人に限った話ぢゃない。
四十七年という余りに短き一生を終えた友を想うと、
この地に偶々出来た池である私は、
その地を蓋う天に向かって蛙の慟哭を走らせる。
友の望みは、ただ高揚と拡大であった。
世界の中にのびのびと身を伸ばすことだけだった。
天空の中に頭を入れ、世界の脈動を肌で感じ、
生きている歓喜を謳歌したかっただけだった。
しかし人間社会は何故か、
頭の中に天空を入れろと強要する。
世界は頭の理解を超えては存在せず、
人間の思考に勝るものは無いと断言する。
この落差が友を追い込んだ…とボクは奮える。
間違ってる、間違ってる、間違ってる。
ひとつの命は等しく賞賛されるべきで、
システム内の優劣で落とし込められる謂れはないのだから。
暗澹たる思いで、今夜も蛙声は水面を走る。
#photobybozzo