
マキーフン旗揚げ公演『胎内』@SPACE梟門
作/三好十郎 演出/船岩祐太
【on_Flickr】0127_TAINAI
世界は変わってしまった。
世界中の人々が、昨日までのまんまのリズムで同じ生活を果たしている。
これはなんだ。
これは事実。間違いのない、手に取れる、鮮やかな。
だが同時にこれは、もう意味の失われた、架空の、幻影にすぎない。
必死になってわたしは目の前に見える世界が崩壊し、
二重写しになってゆくのに耐えていた。
ほんとうの世界とは、いったい何か。
これほど確実な目の前の事実、手に取れるものが、
まったくのにせものなのだというのは、どうしたらいいのか。
そのときわたしの中で起こったことは限定しにくい。
だが、はっきりしていることの一つは、
そのとき以来わたしにとって事実と真実とが分離していった…ということだ。
事実の真の姿とか、リアリティとかいうものは、
常に二重の構造を持ち、両義的なものとしてわたしに立ち現れた。
そして、また存在するもの、ではなく、発見されるもの、としてある、ということも。
ひょっとすると、わたしが当時思いもかけなかった演劇などという芸術のジャンルに身を潜めたのも、
この本当のものが本当のもののままで偽りに化してゆくという体験が、
わたしを誘い笛で呼んだのかもしれない、と思うときがある。
(「ことばが劈かれるとき」竹内敏晴著より)
三好十郎の「胎内」には、敗戦後の日本に広く覆ったこの現実と真実の乖離が描かれている…と云っていい。
そしてこの作品が、現代においてもひどく心に突き刺すのは、その乖離がいまだ存続していることへの証左なのだ。
自分が偽りのない信条をこめて語ったことばが、相手にまったく無視され、
相手が語ることばの論理が、自分にはおよそ成立の基盤がわからず、
互いにただ苛立つほかなく、終には人間に向かっているとは思えなくなってくる経験。
ひとつの組織が自己を防衛しようとするとき、
いかに非人間的な論理と行動と、
そして閉鎖した言語を分泌するか。
それは、たとえ仮設された論理にせよ、階級や思想の差を超えて、
一応の共通理解は成り立つ枠組みとしていつのまにか信じ込んでいた
ヒューマニズムの論理が、まったく無効であること、
むしろ自己欺瞞にしかすぎなくなっていたことの自覚でもあった。
その衝撃の中でことばを失った多くの人々があった。かつての敗戦時のように。
(「ことばが劈かれるとき」竹内敏晴著より)
「胎内」とは、敗戦後の日本を覆った自己欺瞞による、精神のインポテンツ(思考停止)を揶揄することで、
不条理に閉じ込められた人間本来の「身体性」回帰を謳った戯曲である。
演劇の真骨頂は、その状況を客体化し、思考回帰へ即すチカラだと、ボクは思う。
演劇の政治性とは、そのような働きを云うのだと、思う。