
鵜飼哲さんの全ての言葉が、沁みます。
天皇制をこのような目線で捉えたことがなかった。
「排除による包摂」と「包摂による排除」。
天皇が沖縄への慰霊にこだわった…その理由が、
包摂による排除であったとは!衝撃です。
たしかに、今だに「外国人には人権なし」がまかり通る現実と、
憲法10条「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」の指摘は、
同化を強要するこの国の根深い「差別=天皇制」に因してると思わずにはいられません。
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東京オリンピックとは、フクシマを隠ぺいするために招致されました。
安倍首相は「アンダーコントロール」とあからさまなウソをいい、
責任を回避して祝祭で染めあげようとしています。
1964年の東京オリンピックは昭和天皇の国際社会への復帰のために用意されました。
そして2020年大会は新天皇のお披露目であり、もう一つの即位式でもあるのです。
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祝祭とは、従来の常識を軽々と乗り越える「非常事態」なのです。
まさにショックドクトリンです。
ただ違うのは祝祭は自然災害ではなく、自ら招致する「災害」だということです。
ショックドクトリンは災害・戦争に便乗して、新自由主義を推し進めることですが、祝祭もまた同じなのです。
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道徳教育には多くの障がい者が登場しますが、その多くはパラリンピックのアスリートたちです。
彼/彼女たちへの並々ならぬ努力には敬意を払いますが、それが道徳の教材になるというのは私は強い違和感を持っています。
より弱い立場の障がい者に対して「がんばり」を健常者の側が強要することは、差別そのものだと思っているからです。
がんばらなくてもいい社会を築くことが必要であって、
がっばっている障がい者のアスリートを差別する健常者の側の自己批判なしに褒め称えることは、犯罪的でしかありません。
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「排除による包摂」(朝鮮・台湾)と「包摂による排除」(アイヌ・沖縄)の複合によってされた貫徹……
それは「天皇」がその「統合」を「象徴」できないような人間は「国民」から排除するという、徹底した意志でした。
「外国人には人権なし」という排外主義法体系は、戦後一貫した日本国家の意志なのです。
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「包摂による排除」……それは結局、平等な日本国内ではなく、内植民地であるということです。
植民地主義を語ることなしに今、沖縄に対する理不尽を説明することが可能とは思えません。
それはまた、平成天皇が沖縄への慰霊にこだわっていることの理由でもあると思っています。
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日本人コミュニストは拷問の合間に思想転向する機会を与えられたが、
朝鮮人コミュニストはそれさえ許されなかったという事実と似ています。
私は日本人ですから、天皇制を許容することは簡単なのです。
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教育の機会均等という単純な権利でさえ奪われている朝鮮学校の子どもたちがいる。
思想的な自覚の有無にかかわらず、一律に排除する暴力がそこにはあります。
ならば、日本人のおとなである私は、それに抵抗するという選択肢以外の何があるのでしょうか?
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