【Oct_12】東京デスロック『再生』


東京デスロック『再生』@STスポット観劇〜!

デスロック9年ぶりの3本立て、11年ぶりの再演『再生』。
集団自殺をモチーフにした酒宴のようすを30分間に凝縮して、
3度繰り返すことで起こる「何か」を観る者に委ねる…という、
演劇の仕組みとしてもかなりアバンギャルドなこの作品は、
舞台で行われている酔狂が「酒飲みながら音楽に酔う」という結構健全なモノなのだけど、
それが3度「再生」されることで綻んでくるサマが、役者の疲労とともに静かに伝わってきて、
この静かな崩壊がやがて来る「死」を予感させてもいて、背筋氷るものがあった。

7人の役者のやりとりが寸分違わず「再生」されているのだけど、
酔狂の疲れが確実に全身を襲っていて、その疲弊が表情や四肢の動き、汗となって表出する。

それでも1回目、2回目と、やりとりが繰り返されるので、
観ている側は、その疲弊を「見えないもの」とすることも可能だ。
表層的な観劇に済まそうと思えば、役者自身の身体都合は見過ごすことが出来るからだ。

しかし、演劇はナマモノである。

演出以外の役者同士が醸し出す空気感までもがビンビンに伝わってくる。それが舞台なのだ。
この作品は、「再生」されることでこぼれ出る、そんなナマな「何ものか」を伝えることが真意だ。
しかも、そのこぼれ出る身体的綻びは、そのまま生命の必然→死へとつながっているのだから、
その跳躍的な振幅には、目を瞠るばかりなのである。

そして、西田幾多郎が「絶対矛盾的自己同一」と名付けた我々の存在を、
まさに体現するような作品だとも思う。

エントロピーの増大で万物は崩壊、乱雑、無秩序へと向かう宿命なのだけど、
それに抗うかのように秩序を維持しようとするチカラが「ピュシス」そのものであり、
その拮抗の賜物が「絶対矛盾的自己同一」である我々だという。

その迸るような「ピュシス」の顕れに、人は感動するのであり、
多田さんが当パンで書かれた「生きて死んでいくことに光明」を与えることなのだと。

人間はもっともっと「ピュシス」そのものに向き合うべきなのだ。